第997話・スピード
Side:織田信勝
陸で朝を迎えることが、これほど安堵するとは思わなかった。
父上の
孫三郎叔父上は『船はいいぞ』と常々言うておって、市は『船は楽しいものです』と言うておる。おかげで織田家では船が恐ろしいと言えぬとこぼす者もおったな。
確かに船はいいものであり楽しくもあった。無論恐ろしくもな。
久遠家の者にとって船に乗ることは定めだと、リーファ殿が船の中で教えてくれた。世はいずこまでも広く面白いともな。
ここ神津島は小さな島だ。人も百人ほどしかおらぬらしい。久遠家でなくば、せいぜい流罪の島とするくらいしか使い道があるまい。
「見事なものだな。地図とはこのように作るのか」
測量と言うたか。久遠家の地図を作る技。それで作られる島の地図に皆も驚いておる。一見しただけでも違いがわかるほど見事な地図だ。
「当家にとって、これは秘するべき技のひとつでございます。土地の正確な地図は何処も秘するものであり、それを作れるというだけで危うい目に遭う懸念もありますので」
雪乃殿と話しておるとアーシャ殿を思い出す。聡明でありながら幼い子らにも分かるように話してくれる。人と話すことがあれほど楽しいものだと知ったのは、アーシャ殿の教えを受けてからだ。
「あれは井戸を掘っておるのか?」
皆で感心したように測量を学んでおると、井戸を掘る櫓が見えた。久遠家の技のひとつで蟹江ではあれで温泉を掘ったというのは有名だ。
「いえ、あれは温泉を掘っているのでございますよ。実際に出るかはわかりませんが。数カ所で掘って試してみるつもりでございます」
湊では久遠家の本領から来た職人が桟橋と蔵を造っておったが、それ以外にもこのようなことをさせておるのか。やはり違うな。久遠家でなくば、このようなことを試すことなどあるまい。
この島では、当面は塩とかつお節という食材を作ることで利を得るのだとか。関東も近く北条にも売れよう。久遠家では船の航路上の
ふと父上に謀叛を企てて討たれた元守役の林を思い出す。己ほど賢き者はおらぬと言いたげな男であったな。久遠殿のことも散々な言いようであった。
怖いものだな。守役というだけで信じてしまえば、如何様になったのやら。
Side:春
「家がないわね」
「盗まれたのでございましょう」
領境の村に着くと家という家がなかった。危険だということもあり賦役をさせるために領民を集めた際に、盗まれそうなものは持ち出させたら、家屋敷の材木などを根こそぎ盗むとはね。そういう進言もあったし理解はしていたけど、いざこうして見ていると怒る気も失せそうになるわ。
織田領でこんな中古の材木なんかを多く運んでいると、すぐに近隣の武士や警備兵に見つかるわ。それが発見されてないということはすぐそこにある関領に持って逃げたということ。状況証拠だけでも十分集まりそうね。
「久しいな。春殿」
建物はないけど領境の拠点とするにはいい村だ。ゲルを設置してここを陣地として境界封鎖をするべく働いていると、援軍である警備兵を連れた武士がやってきた。
「お久しぶりね。隼人正殿、孫介殿。早い到着、流石だわ」
将は佐々成政の兄に当たるふたりだわ。警備兵の将として、主に治安の悪い地域で討伐と治安回復を担っている精鋭を率いている。
最初は平時の功績稼ぎくらいの認識だったらしいけど、今では出世して正式な警備兵の将として名が知れている。もともと小豆坂の七本槍として武功もあったのもあるけど。
「これまた難儀なところですな。さっそく賊どもを討伐いたしましょうか?」
「ちょっと待って。夏がもうすぐ戻るし、あと二千名ほど来るから。東海道を含めて封鎖するつもりよ」
政次殿はここに来るまでにも賊を討伐したようで、関領からの賊だと聞き取り調査もしていた。すぐに仕事に取り掛かるつもりだったらしいけど、この際だから徹底的にやることにしたのよね。
「ほう、それはまた。北畠家はよいのか?」
「話がついたそうよ」
驚く隼人正殿に大殿からの書状を見せて、地図を広げて関領との領境の封鎖について意見を交わす。でもさすがセレスが鍛えただけはあるわ。このふたり有能過ぎじゃないかしら。
考え方も視点もその辺の武士と大違いだわ。神戸家の家臣が驚いているのがわかる。
「攻め入るおつもりか?」
「現状ではそこまでしないわ。もっとも賊は逃がさないけど」
封鎖の布陣を見た隼人正殿は、私が完全に関家を敵として認識していることを理解したみたい。ここに集まる兵は警備兵を含めて五千。大殿が北伊勢から多めに回してくれたわ。
関家はおそらく二千かそこら。まあ数だけ見ても境界封鎖には少し多いと思うのでしょうね。
さて、関盛信。どう動くかしらね?
Side:北畠具教
早馬にて関から使者が参った。用件は織田が商いの禁止を商人に命じたことと、関領との領境に兵を集めて東海道を封鎖してしまったということについてだ。
隣は近江なのだ。必要な品物は近江からも買える。とはいえ神戸を相手に話をしておったはずなのに、織田が突然そのような強硬な動きをして戸惑うておるらしい。
「
遅い。すべてが遅すぎる。
「何故、神戸を軽んじたのだ? せっかく関と織田を上手く繋ごうとしておったというのに。さらに賊を野放しにしておるそうだな。それを知らぬと突っぱねたのは如何なわけだ?」
参ったのは家老だが、返答に窮しておるのか、わしの問いに苦しい言い訳を続ける。
「わしは随分と機会を与えたはずだ。共に尾張に参ろうと誘い、久遠内匠助に子が産まれた祝いを贈りて誼を深めよなどとな。その都度、異を唱えたのはそなたらだ。神戸とその方らのやり取りは、逐一わしにも知らせが届いておる。臣従も要らぬ。これからはまた以前のように好きに致せ。助けたのは神戸のため。そなたらなど如何になっても知らん」
「お待ちを! 我らは御所様のために働く所存!!」
「下がれ」
「伏してお願い申し上げまする! 何卒、何卒、某の話を!!」
「聞こえなかったのか? 下がれ」
わからぬのか。この場に同席する重臣らが誰も庇わぬのがそなたらの選んだ道。この数か月、神戸と比べて己の立場ばかり気にして、家中の皆と誼を深めようともせなんだ関の者らの選んだ結末なのだ。
「本家の意地か。他人事ではないの」
「それもあるが、少しばかり愚かだ。相手が織田でも、意地を張ればある程度は認められると思うておるのであろう」
関家の家老が今にも倒れそうな顔で下がると、重臣らは如何とも言えぬ顔で本音を口にした。
強大な織田と如何に付き合うか。わしだけではないのだ。皆も考えておること。
「内匠頭殿は愚か者を嫌うという。意地を張っても無駄であろう」
意地を張るか張らぬかという話ではない。織田を知ろうともせぬ関の者らを内匠頭殿は見限ったのだ。
敵を知りそれでも意地を通すというならば、それはそれで認めよう。実際に美濃斎藤家の新九郎殿が一時は土岐美濃守頼芸を御輿にして織田と争う姿勢を見せたものの、情勢をよく見極めて織田との戦を結局は回避した。それを内匠頭殿は逆に褒めておったと聞く。
北畠の力を使うて、北畠と織田の間で生き残ろうと中途半端なことをした報いだな。
まあいい、父上が言われた通り、義理で助けた関を捨てて長野を得ればこちらはいいのだ。
長々と争いを続けることだけは避けねばならん。
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