サクラの家出

ピエレ

  サクラの家出

 一週間前までとは、違った朝だった。

 一週間前までなら、やさしい肉球でユウユの胸を踏み踏みしながら、

「おはよう、ユウユ、朝ごはんの時間よ」

 と喉を鳴らしてサクラが顔をなめたのに、今は朝陽だけがまぶたをくすぐる。

 部屋を見まわしながら、ベッドを降りた。

「サクラ、サクラ・・」

 呼べば駆け寄ってくるはずのサクラが、いない。

 押入れにも、本棚の裏にも、どこにも。

 時計の針だけがむなしい音を刻んでいる。ママは仕事に出かけている時間だ。

 疫病が流行っているので、家の中にいなさい、と言われている。

 それでも、白いマスクで鼻と口をおおい、ユウユは外へ出た。

「パパ、ごめんね。あたし、サクラを捜しに行かなきゃ。ダメだと言われても、どうしても行かなきゃいけないの」

 玄関の横の人の形のサボテンを見上げ、ユウユはそう呼びかけた。疫病の魔法でパパはそのサボテンになった、と言うママの話を、ユウユは信じている。だけど、パパはいつも無口で、たださみしそうに笑っているだけだ。

 パパに頭を下げ、辺りを見回しながら歩くと、お隣の庭先に、数本のマンジュシャゲが咲いていた。他に当てもなく近寄って、聞いてみた。

「ねえ、花火のようなきみ、あたしのサクラ、知らない? きみに、ちょっかいしなかったかしら?」

 花は紅い火花をチリチリ放ちながら、

「アッチアッチ」

 と秋風に揺れた。

「サクラ、サクラ・・」

 ユウユは呼びながら捜した。

 屋根の上、床の下、木の枝、草むらの陰・・・

 サクラがいない。

 ユウユの胸に空いた穴にも、さみしい風が吹いている。そしてその穴は、日に日に大きくなっている。

「お隣さんが、サクラを見たかも」

 勇気を出して、砂利の敷地に入り、玄関のチャイムを押した。

 応答がない。

 えいやあ、えいやあ・・

 と何度も押した。

 あきらめかけた時、奥の家の裏から、ピンクのワンピースのおばさんが出て来た。マスクもピンクで、目を丸く見開いて声をかける。

「おはよう、ユウユちゃん、息子はしばらく帰って来れないから、この家には誰もいないんだよ。息子に何か用?」

「うちの三毛猫がいなくなっちゃったの。見てませんか?」

「見てないねえ」

 と首を振るおばさんの、肩の向うの道の突き当りのT字路を、痩せた猫が横切るのが見えた。三毛猫のようだ。

「あっ、サクラかも」

 と叫んで、ユウユは走り出した。

 駆けっこは得意なほうだけど、マスクのせいで息苦しい。突き当りを曲がって先を見ると、三毛猫が墓地の方へ曲がった。

 後を追い、ユウユも草の小道へ入って行った。天へそびえる樹々の中に、石造りの墓がたくさんある。朝なのに、じめじめ暗い。

「しまった。ここには幽霊さんがたくさんいるから、入っちゃいけないんだった」

 とユウユはつぶやいた。

 引き返そうとした時、墓地の奥から猫の鳴き声が聞こえた。

 怖さより、サクラへの恋しさの方が大きかった。震える足で声の方へ、抜き差し、差し足・・・

「幽霊さん、幽霊さん、サクラはどこ?」

 ユウユの泣きそうな問いかけに、

「コッチコッチ」

「ソッチソッチ」

 と答えるのは、草の陰の秋の虫たちだ。

 黄泉の国へと続く細道を急ごうとすると、草に足が絡んで転んだ。驚いた大ムカデが、目の前をゴソゴソ逃げた。

「ひやあああひゃあ」

 ユウユも悲鳴をあげて逃げた。

 逃げると何ものかが追いかけて来る。影が追いかけて、ユウユを喰らおうとする。

「幽霊さん、あたしを助けて」

 とうとう墓場の果てに突き当たってしまった。大きな大理石の墓の向うは、金網のフェンスだ。

「怖くても、引き返すしかない」

 そう自分に言い聞かせた時、緑のフェンスの向うを痩せた三毛猫が横切った。

「サクラ?」

 と叫んで駆け、金網をつかんだ。

 もう三毛猫の姿はどこにもない。底知れぬさみしさが胸を突いた。ユウユは背丈ほどあるフェンスにしがみついて昇った。必死で越えると、世界がぐにゃりと動転して、硬い地面に倒れ込んでいた。

