第8話 デートファッション
出勤二日目。佐和子は念のため、前日よりもさらに早めに家を出て、笹野屋邸へ向かう。昨日ほど気持ちよく晴れてはいなかったが、寒さは少し緩んで、過ごしやすい気温になっていた。
––––よかった。今日は笹野屋さんはいないや。
昨朝永徳が立っていたあたりを警戒して見てみたが、今日はほとんど車の止まっていない駐車場がそこにあるだけで、彼の姿はない。そのまま公園の目の前を左に曲がると、根付のおかげか、「笹野屋」と表札のかけられた屋敷がそこに鎮座していた。
玄関から中に入り、職場の襖をそっと開いて中を覗き見ると、編集長である永徳と刹那の姿が見える。まだ勤務時間前ということもあって、ほとんどの社員は出社前のようだ。
「おはようございます……」
挨拶をすると、永徳と目があった。刹那にはやはり、聞こえていないふりをされている。
「ああ、葵さん今日も早いねえ。あ、お使いは済ませてくれたかい?」
「はい、ここに」
佐和子はマイバックにぎっしり詰まった雑誌を永徳に見せた。すると彼はにこりと笑い、刹那のいる席のすぐ近くにある棚を指差した。
「資料はそこの本棚に入れておいて。社員が自由に読める資料スペースなんだ」
「わかりました」
佐和子は刹那の様子を伺いながら、おそるおそる本棚の前まで進む。
––––
ぼんやりとそんなことを考えながら、雑誌を本棚に入れていく。五冊目を差し込んだあたりで、背後から視線を感じて振り返った。
「うわっ! ちょっと、急に振り返るんじゃないわよ!」
「わああ! す……すみません!」
刹那が、佐和子が差し込んでいるファッション誌の背表紙を覗き込んでいたのだ。
突如背後に現れた日本髪の女性の首に佐和子は思わず飛び上がったが、ふと、井川との会話を思い出す。
––––これは……うまくいけば、刹那さんとの会話の糸口になるかも……。
「あの、刹那さん……その……」
「なによ、なんか用? 忙しいのよね、あんたと違って。用件がないなら、さっさとそこをお退きなさい!」
佐和子の眼前まで首を伸ばし、まるでカツアゲをする不良の如く鋭い眼光を向けてくる刹那に、佐和子はすくみあがり、キュッと唇を結ぶ。
給与はいいけれど、やっぱり病み上がりにこの職場を選んだのは間違いだったんじゃないだろうか。こんなに
下向きな気持ちが胸に広がり、心が黒く染まる。
一度味わった失敗体験は、心に深く根を張っており、少しでも嫌な事があれば佐和子を谷底に引き込もうとする。仕事を辞めてからこれまでも、現状から這いあがろうとして、小さな綻びをきっかけにふたたび自室に引きこもることがよくあった。
しかし今日は。
昨日の永徳の言葉が、暗くなった心の奥で、唯一光を保っていた。
『これは君にしかできない仕事だ』
気づけば佐和子は、刹那の横に立って、怯えながらも口を開いていた。
「あの、刹那さん……」
「なによ」
「私、昨日。鶴見駅の駅ビルに入ってる書店で、井川圭介くんという男の子に会ったんです」
想定外の言葉だったのだろう。刹那は目を見開き、その場で固まる。
「あの、私初対面だったんですけど。デートに誘っている彼女が、なかなか首を縦に振ってくれないって、悩んでるんだって話を聞きまして……そのお相手が……あの、刹那さんて聞いて」
「圭介が、あんたに相談したって……?」
「えっと、あの、それで……」
みるみるうちに顔を真っ赤にした刹那は、机を思い切り叩いたかと思うと、佐和子に向かって叫んだ。
「なんであんたなんかに相談するのよ! 腹立たしい!」
そう言うと、刹那は勢いよく立ち上がり、襖の外へと出ていってしまった。
怒気に押されてその場で尻餅をついてしまった佐和子は、しばし唖然としていたが。自分の情けなさに、涙が滲んだ。
––––どうしよう。怒らせちゃった。
雑誌を抱えていた両手が、震えている。
会話の糸口を見つけるにしたって、いきなり踏み込みすぎたのだ。
これで完全に嫌われてしまった。指導係に見放されては、どうやったって仕事を続けられるはずがない。
––––もうだめだ。ここではやっぱり働けない。
手の甲で涙を拭いつつ、床に手をついて起きあがろうとすると、頭上から声をかけられた。
「葵さん」
佐和子が顔を上げると、目の前には永徳が立っていた。
サファイアを思わせる青い瞳が、優しく笑っている。
彼は佐和子の腕を引っ張って、起こしてくれた。
「私、余計なことをしてしまいました……刹那さんの個人的なことに、首を突っ込んで。やっぱり、私……」
俯いたまま、涙声でそう言葉を絞り出した佐和子に対し、優しく諭すように、永徳は言葉をかけた。
「刹那はね、ちょっと頑固なところがあって。なんでも自分で解決したがる傾向があるんだ。だけどね、あれは相当思い詰めてる。あやかしが人間に恋をする、って別にあり得ないことじゃないんだけど。まあ、よくあることではないんだ。彼女にとってもはじめての経験のようで。刹那なりに、いろいろ戸惑っているんだろうねえ」
知ったふうの永徳の話し口に、佐和子は顔を上げた。
「もしかして笹野屋さん、刹那さんの恋人のこと、ご存じなんですか……?」
––––そういえば。
昨日の去り際、「あやかしと人間のカップルについて、葵さんにアドバイスを貰いたい」と言っていた。お使いと称して書店に向かうように言ったのも彼だったわけで。
––––もしかして、笹野屋さん、私が刹那さんと打ち解けるきっかけを与えようとしているんじゃ––––。
「……笹野屋さん、昨日井川くんがあの書店に来るの、知ってたんですか?」
「俺の能力のひとつに、遠方の出来事を視ることのできる、千里眼というのがあってねえ」
「やっぱり……」
「刹那は、三ツ池公園にいるよ。企画が煮詰まった時とか、よくそこで寝転がって頭の中を整理するらしい。具体的な場所は、わかるね?」
「い、行ってきます!」
「気をつけて」
佐和子は襖を飛び出し、井川が話していた「例の場所」へと向かっていった。
「たぶん、あそこだよね?」
刹那がひとりになりたくなった時に向かう場所、と聞いてピンときた。おそらく、頭を整理するために向かったその場所で、井川に出くわしたのだ。まったく別の目的でその場にきていた二人が度々顔を合わせるうち、恋に落ちたということだろう。
––––なんか、いいなあ。ロマンチックで。
佐和子は若干の羨ましさを感じつつも、緊張の面持ちで目的の場所に到着した。
「刹那さん!」
「……あんた! 追ってきたの?
