第1085話・子供の成長
Side:菊丸
「近江は変わらぬな」
師と共に伊勢を旅しておると、尾張より北近江で謀叛が起きたと知らせが届いた。夢幻のごとき久遠諸島を思い出すと、あまりに変わらぬ世に嫌気がさす。
「戻るか?」
「いえ、このままで構いませぬ」
師は大乱になるかと案じたのか、近江に戻るかと問うてくれたが、不要だ。一馬からも織田と朝倉は動かんと知らせが届いておる。あれは六角が治めるべきことだ。
背後で小物が動いておることは面白うないが、あれには今しばらく好きにさせておく。三好とていずこまで信じてよいかわからぬのだ。織田が動ける時まで足利義藤は動かぬほうがいい。
六角には世話になっておる。六角が危ういというのならば動くべきであろうが、北近江三郡は割れておると聞く。左京大夫ならば懸念はあるまい。
晴元よ。思う存分、天下を荒らすがいい。己の所業が新たな世を生むことになるのだ。
「しかし、織田領を出るとすぐにわかりますな」
「確かに……」
オレの言葉に師が口を閉ざすと、兄弟子が如何とも言えぬ顔で話を変えた。ここは北畠領だ。北畠と伊勢が如何なったか見たかったことと、神宮に参拝に行く途中なのだが、あちこちに関があって中には気を抜けぬ村もある。
余所者など来るなと言わんばかりの村も珍しくない。隙あらば寝首を掻こうとする村もな。
今や尾張ばかりか美濃、三河、伊勢と織田の所領が広がっておるが、程度の差はあれど織田が治める地ではそこまで酷い所はない。
「目に見えて違いがわかる。織田も大変だが、周囲も大変であろうな」
師はそんな兄弟子らの言葉に少しため息をこぼされた。鹿島の地も決して他人事ではない。なにか出来ることはないかと近頃悩んでおられる。
多くの者は地獄のような荒れた世ではなく、飢えずに生きられる世を願う。
ならば食べ物があればいいのかと言えば、そう容易いことではない。立身出世を願い争う者や、神仏の名を騙り争う者が後を絶たぬ。
北近江三郡の者らにも言い分はあるのであろう。されど気に入らぬと兵を挙げる世を終わらせねばならん。
久遠諸島は夢幻ではないのだ。今もあの海の向こうにあるのだからな。
Side:久遠一馬
「いい天気だね」
ちょうど起きていた大武丸と希美を連れて朝の散歩をする。
早いものでふたりが生まれて九ヶ月が過ぎた。もうハイハイで移動をするから、目を離すと危ない。なんにでも興味を持ち、周りの人をわかっていると思う。
そろそろ言葉をしゃべる頃らしく、周りの人が期待している。みんな自分の名前を覚えてもらいたいらしいね。
田んぼの稲穂も重そうに垂れはじめている。正条植と種籾の塩水選などは領内のほぼ全域でやれた。一部の寺社が条件に難色を示して除外されたけど、飢えるほどでもないことで条件が厳しいと感じたところがあるようだ。
ウチが持ち込んだ新品種は直轄領を中心に作付面積が一気に増えた。ただこれに関して、直前で条件に田んぼの区画整理が加えられた影響で主力品種とはなったが、区画整理に抵抗して旧来の赤米や黒米を植えたところもそれなりに残った。
区画整理は信秀さんの
三河は本證寺の跡地で大規模にやったことと、昨年あった野分の水害からの復興で半強制的に区画整理をしていて進んでいる。北伊勢は間に合わなかったが、今年の収穫後から大規模な区画整理が始まる予定なんだ。
皮肉な話だが、食うに困らない尾張と美濃の地域で区画整理に消極的なところがそれなりにある。
これ以上の遅れは良くないのではという話となり、織田の改革に従わないなら利を与えない。シンプルな条件で区画整理を進めようということになった。
「クーン」
家臣が持つリードをぐいぐいと引っ張り走る仔犬たちと違い、ロボとブランカはオレの歩くスピードに合わせてくれる。大武丸と希美のことも見つつ、二匹はのんびりと散歩を楽しんでいるようだ。
新しい屋敷もだいぶ形になっている。ここの建築現場を見るのも日課だ。一国一城の主というわけじゃないけど、みんなで相談して設計した屋敷だからね。楽しみだ。
庭のひまわりはそろそろ枯れ始めていて、収穫の頃だな。吉法師君たちと収穫しようか。
今日も暑くなりそうだなと空を見上げると、ふと北近江のことが気になる。刈田をしていると報告があった。また大量の流民が来る。
戦は六角が勝つだろう。野良田の戦いのようにはなるとは思えない。北近江側は織田が来ると嘘をついてギリギリまで動員しても二千から三千がせいぜいだろう。史実では一万は集めたというが、北近江三郡すら纏まっていない。
最新の情報では六角は全域に動員をかけたと知らせが来たので、史実同様に二万五千か二万は集めるかもしれない。
将軍義藤さんを擁するという看板もある。また周辺はどこも動く気配がない。北近江三郡には勝てる要素がないんだ。せめて史実の浅井長政となる子供が大きくなるのを待っていれば、野良田の戦いのようになったのかもしれないが。
北近江は史実でも名を残している武士がそれなりにいる。浅井から織田へと主を変えながら生き残った者の中には、秀吉が天下を取ったことで立身出世した者もいるからだ。
それらの人たちはどうなるんだろう?
京極家は史実のように再起するのは難しいのかもしれない。史実では信長に仕えて生き残ったが、仮に今の織田家に来ても名門というだけで再起するのは難しい。
「殿、食事の支度が整いました」
「……はーは」
のんびりと散歩をしながら考え事をしていると、エルが朝ご飯だと呼びに来た。
そういえばお腹が空いたなと思うと、エルを見つけた大武丸が手を伸ばして……。今なんて言った?
「大武丸、今なんて言った?」
「確か、母と……」
大武丸を抱きかかえてくれている壮年の侍女さんもびっくりしている。エルを見るとこちらも固まったように驚いているけど。
「はーは、はーは」
元気いっぱいにエルを呼ぶ大武丸に、言葉にならないほど感情が込み上げてくる。
「はーは」
それに釣られるように希美もエルを母と呼ぶと、エルはその瞳に涙が浮かんでいるように見える。
やっぱり最初はお母さんか。ちょっと残念だけど、エルが涙を浮かべて嬉しそうだからいいということにしよう。どちらかひとりはオレを最初に呼んでほしかったけど。
そろそろ言葉を話す頃だっていうんで、みんなで教えていたんだよね。いろいろと。特にすずとチェリーなんかは自分のことも母上だと教えていたから、聞く回数が多かったのかもしれない。
よし、お祝だ。家中のみんなに餅でも振舞うか。
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