夕凪

秋穂碧

プロローグ

私には、ずっと心に秘めている憧れの場所がある。


寝室にある、お母さんの鏡台の上から2番目の引き出しの奥。

その中に、ひっそりと眠る1枚の絵葉書。

日に焼けて、少し古ぼけたその絵葉書にはどこまでも続く青く広い海の写真。


いつか、絶対この場所に行きたいと幼い頃から思い続けている。



「凪、志人くん、行ってらっしゃい」

「「行ってきます」」


弟を抱きかかえ、笑顔の母が玄関先で手を振って私と父を見送ってくれる。

我が家の毎朝の光景だ。


父、三井志人は、母の再婚相手だ。

母と同じ会社で働いている父は、職場で誰よりも明るく溌剌としていて、いつも仕事をバリバリこなす母に惚れ込んでしまったらしい。


当時、父28歳、母41歳。再婚すると決まったのは、私が中学1年生のときだった。


それからの生活は、私の中で激動だった。思春期、真っ只中。

慣れない男性との3人暮らし。家の中に私の居場所はなかった。


それでも、毎日、楽しく幸せいっぱいのお母さんにそんな私の気持ちを吐き出すことはできなかった。



「ただいま」


それからしばらく経った、ある日の下校後のことだった。

玄関に出迎えてくれたお母さんの顔は昂揚していた。何か、良いことでもあったのだろうか。


「おかえり。あのね、凪」



なんとなく、嫌な予感がした。そして、それは当たっていた。



「お母さんね、赤ちゃんができたの」



その言葉を耳にした瞬間、私の視界は一瞬で真っ暗になった。


赤ちゃん…?って、何?


待って、待って。嘘でしょ。



「凪、凪!!」


私は思わず気分が悪くなってしまい、玄関にうずくまってしまった。

心配するお母さんの呼びかけにも答えることができず、ただ時がすぎるのをジッと耐えるしかなかった。


こんなはずじゃなかった…。


自分の部屋のベッドに横たわり、天井を見つめる。

嬉しいよりも先に、恥ずかしいという感情が出てきた自分が嫌だった。

でも、周りも思春期真っ只中。お母さんに赤ちゃんができた、なんて言ったらきっと、からかわれないわけがなかった。



その夜、帰宅した父が私の部屋へやってきた。



「凪ちゃん、入るよ」



父は優しい人だ。再婚すると決まった時、お母さんに泣きながら「凪ちゃんを絶対幸せにします」と誓ってくれた。


「佳乃さんに聞いたよ。赤ちゃんのこと、いきなり聞かされても困るよね」


父は私のベッドの横に座り、背を向けてぽつぽつと話し始めた。


「僕は佳乃さんと家族になるって決めた時にね、凪ちゃんと一番の家族になりたいって思ったんだ」

「うん…」

「だから、佳乃さんとの間に赤ちゃんができたってわかって、すごくすごく嬉しかった。これで、凪ちゃんとも本当の家族になれるって思ったんだよ」


本当の家族。そんな風に思ってたんだ。


「お母さんに、おめでとうって言いたい」

「喜ぶよ」


居間に続く階段を降り、台所で夕飯の準備をするお母さんに後ろからギュッと抱きついた。


「わあっ、どうしたの、凪」

「お母さん、赤ちゃん、おめでとう」

「ありがとう」


振り向いたお母さんが私をギュッと抱きしめてくれた。


翌日、学校で仲の良い友達に、家に赤ちゃんが生まれることを話した。

みんな、とても羨ましがっていた。


「ねー、弟?妹?」

「まだ、わかんないよ」

「みんなで名前考えようよ!」

「えー?」


当時は、私より盛り上がるってどういうこと?なんて思ったけど、みんなの気持ちが嬉しかった。


そうして、生まれた待望の弟は「湊(みなと)」と名付けられた。


「ねえ、なんで湊にしたの?」

「凪と同じ、海に関連のある名前にしたかったの。姉弟の繋がりって感じでいいでしょ?」


理由はよくわからなかったけど、私と繋がりのある名前なのは素直に嬉しかった。

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