平賀学

 犬や猫は嫌いだ。首輪をつけても、どれだけ懐いていても家から逃げ出そうとする。子どもの頃飼っていた小型犬も、ある日不注意で玄関から飛び出して、車道まで走って車に撥ねられて死んだ。

 それからペットは飼わなかったけれど、大人になって、自分の部屋をこのマンションに持って、その広さを持て余すようになった。

 毎日のように電話はかかってくる。ラインも飛んでくる。朝は起きられたか、昼は何を食べたか、夜は薬を飲み忘れていないか。たぶんこれは愛情なのだろう。私は一人ではないと言えるはずだ。でも空虚さは埋まらなかった。家にいたとき、家族と一緒だったときからずっとだ。

 離れても私は繋がれている。義務感に。期待に。

 携帯の画面から目を離す。テーブルの上の缶チューハイを手に取り、プルタブを持ち上げる。きつく禁止されていたアルコールの匂い。ほとんどジュースみたいな度数のそれに口をつける。別に美味しくもない、少し苦いだけ。飲み会で、友だちと一緒に笑いながら飲んだら違うんだろうか。薬と一緒に含むとよく眠れる気がして飲んでいるけれど、私には好きになれそうになかった。


 その子を見つけたのは秋の夜の駅のホームだった。

 足早に歩く周りの大人たちは、その子をまるでいないものみたいに、目に留めすらしない。

 その子は、制服姿でホームの柱に寄りかかるようにして座っていた。俯いて自分のつま先を眺めている。泣いていたのか、目元が赤く腫れていた。

 夜中に駅で泣いている女の子が珍しいものか私にはよくわからない。あまり顔を上げて周りを見ることはないし。ただなんとなく昔飼っていた犬を思い出して、その子の前で足を止めた。

 止めたからといってなんと声をかけたものか考えあぐねて、できるだけ友好的な笑顔を拵えてから話しかけた。

「すみません」

 その子は俯いたまま鼻を啜っていた。聞こえなかったらしい。もう一度、少し声を大きくして話しかけると、ゆっくりと顔を上げた。

「わたし?」

 掠れた、小さな声でつぶやくように言う。肯定すると狼狽えた様子だった。それは、見知らぬ人間が急に話しかけてきたら警戒すると思う。私はできるだけ優しく、どうしてこんなところにいるのか、どうして泣いているのかなどを聞いた。吃音混じりにその子が言うことには、家出してきたらしい。

「喧嘩でもしたの?」

「違います」

「じゃあどうして」

「相手にされてないんです」

 だから喧嘩ですらないんです。

 消えるような語尾でそう言って、その子はまた俯いた。全部を諦めているような目をしていた。

 この子も繋がれているんだろうか。そのうち私みたいになるんだろうか。

「それなら私の家に来なよ」

 言葉が口を突いて出た。その子はぽかんと口を開けていた。

「行くところがないんでしょ。ならお姉さんのところにおいで」


 自分でもああ言って本当についてくるとは思わなかったけれど、その子は頷いた。

 これって犯罪だろうかと思いつつ、その子と話しながら家に向かった。この家に家族以外の誰かを上げるのは初めてだった。

 リビングに入っても所在なさげにしているのが、もらわれてきたばかりの子犬みたいだったのでなんだかおかしくなった。ソファに座るよう勧めて、ケトルでお湯を沸かしてココアを入れてその子の前のテーブルに置いた。

 BGM代わりにテレビで適当な番組を流しながら、その子に話しかけた。どんな話題を振っても反応は芳しくなかったけれど、特に家族や友達、学校の話になると言葉に詰まるようだった。だからその話題はやんわり避けた。といって女子高生の間でどんなものが流行っているのかも知らないから、今テレビに映っている芸人についてとか、当たり障りのない、中身のない風船みたいな会話になった。


 いつも寝る時間が近づいてきたので、癖で冷蔵庫から缶チューハイを取り出して飲んでいると、その子がじっと見ているのに気が付いた。

「ほしい? でも駄目だよ、君未成年でしょ」

 半分以上中身の残った缶を揺らしながら茶化して言うと、「いらないです。別に」とすげなく返された。機嫌が悪いわけでもなく、これがこの子の素らしい。


 翌朝、体に残った薬の怠さに布団の中で転がっていると、物音でぼんやり目が覚めた。重たい目蓋をこすりながらリビングに出てくると、女の子は制服に着替えて鞄を持っていた。昨夜貸したルームウェアは几帳面に畳んで置いてあった。

 なんだ、帰っちゃうのか。それはそうだ。この子は私のものじゃないんだ。

「もう学校?」

「あ、はい。その、起こしちゃいましたか」

 申し訳なさそうに縮こまっている。

「うん。学生は朝早いね」

 見送ろうとしたけれど、その子が何かまごついているので、名残惜しくなってきた。

「ちょっとだけ時間ちょうだい。連絡先交換しようよ」

 返事を待たずに寝室に取って返して、充電中だった携帯を引っこ抜いて持ってきた。

 そのままラインのアドレスを交換した。友だち一覧に追加された、かわいらしくデフォルメされたキャラクターのアイコン。名前は「小夜」。

 それで今度こそ見送った。小夜はぺこぺこ頭を下げて、学校へ行ったみたいだった。遠ざかっていく背中は、足を引きずっているように見えた。


 それから何日か経ったある日、ベランダで煙草をふかしていると、携帯が震えた。通知だ。家族からの定時連絡か、と確認すると、見慣れないアイコンからのメッセージだった。小夜だ。

