第1181話・隠居
Side:斎藤道三
元日のこの日、新九郎を筆頭に一族が揃った新年の挨拶で隠居を宣言した。織田に臣従して以降は家臣が減ったものの和やかな正月であったが、この時ばかりは静まり返っておる。
そんな皆に、かつて疑心に満ちておった頃をふと思い出してしまうわ。
「家督は新九郎。そなたに継がす」
「ははっ」
すでに皆には内々に根回しをしてある。斎藤家の下を離れた美濃の国人衆らにもな。唯一異を唱えたのは目の前にて頭を下げる新九郎であったな。己はまだわしに及ばぬと言い、また美濃にはわしが必要であるとも言うてのけた。
「わしの隠居をもって、過ぎたることはすべて忘れよ。守護代家であったことも土岐家を潰したこともな。所領はすべて大殿に献上する。新九郎、そなたは斎藤家の禄を継げ」
「父上……」
新九郎の言葉でわしは隠居が正しかったのだと実感した。ようやく斎藤の家を背負うに値する男となったのだと知り嬉しく思うた。
「世は変わる。いや、変えねばならぬ。わしのような不忠者を二度と出さぬようにな。皆のおかげで最後に面目が立った。礼を申すぞ」
長年座っておった上座を離れ、皆の前にて深々と頭を下げる己に心底安堵する。
「殿……」
暗殺されるか、謀叛で討たれるか。己のしてきたことがいずれ己に降りかかる覚悟はあった。それだけに、こうして皆の前で自ら隠居を決めて家を継がせられる喜びを感じずにはおられぬ。
「では父上には隠居した先代として上座に座っていただく。これからも働いてもらわねばならぬのでな。久遠殿からもくれぐれも政から距離をとった安楽な暮らしだけはさせぬようにと頼まれておるのでな」
「フフフ……」
「ハハハ……」
込み上げてくるものが吹き飛んだのは新九郎の言葉であった。一族の者が皆笑うてしもうたではないか。
「確かに、ご隠居様にはまだまだやっていただくべきことが多うございますな」
「然り。織田は安泰なれど、近隣との暮らしの違いは恐ろしいほどじゃ。久遠殿の申す通り今こそご隠居様のお力が必要じゃ」
「こら、少しは年寄りを労わらぬか」
「ハハハハハ!」
皆、理解しておる。新たな国を。次の世を。わしには決して出来ぬことであろう。
「苦しき時もございましたな。悔やむ時も。されど泥水を啜ってでも生きねば先はない。久遠殿は家臣に忠義は生きて尽くせと言うておられるとか。今ならその言葉がよう分かりまするな」
長きに亘り苦労を共にした者らは酒を酌み交わし、今までの歩みを思い返す。
無論わしとて野心がなかったとは言わぬ。この手に美濃が欲しかった。己の力で国をまとめ、天下に名を轟かせるような立身出世を何度も夢見たこともある。
されど……。
「天を束ねるは天が選ぶ者でなくばならぬ。我らの生きる道は天が決めておったのであろう」
大殿はいかなる正月を迎えておろうか。久遠殿は変わらぬであろうな。
わしは己の定めを見極めたのだ。天が示した道をな。
蝮と呼ばれる不忠者ですら仏の慈悲にて改心させた。そんな先例でよいのだ。
Side:氏家直元
今頃、稲葉山城ではいかがなっておろうな。山城守殿の隠居を聞いた時は、来るべき時が来たのだと思うた。
隣国とは難しきものだ。長年に亘り積み重ねた
それが今では美濃で織田を追い出そうとする者は皆無と言えよう。
真っ先に斎藤家から離反して織田に降ったわしが言えることではないが、山城守殿が良い形で隠居なさることが出来て正直安堵したわ。
「皆に言うておく。わしは所領をすべて織田の大殿に献上致す。斎藤山城守殿も隠居と共に所領を手放すそうだ。不破殿も安藤殿も稲葉殿も同じだ。美濃は織田の一員として新たな国を造るのだ」
昨年の師走に山城守殿から、隠居と所領を献上すると言われた時に驚きはなかった。遅かれ早かれそうなるのは理解しておったからな。
わしも西美濃の主立った者らと話し合い、皆で山城守殿と共にすべての所領を献上することに決めた。
今のままでもやっていける。そう思うところもあった。城と所領は先祖から受け継いだ、一族にとってなによりも守るべきものであるものに変わりはない。
されど……。
今までの治め方ではいかんのだ。親と子が兄と弟が血で血を洗う戦の世を終わらせるには、国人や土豪が領地というものを持たぬほうがいい。
無論、打算もある。織田ではいずれ領地をすべて召し上げる日が来るはずだ。その時までしがみついても多くの者らと一緒に扱われて終わりだ。率先して己から献上してこそ認めていただけるはずだ。
一族で異を唱える者はおらぬ。思うところがある者はおるようではあるが、これも時勢の流れだと理解しておろう。
かつては田畑を耕しておった皆も、今は文官や武官として勤める日々。中には警備兵として働く者もおる。
「今こそ忠義を示す時でございましょう」
すでに隠居しておる一族の長老が、皆の気持ちを代弁した。
領内にも紙芝居がきて、具合が悪うなると医師に診てもらえる。田仕事のない時期は賦役で働き、子らは寺で学問や武芸を習う。
すべて織田により与えられたものだ。
この冬には大根をいかに植えるか、教えに参ったのは久遠殿が育てておった孤児であった。元服したばかりの元孤児が、村々を回り熱心に教えておる姿に皆が驚き、久遠殿のなされておることを改めて理解した。
あの御仁ならまことに我ら皆の明日を守ってくれる。そう涙を流した者すらおったと聞き及んでおる。
「またいつか、久遠諸島に行ってみとうございますな」
「ああ、そうだな」
皆で苦楽を共にしたことを語り、酒を飲む。共に久遠諸島に行った者は懐かしそうにそう語った。
学問とは新しき知恵を見つけること。わしが久遠殿に教わったことだ。武芸と変わらぬ。日々の積み重ねが大事なのは同じなのだ。
「北伊勢の愚か者らのようにはなりとうございませぬな」
「ああ、まったくだ」
ここ美濃にも北伊勢にて織田に逆らう者らが明け渡した無量寿院の末寺に入り、野盗の真似をしておるという知らせが届いておる。
高田派の坊主が怒っており、わしまでなだめる羽目になったからな。争うたところで得るものなど何もないというのに。
奴らは六角と北畠と組んで織田と戦うつもりだと聞くと呆れるほかないわ。北畠など宰相様がよく尾張に姿を見せておるくらいぞ。
まっこと知らぬというは愚かで罪なことだな。
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