第561話・その頃、尾張では……

Side:曲直瀬道三


「ありがとうございました」


 深々と頭を下げる患者を見送ると、診療録を記す。ここでは患者の芳名ほうめいないし呼名こめいに在所と年齢や症状は当然として、処方した薬や治療の内容と経過などをこと細かく書くことになっておる。


 わしも似たようなことを考えておったが、これを整理してまとめれば、どれほど今後の治療の役に立つかわからぬほどだ。


 誰もが久遠家の技や知恵に驚くが、こうしたわしでもできたはずの地道な積み重ねが久遠家の力の根源であろう。


「曲直瀬先生、お茶が入りました」


「ああ、すまぬな」


 診療録を書き終えると休息となる。この季節は風邪が流行るので患者は多い。とはいえどんなに忙しくても、機を見て休息が入るのはありがたい限りだ。


 休息は大抵の場合は、医師と助手の皆が集まってすることが多い。この日はわしのほかに見習い医師が二名とヒルザ様がおられる。


「流行り風邪が少し多いね。そっちはどう?」


「はっ、確かに多うございますな」


 紅茶と菓子で休息とするが、ヒルザ様は近頃増えておる流行り風邪のことを皆に問われた。


 織田領ではすでに流行り風邪が多くなる季節なので注意するようにと、御触れを領内に出しておる。


 わしが来る前には寺社も力を合わせて流行り風邪を封じたと、馴染みとなった寺の者が誇らしげに語っておったほどだ。今年もいつ流行り病が起きても困らぬようにと、皆で備えをしておるのだ。これは他家では見られないことで驚きだ。


「もう一度、注意するようにと知らせを出すべきだね。少し城に使いを出すか」


 殿とケティ様やパメラ様は三河の慰霊祭に行かれた。代わりに病院に残ったのはヒルザ様だ。見習い医師が育ってきたこともあり、今回はケティ様とパメラ様の両方が行かれた。


 これまではどちらかが残られたが、三河でも診察するというからな。医師が多いほうがよいのであろう。


「お方様。申し訳ございません。高熱を出した子が運ばれて参りました。少し熱が高いですが、いかが致しましょう?」


「すぐに診察室に運んで。私が診るわ」


 流行り風邪の対応を皆で話しておると、助手が少し慌てた様子で入ってきた。また子か。大人はいいが、子と老人は早めに診ねば助からなくなるというのに。いくら説明しても悪化してから来る者が多い。


 一足先に休憩を終えられたヒルザ様が診察するというので、後学のためにわしと見習い医師たちも続いた。ヒルザ様はまだ休んでおっていいと言われたが、率先して働く姿に我らだけ休むなどできん。


「熱が高いね。親は誰なの?」


「私が母です。この度はご迷惑をおかけしまして申し訳ございません」


「斎藤新九郎様の奥方、近江の方様でございます」


 運ばれてきた子はまだ幼い子だ。しかも着物から結構な身分だと思ったが、まさか美濃の斎藤家の世子か。これはまずい。


 織田家と斎藤家は縁戚であり、斎藤家が織田家に臣従するという話があると聞くが、その斎藤家の嫡男の子が尾張で病になったとなれば大変なことになる。


「なんでもっと早く連れてこなかったの!」


 それを理解されておられるのであろう。ヒルザ様の厳しき声音こわねにお怒りがにじんでおる。その様子に近江の方や共に来た侍女たちも声が出ぬほど戸惑っておる。


 だが怒りはむしろ近江の方というよりは、清洲城の者たちに向けたものやもしれん。来客の体調がここまで悪化するまで放置しておったとなっては、お叱りを受けるだけではすまぬかもしれぬな。


「解熱剤を持ってきて!」


 苦しそうに息をしておる。早く熱を下げてやらねば危ういかもしれぬ。




Side:近江の方


 尾張に呼ばれてから、私と殿と喜太郎はそのまま清洲に滞在しております。斎藤家臣従の話し合いのためという名目で殿と共に残っておりましたが、私が斎藤家に残るには、尾張にて人質となることが最良なのです。


