第855話・不吉と検証
Side:近衛稙家
「まことに月が欠けたか」
家人がまことに月が欠けたと驚き知らせに参った。一馬を知る者はおそらくまことであろうと考えるが、知らぬ者は月が欠ける日をわかると言うても信じられぬ。更には一馬は陰ると言うておったのじゃ、欠けると陰るに
尾張が少し懐かしゅうなるの。一馬の顔を思い出すわ。
都は相も変わらずじゃ。主上には内々に図書寮のことを奏上いたしたが、良きことだとお喜びになられた。官職にある者が役目を捨てて都の外に落ちてしまうことを嘆かれておられたからの。
三好も邪魔はせぬ様子。内裏の修繕を己が出来るということで収めたようじゃ。
三好とすると細川を敵に回しておる以上、東まで敵には回せぬのであろうがな。奇しくも堺が南蛮船を造ろうとして転覆させたことで、明や南蛮と交易をすることがいかに大変か三好も
船が出来れば交易が出来るほど甘いものではあるまい。大内の割符による交易が出来ぬ以上、久遠が頼りとなる。
「暦もあるのであろうな」
あえて問うことはせなんだが、久遠には久遠の暦があろう。噂も聞かぬので広めておらぬ様子。ならばこちらから問うことはせぬほうがよい。
考えねばならぬことは、尾張に下向を望む者が多いことじゃ。二条公と話して、尾張でも働かぬ者は求めておらぬと言うておいたが、それでもまだ
武衛は己が苦労をしたことで、公家を周りにおいて喜ぶ男ではない。御伽衆などは要らぬとはっきりと言われたからの。むしろ織田のほうが、吾ら公家の伝授の知を求めておる様子。家業を失伝せし者たちは哀れを誘うものとなろう。
「欠けた月は誰の災いとなるのかのう」
当たり前に恐ろしいと思う欠けた月も、一馬の話を思い出すと興味が湧いてくる。欠けた月はまことに皆の災いとなるのか?
仏の道を外れた破戒坊主でさえ罰が当たらぬのが今の世。護国鎮守の礎に開かれた叡山ですらそのような者ばかりだと聞く。
まるで仏が守っておるような尾張を思うと、災いは災いを受けるべき者の下に訪れるのかもしれんと思う。
誰の下に災いが訪れるか。見物よの。
Side:今川義元
「天はまことに信秀の味方なのか?」
月が欠けておると騒いでおる。よくないことが続いておるというのに不吉な。
「さて、それは某にはわかりかねまする。されど不吉なことなど某は恐れませぬ」
ちょうど朝比奈備中守と酒を飲んでおるところで、月が欠けておると騒ぎが起きたわ。さすがに備中守は動ぜぬがな。なんとも頼もしい男じゃ。
「御屋形様、織田との戦。陸ならば某が一命に代えても勝ってご覧に入れましょう。されど海は別でございます。南蛮船に槍や弓では勝てませぬ」
「それほどか?」
「はっ、海では同じ戦場に立つことすら難しゅうございましょう」
雪斎を疑うわけではない。されど備中守にも織田とのことを問うてみた。まさか勝てぬと戦う前から言うとはの。
「
「さにあらず。久遠の人でございましょう。見事な操船でございました。佐治水軍も南蛮船を模した船で、同じく動けまする。あれを脅威と言わずになにを脅威といいましょう」
「雪斎も言うておったな。久遠には名を
海か。駿河遠江を治めるのならば海からの敵も備えねばならん。されど相手が何処から来るかわからぬのでは備えようもないではないか。
「何者であろうな。久遠とは。まさかまことに天が信秀に遣わしたのか?」
天はいずこまで信秀の味方をすれば気が済むのじゃ?
