第16話 憧憬
「あれ、もしかして佐和子ちゃん?」
聞き覚えのない男の声に名前を呼ばれ、佐和子は振り返った。
「あ、やっぱ佐和子ちゃんじゃん! ひさしぶりー!」
「あの……どちら様ですか?」
「えー、俺のこと覚えてない? 山吹だよ、山吹」
クッキリした二重に、浅黒い肌。男性の顔をまじまじと見て、佐和子はようやくこの人物が誰だったかを思い出した。
「山吹くん……って。あの、山吹くん?」
「そうそう! 高校の時、隣のクラスで。たまに廊下で話してたの覚えてる?」
サッカー部のエースだった山吹将は、おとなしい佐和子とは正反対の、活発なタイプで。常に人の輪の中心にいるような、社交的な人物だった。
––––大人にはなったけど、
「佐和子ちゃん髪染めたんだー。黒髪ショートのイメージが強かったからさ。肩まである茶髪ってなんか新鮮。服装は、相変わらずおとなしめな感じだけど。制服も着崩したりしてなかったもんね、佐和子ちゃんは真面目ちゃんだったし」
勢いよく楽しげに語る山吹に、佐和子は思い切り気圧されていた。
早く解放してほしい一心で、当たり障りない反応を心がけていたのだが。
どうやらそれが、先方には好印象だったらしい。
「いやー、懐かしいなあ。ねえ今、時間ある? もしよかったら飲みに行かない?」
「え」
一瞬困った顔をしそうになったが、それを堪えつつ、佐和子は駅の時計をチラリと見る。笹野屋邸からの帰り、スーパーでお酒を買って帰ろうと散歩がてら駅前まで足を伸ばしたところだった。
あのまま真っ直ぐ帰ればよかったと、佐和子は密かに後悔した。
––––廊下で話してたって言っても、私この人とそこまで仲が良かった記憶はないんだよなあ。どうしよう。
昼過ぎから降り始めた雨は帰る頃には止んでいたが、湿った空気の中誰かと飲みに行くというのも、気分的に嫌だった。
ただ、せっかく誘ってくれているのに、大した理由もなく断るというのも申し訳ない。
「……少しなら大丈夫」
「よかった! じゃ、駅前のおすすめのところがあるから。そこ行かない? スペインバルなんだけど」
「うん……任せるよ」
キラキラとした陽のエネルギーに満ちた山吹は、佐和子には眩しすぎて。決して威圧的な態度を取られているわけではないのに、尻込みしてしまう。
––––あれだけ友達が多かったのに、よく私のことを覚えてるなあ。私なんか、なにを話してたかさえ記憶にないのに。
あれよあれよといううちに。佐和子は彼に連れられ、東口の個人店が並ぶエリアへとたどり着いていた。
「ここだよ。大学の時の友達がやってる店でさ」
「ああ、そうなんだ」
人間二人が横に並んだくらいの幅しかない、奥に長いウナギの寝床のような店内。作り付けのカウンターに、椅子が十脚置かれている。すでに半分くらいが埋まっていて、なかなか盛況なようだ。
「おう、山吹。またきてくれたのか。今日は彼女連れ?」
「ちげーよ。同級生。たまたま駅で会ってさ」
「珍しいじゃん。こんな早い時間に」
「今日は出先から直接帰ってきたから」
山吹と店主の男性の親しげな会話を聞きつつ、佐和子は縮こまりながら勧められた席に着いた。本当のことを言えば今すぐ帰りたい。元来人付き合いの良い方でもないので、なにを話したら良いのかもわからなかった。
「で、佐和子ちゃんは今仕事何してんの?」
色素の薄い、茶色い瞳が佐和子を覗き込む。
いきなり会話を振られて身構えた。
「え、仕事……?」
一応仕事はしているが、まさか「あやかし瓦版」の編集部で働いていると言うわけにはいかない。
「あ、ちなみに。俺は今ね、不動産会社のマーケティング部で働いてて」
「あ、そうなんだ。私も……」
「え、マジか。佐和子ちゃんも今マーケ? そーなんだ、めっちゃ奇遇じゃん」
もごもごと口籠もっている間に、話が進んでしまった。
コミュニケーションのうまい人というのは、音楽でも奏でているように、どんどんと流れに乗って話題を進めてしまう。佐和子はどうも、そのタイプの人間が苦手だった。そういう「流れ」に乗るのが不得手だからだ。
––––本当は、「前の会社で」私もマーケティングをやっていた、って言いたかったんだけど。
「そっかそっか。マーケ楽しいよね。俺さー。今新規のプロジェクトの担当してて」
そこからしばらく、山吹はいかに今の仕事が楽しく、自分が活躍しているのかを、悦に入って話し続けた。新卒で入社した当時は営業だったらしいが、実績が認められてマーケティング部に異動が決まったらしい。それ以降も次々実績を残した彼は、ついに期待の新プロジェクトの担当まで任されたのだとか。
佐和子は愛想笑いで適当に相槌を打ちつつも、心の中では卑屈な気持ちが頭をもたげていく。
––––私だって自分なりに頑張って仕事に取り組んだけど。認められることなく散ってしまった。どうして私はダメだったんだろう。なにが彼と違ったんだろう。
山吹が羨ましかった。自分もこんなふうに、努力を認められて、活躍の場を与えてもらえたらよかったのに。
佐和子はカウンターテーブルの下で、両手をぎゅっと握りしめる。
「山吹くん、ごめん。私そろそろ帰らないと」
会話が途切れたところを見計らい、佐和子はそう山吹に声をかけた。
笑顔を繕うのが疲れてしまった。そんなに飲んでもいないはずなのに、こめかみが痛む。
「え、あ! もうこんな時間か。悪い悪い。ねえ、もしよかったらさ、連絡先交換しない?」
「あ、うん……」
気が進まないながらも、佐和子はスマホを取り出し、自分のアカウントのQRコードを映し出す。こんなふうに誰かと連絡先を交換するのは、ひさしぶりだった。少なくとも、人間とは。
「また飲みに行こ! って言っても、俺も結構仕事忙しくて。なかなか誘えないかもだけど。じゃあね!」
嵐のような人だ、と佐和子は思いながら、駅の方へ消えていく彼の背中を見送った。
山吹の消えた方向を見つめながら、佐和子は手のひらをふたたび握りしめる。
「……私も、もっと頑張らなきゃ」
せっかく仕事に前向きになり始めたのだ。過去はもうどうにもならないが、今は永徳から「人間編集部員ならではの価値」を求められている。編集部の面々とも、少しずつではあるがコミュニケーションを取れるようにもなってきた。
––––もっともっと仕事をして、少しでも早く一人前になろう。
アルコールでほてった頬を両手で軽くたたき、佐和子は夜の闇の中を歩き始めた。
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