 もっとも織田では人質は取らぬということで、客人として滞在する形をとっておりますが。織田家中にも不安や疑心もあるはずです。つまらぬ齟齬そごで破談となってはなりませんので。


 それが、このような失態を演じてしまうとは……。殿がちょうど三河の慰霊祭に参列するために清洲を離れておられる時に、まさか喜太郎が病に倒れるとは思ってもみませんでした。


「手は尽くしたわ。絶対とは言えないけど、たぶん大丈夫よ。ただし、今日はここに泊ってもらうわよ。城まで戻るよりはそのほうがいい」


 喜太郎を診てくださったのは久遠様の奥方様のようです。ずいぶんと肌が黒く、日に焼けておいでのお方です。


 ですが、そんな奥方様のことよりも、苦しそうな喜太郎のことで私は不安でいっぱいです。このまま喜太郎にもしものことがあったら……。私は……。私は……。


「それよりなんで早く知らせなかったの? 乳母は誰?」


「申し訳ございません。すべては私の不始末ふしまつとがでございます」


「子供はね。自身からちょっとした体調の良し悪しを言わないことも多いのよ。大人が気を付けてやらないと駄目なの。もっと気を引き締めてちょうだい」


 喜太郎の乳母が泣きながら謝罪しております。我が子のように喜太郎を可愛がっていたのです。ここまで気付かなかったことで、今にも自害してしまいそうな様子です。


「申し訳ございません。私の一命にてどうかお許しを……」


 りとて刃物はすべて預けてしまいましたので、この場では自害も出来ません。しかし織田家に斎藤家が臣従をするかという時に、斎藤家嫡男の世子が尾張で病になったとなれば大失態です。やはり乳母は自らの命にて償うつもりのようですが、それは私の責のりどころが問われることでもあるのです。


 乳母ひとりに罪を押し付けるなどするつもりはありません。


「命を粗末にしては駄目。人はね。誰もが失敗するものよ。重要なのは失敗からいかにして学ぶか。勝手かもしれないけど罰は受けないように、私のほうから大殿と斎藤山城守殿や新九郎殿に言っておくわ。自裁じさいも駄目よ。その代わり、子供のことを学びなさい。織田家でも乳母は、子供の体調に関して久遠家の医術の観点から指導しているの。それをおふたりにも教えることにするわ」


 共にこの罪を背負う覚悟をしつつも、喜太郎の苦しそうな様子を祈るように見ていると、奥方様は私たちを見てそれを悟ったのか驚きの言葉を口にされました。


「ははうえ……、みお……」


 静まり返った部屋で奥方様の言葉に驚いていると、喜太郎が目を覚ましました。


 さきほどより少し楽になったようでいきが落ちついてきました。良かった。本当に良かった。


「あと、城の体制は改善が必要ね。客人も朝晩に体調を調べるようにするべきだわ」


 まだ苦しそうですが、私と乳母を呼ぶ喜太郎に周りの皆が少し安堵の表情を見せました。


 清洲の城では、私と喜太郎はあくまでも客人として丁重に扱われておりますが、それが仇となったのでしょう。織田の方々も喜太郎のことは特に手を出さずにこちらに任せていただきましたが、それ故、一歩間違えれば大変なことになるところでした。


 朝晩に体調を調べることは斎藤家とて致しております。されど体を清潔に保つことなど、細かなやり方が織田では違うようです。


「お方様。ではその旨を書状にまとめておきまする」


「そうね。お願いね。曲直瀬殿。大殿が戻ったら上申するわ」


 織田では処罰よりも、同じ過ちを二度と起こさぬようにすることを優先するのですね。近江の兄や義父様は使えぬと判断すれば、その者を外すというのに。


「私たちもここで喜太郎を看病してよろしいでしょうか?」


「ええ、構わないわ。城には私から伝えておきます」


 しばらくすると喜太郎の様子が落ち着いてきました。喜太郎はそのまま病室に運ばれるようなので、私と乳母は許可をいただいて喜太郎の看病をすることにしましょう。


 良かった。本当に良かった。




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