イライラの煮詰まったような表情を向けられ、佐和子は怯む。
しかしこのまま引き下がっては、せっかく永徳がくれたチャンスを無駄にしてしまう。
佐和子は地に着いた足に力を込めながら、ゆっくりと刹那に語りかけた。
「あの、もし、悩んでいるなら。独り言だと思って悩みを呟いてみませんか。ひとりで思い詰めて煮詰まってるより、ずっといいと思うんです」
「……独り言」
「私、存在感のなさなら自信があるんです」
「そんなものに自信を持ってどうするのよ」
「……はは。まあ、そうなんですけど」
自分の口から出た言葉ではあったが、言ってしまったあと、佐和子は自分で情けなくなった。頑張っても足掻いても、誰にも気づいてはもらえない。そういう存在なのだと改めて自分にラベルを貼ってしまった気分だった。
「まあ、いいわ」
「え」
「そこまで言うなら呟いてやるわよ、独り言」
はあ、とため息をついた刹那は、自分が座っているベンチの横を指差した。座れと言っているらしい。
佐和子がたじろぎながらも隣に座ると、刹那は池の方を向いたまま、話し始めた。
「……はじめは変な人だなと思ったのよ。ほとんど毎日、しかも夜に。ひとりでこのベンチに座ってぼーっとしてるの。泣いてる時もあったわ。幽霊なんじゃないかと思った」
佐和子は、相槌は打たず、刹那と同じように池を見ていた。それが逆に良かったのか、刹那はだんだんと
「自分の情けないところを、躊躇なく
ふたたびため息をつき、刹那は眉間に皺を寄せた。
「デートしようって言われて、戸惑っちゃったのよ。せっかく好きな人と出かけるんだもの。綺麗な格好で出かけたいじゃない? でも相手は人間だから。きっとアタシの思う『綺麗』と、人間の思う『綺麗』は違うし。変な格好で行って、彼が恥ずかしい思いするのはやだなって。圭介が服を買ってあげるって言ったこともあったけど。あの人どうもセンスが良くなくて。それにデートの服を選ぶって、女の楽しみでもあるのよ。相手のために、自分を最高に綺麗に見えるように着飾るっていう楽しみ。あんたにもわかるでしょ」
独り言、だったはずなのだが。
刹那は無意識なのか、佐和子に応答を求めてきた。それが嬉しくて、佐和子はじわりと心が温まるのを感じる。
「はい、とってもわかります……悩んでる時間が楽しいんですよね」
「そう! そうなのよ! わかってくれる? でもねえ、アドバイスしてくれる相手がいなくて。自分で人間の雑誌を見ようにも、何が自分に合うのかさっぱりだし。そもそも買いに行くのも勇気がいるし……」
「刹那さん、おこがましい申し出とは思うんですが……」
「なによ」
「私が、刹那さんの好みを聞きながら、人間とのデートに合いそうな服を選ぶ、っていうのはいかがでしょうか。お買い物だって私が付き添えば、ひとりよりは買いに行きやすいでしょうし」
「……!」
刹那の悩みを解決できるのは、人間、あやかしどちらの世界にも理解がある人間の女性しかいない。
そしてそんな人物は、刹那の身近ではここにいる自分しかいないと思ったのだ。
「で……でも……」
「刹那さん、井川くんと綺麗な格好でデートがしたいんですよね?」
しぶる刹那にそう佐和子が念を押すと、彼女は不機嫌そうな顔で叫んだ。
「……まったくあんたは! 陰気な上にお節介なのね」
刹那にそっぽを向かれてしまい、やっぱり差し出がましかっただろうかと俯く。
しかしそのあと出たひと言に、佐和子は頬を綻ばせた。
「まあ、どうしてもって言うなら……手伝わせてあげてもよくってよ」
池のほうに顔を向けていた刹那の頬は、ほんのり赤く染まっている。
どうやら素直にはお願いできないタイプのようだ。
「え、ほんとですか!」
「あと! 刹那さん、ってなんか、おばさん扱いされてるみたいで嫌なのよね。アタシのことは、刹那ちゃん、とお呼びなさい。うちの組織はね、編集部員の間に上下関係はないのよ。だから敬語もなし!」
「え、あ、わかりました。……あ、わかった……」
「よろしい。とりあえず、編集室に戻りましょ。そろそろみんな出勤してくる頃よ」
「……はい!」
あやかし瓦版の編集室に戻ると、すでにほとんどの社員が出社してきていた。
佐和子と刹那が一緒に戻ったのを見て、永徳は両眉をあげたかと思うと、優しい微笑みを浮かべる。
佐和子がお礼を言おうと口を開くと、永徳は首を横に振り、そっと人差し指を唇に当て、満足げな顔をしていた。
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