第32話 あの日には戻れない
「知っているのよ、あなたの孤児院のシスターが去年、流行り風邪で亡くなったのを」
「!」
エミリアの言葉にエレノアの瞳に影が差す。勢いを失ったエレノアを見て、エミリアは嬉々として続けた。
「あなたは聖女でありながら、育ての親を救えず、見捨てたのよね? まあ、あなたみたいな底辺の聖女に救える力があったかは別としてね」
クスクスと嬉しそうなエミリアの笑い声がエレノアの心に鉛のように沈んでゆく。
(何よ……何も知らないくせに……)
エレノアはあの時、教会の地下に閉じ込められていた。毎日ひたすら聖水を作らされていたが、流行り風邪が蔓延すると、寝る時間すら与えられずに聖水を作り続けさせられた。
『この聖水で多くの民の命が救われるんだ』
『お前みたいな孤児が皆の役に立つんだ。あの孤児院だって助かるだろう』
神官長の言葉を盲信してひたすらになっていたあの頃。
教会が搾取していた。教会が知らせをわざと遅らせた。全ては教会のせい。だけど。
(閉じ込められていたって、シスターと連絡を取らせてもらう要求だって出来た。寄付金を送金している証拠だって見せてもらおうとすれば出来た)
実際には教会は孤児院に寄付金など送金しておらず、聖水だってシスターの元にすら届かない金儲けの物になっていた。
(教会が悪い。でも一番悪いのは……)
がむしゃらに教会で働いてきた。それが孤児院のために、シスターのためになると信じて疑わなかった。むしろ誇りにさえ思っていた。
(それが一番の勘違いなのよ……)
「あら、泣いているの?」
エミリアの言葉に、エレノアは自身の目から涙が溢れ落ちているのがわかった。
後悔したって、あの日には戻れない。しかしエレノアの心の奥で、何度も何度もあの日の冬に戻りたいと願う気持ちが渦巻いていた。
「大切な人も救えないあなたに、イザーク様を任せるなんて出来ませんわ。さあ、離婚してイザーク様の前から姿を消しなさい」
エミリアが合図すると、グランから彼女に紙とペンが渡された。ヒラリ、とエレノアの前にそれが置かれる。
離婚届の用紙だった。
「あなたみたいなのが側にいるとイザーク様が不幸になりますわ」
グランに無理矢理ペンを握らされたエレノアは、悲しみに頭が支配されて何も考えられなかった。ぼんやりとその用紙にサインをしようとした時、騒がしい声が温室の外から聞こえてきた。
「お待ちください!! いくら公爵家の方だろうと」
「うるさい! ここに私の妻がいることはわかっているんだ!」
バーンズ侯爵家の執事に制止されながらも温室に入って来たのはイザークだった。
「エレノア!!」
「ザーク……様?」
目からは涙、手からは血を流すエレノアに、イザークの表情が一気に怒りに変わる。
「まああ、イザーク様! 我が家にお越しいただけるなんて……! 父も喜びますわ。でも、いらっしゃるなら事前に言っていただかないと、綺麗に着飾ることも出来ませんわ」
イザークの怒りにも空気を読まないエミリアは、恍惚とした表情でイザークだけを見つめて声をあげた。
「ザーク様、どうして……」
「エマから連絡があった。護衛が付いていながらすまない」
エミリアには気にもとめず、イザークは真っ直ぐにエレノアに駆け寄った。付き添ってくれていた護衛は後ろで青い顔をしている。
「ザーク様、この温室は外から様子が見えないように魔法がかかっているそうなのです。だから護衛さんを責めないでください。彼だって侯爵家の温室に踏み入るなんて強硬出来ないでしょう?」
先程怖い顔をしていたイザークは、エレノアに優しい瞳を向けている。でも護衛が責任を問われそうな勢いだったので、エレノアはイザークに必死に説明した。
「まったく、君は……」
困ったように微笑んだイザークは、騎士服の胸ポケットからハンカチを取り出すと、エレノアの手をそっと包んでくれた。そして自身の袖でエレノアの涙を拭う。
「無事で良かった……」
安堵から漏れるイザークの笑顔に、エレノアは胸が締めつけられる。
「イザーク様!! そんな下賤な女に騙されないでください!」
二人のやり取りをワナワナと見ていたエミリアが、たまらずイザークに叫んだ。
「下賤……? 私の妻を貶めるのですか? バーンズ侯爵令嬢、こういったことはやめてほしい。私はエレノアを、妻しか愛せませんので」
「そ、そんな……」
エレノアを抱きしめながらきっぱりと告げるイザークに、エミリアはガクガクと震えている。
「……グラン、お前の処遇は追って伝える」
隅で青い顔をしていたグランを睨みつけ、イザークが言い放つと、グランは「ひっ」と声を出して縮こまった。
「でも、その女は!! イザーク様と離婚するつもりですわ! 貴方を愛していないのです! 貴方を愛しているのは私だけですわ!!」
なおもイザークに縋ろうとするエミリアに、イザークは冷ややかな表情を向ける。そしてエレノアの手元にある離婚届とペンを見つける。
「……これは強制されたの? エレノアの意思?」
優しい表情をエレノアに向けるも、イザークの瞳は冷たいままだった。
「それ……は……」
「ここでする話じゃないね」
エレノアが答えられずにいると、イザークはにっこりと笑顔を作って、エレノアを横抱きに抱えた。
「行くよ」
護衛に声をかけ、エレノアを抱えたままイザークは踵を返して温室を出た。
「イザークさまあああ!!」
後ろからはエミリアの悲痛な叫び声が聞こえた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます