第1175話・ひょんなことから縁が生まれる

Side:久遠一馬


 長尾家一行がお土産を手に越後への帰途に就いた。


 正直、景虎さんについては、よく分からなかったなというところが本音だ。信秀さんは変わった男だと言っていたけど。


 冷静に考えると、ろくに関わりもない尾張で心を開くなんてありえないことだ。とはいえ誼を深めようとするわけでもなく、己を高く見せようともしない。


 なにを考えている人なんだろうね。


 酒好きなのは間違いないけど。旅の途中で泊まったところの話では、塩をあてにしてお酒を飲んでいたとか。体に悪いからやめたほうがいいと思うけど、それを指摘するほど親しくもないしね。


「姫様、お上手ですね」


「はい、父上にさしあげたいのです」


 今日はお市ちゃんが朝からウチの屋敷でお清ちゃんに編み物を教わっていた。ウチの女衆はほぼみんな編み物が出来るようになっている。最初はエルが始めたことだけど、お市ちゃんや信長さんが身に着けるようになって以降、尾張では超高級品として知られているんだ。


 贈り物としても喜ばれる。そのため滝川家とか望月家の女衆も暇を見つけては編み物をしている。


 そろそろ牧場で羊の飼育を検討してもいいかもしれないな。


 お市ちゃんに関しては、学校で学問や武芸も習っているけど、相変わらず興味を持ったものはエルたちに教わることが多い。


 少し前には織田一族の女の子たちを連れて、シンディの下に出向いて紅茶の淹れ方と作法を習ったと聞いているくらいだ。


 信秀さんが好きなようにさせているせいか、お市ちゃんは織田家で一番自由な暮らしをしているかもしれない。以前はうつけと呼ばれるほど自由奔放だった信長さんは今ではすっかり大人になって落ち着いちゃったからね。


「思った以上か」


「士気が違いまするからな」


 清洲城に登城すると、三河の矢作新川の賦役について報告が上がっていた。知多半島の用水と共に織田家で一番力を入れている事業だけど、こちらの工事の進捗が想定以上に早いんだよね。


 賦役は土務総奉行の氏家さんの管轄だけど、工事計画はほとんどエルたちが策定している。矢作新川の計画自体は現地の調査もした春たちが立案したものだけど。そのためか、定期的にオレにも報告が上がってくるんだ。


 氏家さんとは立場としては対等なはずなんだけど。扱いが上司に近いのは仕方ないんだろうな。自然とオレが総奉行のとりまとめをするような役目になりつつあるんだよね。


「無理をさせていませんか?」


「はっ、そのあたりは厳命しております。されど働かねば申し訳が立たぬと考える者が多く、止めても働く者がおるほどにて」


 まあ情報は多角的に集める必要があるので、ウチでは別に忍び衆からの報告も受けているけど、そちらとの齟齬もほとんどない。


 もともとこの時代は労働環境がどうとか言えるレベルじゃないんだけどね。一日八時間くらいを基準にして、午前と午後とお昼に休憩を入れて働かせるように命じてある。さらにこちらの想定より早くても遅くても報告が上がるようにしていたんだけど。


 放っておくと畑仕事と同じように夜明けから日暮れまで休みなく働くしね。当たり前に食わせて働かせるだけで神様の如く感謝されるのは時代のせいだろうね。


 正直、領民の忠誠が恐いほどだ。この調子だと矢作新川の造成は来年の夏には概ね完了するんじゃないかな。


「実のところ、働きすぎるなと言われて戸惑う者が未だにおるようでございますな」


「弓と同じと考えてください。常に張り続けていると切れてしまうように、人の体も怪我をしてしまいます。何事にも余裕があったほうがよいかと」


 シャベルやツルハシ、鍬など鉄製の道具は賦役の現場で珍しくないほど普及している。最近だと壊れた道具を補修することを専門とする職人すら現場にいるくらいだ。あとは鉄で強化した猫車や大八車とかも使っていて、この時代にしては間違いなく作業効率が格段に高いのもあるんだ。


