第858話・伊勢と三河
Side:久遠一馬
「よく北畠卿が許したな」
東の空には一番星が輝いている。具教さんが来たのでお酒でもと信長さんに使いを出すとすぐにやってきた。信長さんはあまりお酒を飲まないが、宴会の席は嫌いじゃないらしい。
「父上もわかっておることだ。あの南蛮船に対抗するのに如何程の時と銭がいる? こちらが船を一隻造る頃には北畠の家がなくなっておるわ」
北畠家が水軍を放棄することに、信長さんも普通に驚いていた。斯波家と比較しても歴史もある公家だ。しかも斯波家のように苦境に陥ったわけでもない。
「それに源氏だ平氏だと争っておる頃から、日ノ本では戦がなくなっておらん。それを変えようというのだ。面白くはある」
金色酒を飲み、具教さんが己の想いを語る。諸大名を従えて足利家に取って代わるだけならば、ここまで協力的にはなっていないのかもしれない。
誰もが乱世を望み、戦を望んでいるわけではない。飢えずに争わずに食える世ならば、ここまで世が混迷していないだろう。
「ここに来る前に親父と少し話したが、一馬の纏める条件で良いそうだ」
「そうか。織田も早いな」
北畠家の水軍の放棄は内々に信秀さんにも知らせを出した。信長さんとも話したんだろうが、相変わらず信秀さんの決断は早く具教さんも驚いている。
「長々と疑っていると人生が終わっちまうからねぇ」
同席しているジュリアは縁側で星を見ながら酒を飲み、決断が早い理由を語る。そう、信秀さんは理解している。日ノ本を纏めるには時間が鍵だということを。
それに思った以上に周りの動きも早い。こちらはそれ以上に早く動かなければ、泥沼の乱世に巻き込まれかねない。
「南伊勢が固まると北伊勢は更に荒れますね。大人しくしている者たちではありませんよ」
同じく同席していて、大人しく飲んでいたセレスが、北畠家の決断の影響を懸念する。
「六角と願証寺と織田か。そこに北畠が加われば蟲毒だな」
セレスが具教さんを見ていたせいだろう。具教さんは答えるが、北伊勢に拘りはないらしい。伊勢の統一。理想といえばそうだろうが、すでに海はウチが押さえてしまっている上に、中伊勢すらまだ長野家が敵として残っている。
絵に描いた餅と同じということか。
「北伊勢が欲しいのは織田の銭であろう? 同じく水軍を放棄すれば如何するのだ?」
「うーん。北伊勢は面倒なんですよねぇ……。梅戸家は六角の血縁ですが、あそこは国人が好き勝手にしているじゃないですか。時には六角、時には願証寺。コロコロと従う相手を変えるのは嫌なんですよね。六角と願証寺ときちんと決別してくれるなら構いませんが。両属は認めません」
曲がりなりにも北畠家が纏めている南伊勢と志摩とは違う。元は足利将軍の直轄兵である奉公衆だった者が多いと聞いたが、史実を見ても一向一揆で敵に回ったりと面倒な割りにそこまで活躍したという話もない。
口だけ従うというだけでは困る。佐治水軍も水野家の稲生水軍もそこはきちんとしてもらった。
「織田で押さえてしまったほうが良かろう?」
「六角がそれで納得するのならば構いませんよ」
具教さんは北伊勢を織田が押さえるべきだと考えているらしい。まあそうしたほうが伊勢は安定するんだよね。北畠家は中伊勢を制したいんだろう。
長野家。工藤長野とも言うが、かつては中伊勢で勢力を誇っていたらしいものの、近年は六角と北畠に挟まれて防戦一方だ。さらにあそこには
現状でもそこそこの湊町として再建されつつあるが、大湊が隆盛する中で畿内からやってきた船が尾張に来る際に立ち寄る程度だ。久遠船の普及により尾張と大湊の流通からは外れているしね。
別にこちらに含むところはないが、服部友貞の一件以降、味方でも敵でもないというのが安濃津のスタンスだ。こちらの出方と動きを見ているうちに時世に置いていかれたと言っても過言ではないだろう。
「まあ北伊勢はよかろう。こちらにも北畠にも攻め寄せてくるわけでもない。南伊勢と志摩を海から固めてしまえば、如何様にでもなる」
信長さんもそこまで北伊勢に拘っていない。正直、織田としては三河の安定が先だ。領内をいかに纏めて経済的に強くするかだ。現状でも他国が羨むほどの経済力と技術力があるんだけどね。それでも安定には程遠い。
まあ最初にセレスが指摘したように、北伊勢に巻き込まれることは十分あり得るので、その対策も進める必要があるが。
あとは具教さんが家督を継いだら北畠家への支援を増やすか。直轄領への技術指導や伊勢神宮の式年遷宮を具教さんの名前でやってもいい。
経済的な利益が大きすぎて北畠が敵対することは、こちらがよほどヘマをしないとないだろう。
みんなでゆっくり検討しておこう。
Side:松平広忠
安祥城の庭にかつての家臣が運ばれてきた。荒縄でしばられ、やつれた姿でだ。
謀叛を失敗して一戦交えようとするも、一戦はおろか一槍も突けずに、金色砲に恐れをなして逃げた愚か者。ここではそう笑われておる。
今川は一切の庇い立てもせずに、こちらに寄越したようだ。誰の考えかは知らぬが、長年敵対しておる斯波家と織田家になんの条件もなく返すとはな。
一度くらい戦で使うてみると考えるのが当然というのに。それすら許されぬとは。哀れにすら思えてくるわ。
「ほう、まだ睨むか」
三郎五郎様が御なりになると、織田の皆が一礼したが、
「三河は松平家の領地! この盗人どもが!!」
「いつから三河が松平の領地になったんです?」
この場で首を刎ねられてもおかしくない。誰もがそう思うが、ふと微かな笑みを浮かべた若い男が口を開くと周りが更に静かになる。
久遠家当主、久遠一馬殿。通称も名乗らず、親から頂いた名ゆえなにも憚ることはないと
「誰だ! 己は! 先代様の頃より三河は松平の領地だわ!!」
「松平郷出身の土豪でしょう? 松平家は。確かに三河の半ばまで纏めたことは見事。ですが守護は久しく任じられていないとはいえ、吉良殿を筆頭にした名門もいるというのに。なにを勝手なことを」
久遠殿の言葉に三郎五郎様がくすりと笑われた。確かにそうだ。何代か前まで松平は松平郷の土豪だったと聞いておる。されどそれを久遠殿が御存じだったとは。
「さらに三河守は清洲の猶父です。三河守に逆らう逆賊は貴方たちになるのですよ」
「……己は……まさか……」
「お初にお目にかかります。久遠一馬です」
「己か! 卑しい南蛮人の分際で!! 己のせいで!!!」
理で淡々と話される久遠殿に愚か者どもは激高した。
この愚か者どもに、これ以上口を開かせてはならん。刀も脇差しもないが、わしが成敗しなくては久遠殿と松平家は大きな遺恨を残してしまう。
とはいえ勝手は出来ぬ。三郎五郎様に訴えるべく目を向けるが、三郎五郎様は動くなと言わんばかりに首を横に振られた。
「私はね。貴方たちと落ち着いて話したかっただけなのですけどね」
「殺せ。これ以上、生き恥を晒す気はない」
愚か者は最期まで愚か者か。これで己が武士として死ねるとでも思うたか? そのまま愚か者どもは運ばれていく。すぐに磔にて処刑されるであろう。
最期の最期まで勝手をしおって。わしばかりか一族郎党を滅ぼす気か? あれがわしの家臣だったとはな。
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