「また泊めてくれませんか」

 私は少し気分が高揚するのを自覚しながら、いいよ、と返した。


 小夜はまた泣き腫らしていた。それでもどうして泣いているのかは話そうとしなかったから、私も聞かなかった。テレビを眺めながら、風船みたいな会話をした。前よりは小夜も喋るようになった気がした。

 今度は私も朝早く起きて、トーストを二人分焼いた。コーヒーを出すと小夜は少し口をつけて置いてしまった。

「苦いの苦手なの?」

「はい」

 少し迷ってから正直に答えるのが、恥ずかしさからなのか生真面目さからなのか、よくわからないけれど、かわいいなと思った。

 結局小夜は今朝も学校に行った。やっぱり足は重そうだった。繋がれてないのに逃げられないんだ。その気持ちはよくわかった。


 それから小夜はよく家に来るようになった。毎度、家出します、と律儀に連絡を入れてくるのだけれど、最近は別に泣いていなくても遊びに来る。最初は借りてきた子犬だったのに、段々ふてぶてしくなって、私の本棚から勝手に本を取り出して読んだり、あの映画が見たいとリクエストしたりしてくるようになった。全然興味のない、在り来たりなお涙頂戴青春ものも一緒に観た。シリアスなシーンで私が茶化すと怒るし、お姉さんはこの映画の良さがわかっていないと説教もされた。反対に私がペットが死ぬシーンで涙ぐんでいると、どうしてここで泣くのかわからないなんて言うから、丁寧に解説してあげた。私たちはどうやら趣味嗜好が合わないらしいと感じたけど、一緒に映画を見るのは悪くなかった。

 くだらない時間を重ねた。小夜は繋いでいないのに私のもとに帰ってくる。それがとても心地よかった。

 それでも薬の量は減らなかったけれど、小夜といるときだけ夢を見ているみたいで、現実を忘れられた。私は優しいお姉さんになれた。


 実家に戻ってこいと言われた。これ以上お前を一人にしておけない。母さんも心配してる。親を泣かせるな。お前のためなんだ。

 重たい鎖の音がした。


 今日は小夜はリビングで参考書を広げて、熱心に勉強していた。受験が近いらしい。そういえばもうそんな時期なんだな。甘いものは集中できるよとチョコを差し入れようとしたら、とても複雑そうな顔をした。

「いらない」

「なんで? このチョコ好きだって言ってたでしょ」

「……お姉さんのところに来るようになってから太ってるの」

 ぼそぼそと言う小夜は、見た目は全然変わってない。標準的な体形に見える。でもこの年の頃、体重計の数字のわずかな増減に敏感だった気持ちはわかる。それに、こう言うと絶対に怒るから言わないけれど、小夜に好きなものを食べさせると餌付けしてるみたいで楽しかったので、いろいろと与えすぎた気もしている。

 小夜が勉強にかかりっきりになって構ってくれず寂しいけれど、大事な時期だというのはわかっていたから邪魔をしないようにした。

 ふと思いついたことを口に出してみた。

「君の受験が終わったら旅行行こうよ」

 こちらに向いた小夜の顔は不思議そうな表情を浮かべていた。

「旅行?」

「うん。合格してたら合格祝い、落ちてたら傷心旅行」

「ええ。落ちる前提ってなんかやだな」

 小夜は鼻の頭に皺を寄せた。

「別に落ちるとは言ってないでしょ、がんばったらご褒美がないと。結果がどっちでも遊びたいなってことだよ」

 言いながら、本当にそうなったらいいのになと思った。小夜はシャーペンの頭で顎を押して考えている様子だった。

「お金の心配はしなくていいよ、お姉さん小金持ちだから」

「うーん……」

「合格したら君、東京の方行っちゃうんでしょ。そしたら忘れられちゃうの、やだな」

 それだけは本当だった。

 小夜のこの先の人生で、私は通過点でしかなくなる。

 いつか記憶からも消えてなくなるのが怖かった。


 最初は渋っていた小夜も、いろいろな旅行のプランを見せるうちに乗り気になっていったみたいだった。日帰りの予定が一泊二日になって、それじゃ足りないから二泊三日になって、それでも足りないと呻きながらどうしても行きたいところだけ押さえたリストを作ったりした。海外も行きたいと言い出して、飛行機代を調べたら、やっぱり日本がいいねなんて話になった。

 私は優しくて困ったときに手を差し伸べてくれる頼れるお姉さんとして、小夜と二人で旅行をする夢想をした。

 本当に私がそんな人間だったらよかったのにと思った。

 鎖はどんどん重たくなって、私に現実逃避も許さなくなっていった。


 夜に眠れなくなった。帰ってくるよう言われている日まで時間がない。

 地に足がついていないようで、自分が生きている感覚がしなくなった。

 小夜はラストスパートということで図書館で集中しているらしい。最近はあまりこの家にも来ていない。よかったと思った。私はずっと私の虚像を守りたかった。今の私を見せなくて済む。同時に、小夜に会いたいとも思った。

 時計が三時を回っている。部屋は暗い。夜は動悸がする。

 ふらつく足で不安になったときの儀式をする。クローゼットの備え付けのハンガーパイプに縄をかけて、作った輪っかに頭を通す。このパイプが私の体重を支えられるのか知らない。ただ何もしないでいるより、こうすると落ち着くことができた。輪っかに顎を乗せて、息を吐きながら、もし最初に見つかるなら小夜がいいなと思った。最低だ。そしてきっとそうはならないだろうとも思った。私から連絡がなければ、家族の誰かが飛んでくるから。

 体重をかける。今夜も失敗するかもしれない。でも、成功もするかもしれない。どちらにせよ、この重たい鎖を剝がせるならなんでもいいと思った。

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平賀学 @kabitamago

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