 あとはほんと何事も余裕を持たせてやらせたいね。今日明日のご飯が食べられない経験をしているこの時代の人はどうしても余裕がなさすぎるんだよね。




Side:北畠具教


「相も変わらず細かな気遣いをするの」


 尾張から無量寿院のことで朝廷に嘆願してほしいと文が届いた。父上はそれを見て少し呆れたように笑うた。


「気遣い、にございまするか?」


「嘆願など己らで出来よう。とはいえ伊勢のことを我らの頭越しに嘆願しては我らの面目を潰して波風が立ちかねぬ。さすがの織田も寺社には苦労しておるようじゃしの」


 言われてみればそのとおりだ。嘆願などわざわざ我らに頼む必要はあるまい。嘆願してくれるならば返礼として酒を贈るとある。すべては我らへの気遣いか。


 それにしても坊主というのは困った者らだ。今では無量寿院と尾張高田派が争う様相を呈してきた。各々に主張があり大義がある。兵を用いず論ずるなら勝手にしろと言えるが、放っておけば力で解決しようとするからな。


「無量寿院へのあれは儲かっておるのか?」


「それはもう。ただ長くは続かぬと内匠助は申しておりますが」


「怖い男よな。寺社から銭を巻き上げ、その銭で隣国を富ませようとする。一番に民の暮らしを憂い、信義に反する者は寺社であっても容赦せぬか。まことに御仏の使いではあるまいな」


 父上から見ると一馬は怖いのか。当人が知ればいかが思うであろうな。


「漬物ですら敵わぬというのは口惜しいの」


 先日、一馬から届いた大根の漬物を口にして父上はそうこぼされた。いかなるわけか父上は大根の漬物を気に入られておる。白飯と大根の漬物があればよいとまで言うほどだ。


 同じ大根の漬物ながら、城で漬けさせたものとでは味が違う。確かにそれすら敵わぬのは口惜しいと言えるか。


「長野も大人しゅうございます。大湊の水軍衆も忙しさから争う暇もないとか」


「武芸ばかりに現を抜かすそなたには困ったものだと思うたが、それが今の北畠を切り開くとはな。なにがどう転ぶか。世の中とは分からぬものよ」


 長野は織田が安濃津で町と湊を整える賦役を始めると驚いておったな。恐ろしいほどの人を集め、うらやむほどの銭と米を湯水のごとく使う。然様な家とは戦えぬとな。


 大湊の水軍衆など久遠家の南蛮船を間近で見るからか、もっと従順だ。つまらぬことを考えるより大人しく働いたほうが暮らしは良くなるからな。


「気になるのは公方様か。随分と長く病に臥せっていると聞くがいかほど悪いのか。管領だけではあるまい。尾張がこれ以上の力を付けると面白うないのはな」


 六角でも織田に倣い、新しい領地の治め方を模索しておる。確かに織田は尾張・美濃・三河・飛騨・近江・伊勢・志摩にまで勢力を伸ばし、いささか力を付けすぎておる。足利将軍家が力を付けすぎた大名を潰そうとするのは過去を振り返れば明らかだからな。


「大きな争いになりましょうか?」


「いずれなるであろうな。されど我らが思う戦はないのやもしれぬ。最早、この流れは天が止めねば止まるまい」


 織田の治世は悪うない。それを理解する故に父上もこの先のことを案じておられる。


 されど……。


「さりとてこの漬物が食えなくなるのは困るしの」


 久遠の知恵と技の価値を父上もご理解されておられる。


「天が動けば地も動くやもしれませぬ」


「そうよな。織田と久遠に恩を感じる者らが黙っておるまい。わしも漬物の分くらいは働かねばなるまい」


 大根の漬物ひとつで父上の御心を動かしたか。それが一馬の怖いところだ。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る