今川家のほうが尊く、家柄は上なのじゃぞ。
かけた月が信秀の災いとなることを祈らずにおれん。
Side:久遠一馬
オレは今日、工業村の職人のトップである清兵衛さんと、蟹江で船大工のトップである善三さんと共に、少し前に堺から流れてきた船大工の職人と会っている。場所は蟹江のウチの屋敷で、一益さんとミレイとエミールと鏡花と一緒だ。
「あの船が沈みましたか」
呼び出したら、なんか勘違いをしたのか、顔を真っ青で来たが、話を聞きたいだけだと説明して、堺の偽南蛮船について訊ねた。
この人、実は偽南蛮船の建造に関わっていたらしいんだ。堺から逃げるように大湊に行き、尾張に流れ着いた苦労人らしい。現在は蟹江で既存の小早や漁船なんかを造っている。
一益さんから目の前で偽南蛮船が転覆したと聞いた時には、なんの冗談かと思ったが本当だった。ウチでも調査をしようと堺に潜入している忍び衆が情報を集めているが、ちょうど関係者がいるので詳しく聞くことにしたんだ。
「堺には以前に南蛮船が来たことがございます。今、織田様の船となっているあれでございます。遠巻きから見たそれと、久遠様の船を描いた絵を見せられて、同じ船を造れと命じられました」
親方ではなかったが、彼は一人前の職人だった。
誰も引き受け手がなかった偽南蛮船建造を、彼が堺にいた頃の親方が最初に命じられたという。貧乏くじを引かされたんだろう。
「親方はあの大きさであの帆柱の高さと数では無理だと言ったんでございますが、会合衆が南蛮人は乗っているのだからそれと同じく造れと命じまして……」
清兵衛さんと善三さんが同情するように話を聞いている。他人事ではないんだろう。依頼主とかが無理難題を言うことも少なくないと、一緒にお酒を飲んだ時に聞いたことがある。
なんというか聞くも涙、語るも涙という様子だ。竜骨もバラスト石もなにも知らないのにまともな船が出来るはずがない。
「そうそう、船体を黒くしたらしいけど。どうやったかわかる?」
「あれは漆でございます。最初、木材を炙って焼き目を付けたのでございますが、久遠様の船を見たという男が違うと申しまして……」
可哀想だなとみんなで同情しながらも聞いていくが、会合衆の無理難題に逃げる職人が続出したらしい。
しかし漆って……。安くないんだが。船一隻を漆で塗るなんて贅沢な。
「こんな感じで間違いあらへん?」
「はい。そっくりでございます」
一益さんやウチの船乗りにこの職人の話を聞いた鏡花が、偽南蛮船の図面を描いてみせると、職人は驚きつつ偽南蛮船と同じだと口にした。
「あかんわ。これでよう浮いたわ。職人たち頑張ったんやなぁ」
清兵衛さんも善三さんも顔色が悪いように見える。見た目は関船を無理やりに南蛮船風に変えたような感じだ。鏡花と善三さんはそれの強度やバランスを話しているが、これでは無理だと匙を投げた。
下手をすると浮くことすら無理だったらしい。
「そりゃあもう。最初の親方は逃げてしまいまして、二番目の親方は会合衆と喧嘩をして辞めてしまわれました。せめて本物の南蛮船の中を見られればと、幾度も申しておりました」
元堺の職人は、それなりの数が尾張にはいる。最初に政秀さんが畿内から引き抜いてきた職人たちの噂を聞いたり、堺のごたごたで尾張に来た人がいるんだ。
あと偽織田手形の一件も大きかった。あの時の職人は現在、かわら版の制作を主に頑張っているが、彼らがその後の扱いもよくなり家族と幸せに暮らしていると知れると尾張に来る職人が増えた。
「こちらの久遠船。尾張ではあれをたくさん造っておるので、堺ならばそれ以上のものが出来るはずだと申されまして……」
ああ、久遠船も原因か。でもさ。あの船は鏡花が元の世界の和洋折衷船と、この時代の造船技術とか考慮して設計した船だよ。
「愚かな。あの船と同じものを造るなど堺には無理な話。あれは久遠家の技が入っておるのだ。海を知り、我ら職人をよく知るお方様なればこそ成し得たもの」
善三さんが少しお怒りのご様子だ。堺の会合衆のあまりに横柄で無理難題を言う様子が頭にきたらしい。彼も大湊の船大工として大湊の会合衆と対峙したこともある。それにしても酷いと怒っているんだ。
彼は久遠船の良さをも理解しているからね。
しかし堺はどうするんだろう? まともに走るまで建造を続ければたいしたものだけど。
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