 どこからか、甘い匂いが落ちて来た。見ると、かたわらのキンモクセイの樹に花が咲いている。

「この匂い、知ってる。ママが、秋の匂い、って言ってた」

 見上げる薄黄色の花々の向うの窓に、人影が見えた。

 新築の家の二階の窓がガラガラ開いて、ユウユと同じ年頃の少女が、とがった声を放ってきた。

「そこ、越えちゃいけないんだよ」

 ユウユは恥じらうように笑い、立ち上がって聞いた。

「ねえ、あんた、痩せた三毛猫が通るの、見たでしょ?」

 窓の少女は目を剥き、表情をこわばらせた。

「さあ、どうかしら?」

「見てないの?」

「教えない」

「どうして?」

「病気がうつるから」

「意味分かんない」

 とユウユが言った時、窓が閉じられた。

 緑のカーテンのすき間から、水中の魚のような目が屈折して光っている。 

 ユウユは猫が進んだと思われる方向へ歩き出した。

 するとまた、ガラガラあの窓が開く音がした。

「ねえ、あなた・・」

 と呼び止める声に、ユウユは振り返って見上げた。

「何よ?」

 二階の窓の少女は、燃えるような目でまっすぐ見つめている。

「また、そこ越えて来る?」

 ユウユは首を振った。

「まさか・・ここは、越えちゃいけないんでしょ?」

 窓の少女も首を振った。

「ううん。越えていいよ。また、越えて来なよ」

「意味分かんない」

「越えていいからね。また、来なよ」

 叫ぶような声を背にして、ユウユは進んで行った。

 そこは異次元のような知らない町。新築の家が並ぶ住宅街。魔法がかけられたように人通りがない。

 どこかで犬が吠えた。

「猫に吠えたのかも・・」

 そちらへ走ると、たくさんのコスモスが並んでいた。

「ねえ、かわいいピンクのきみたち、あたしの三毛猫見なかった?」

 八枚の薄紅の花びらたちに尋ねると、

「ほら、ココ。ほら、ココ」

 と華麗に頭を揺らす。

 目を見開くと、花たちのすき間から、レンガ塀の上に座る痩せた三毛猫がチラチラ見えた。

「サクラ?」

 と呼びかけると、猫の目も見開き、ユウユをぎょろりと見て身構えた。

 似ているけど、違う。頭の茶と黒の模様が少し、違う。サクラよりちょっと瘦せている。人間を見てこんなに警戒するということは、飼猫じゃないのだろう。

「ねえ、あんたも、ひとりぼっち?」

 そう聞いた時、赤トンボの群が飛んで来た。三毛猫の目がギラギラ、異様に光った。猫は恐ろしい跳躍でトンボに攻撃を仕掛け、風を切って追いかけた。

 他に当てもなく、ユウユもその後を追った。

 立ち並ぶ樹木が見えて来て、大きな公園にたどり着いた。遠くに見える芝の上のブランコや滑り台を見て、ユウユは安心した。

「ここは、ママと何度か遊びに来たわ」

 向こうのジャングルジムの横のベンチに、猫が座っている。三毛猫のようだ。

 遊具の方へ進もうとした時、

「ブーン」

 と耳を危険が襲い、

「キャアキャア」

 腰を抜かしていた。

 スズメバチだ。

 半年ほど前、肩を刺されてさんざん泣いた記憶が圧しかかった。

「今度また刺されたら、死ぬかもしれないからね」

 と忠告したママのけわしい目が忘れられない。

 ハチと反対方向へコソコソ逃げた。

「ハチさん、許して。あたし、生きたいの。生きて、サクラに会いたいの」

 涙ながらに訴えて逃げた。

 息苦しくて、びっしょり濡れたマスクを取って、ポケットに入れた。

 秋風が強まり、突風に染まりかけの紅葉がチリチリ舞った。遠回りして、ジャングルジムの方へ駆けていると、向うから白髪の老人が歩いて来た。大きな黒いマスクが、顔の半分以上隠している。

「おや、小さなお嬢ちゃん、マスクもせずに、どこへ行くの?」

 と、しわがれ声で呼び止める。

 ユウユは息で濡れたマスクを着け直しながら立ち止まった。

「うちの三毛猫を捜してるの。あのジャングルジムの近くにいたでしょ?」

 と、老人の後ろを指さして聞いた。

 老人は振り返ることもなく、ユウユの目を射抜くように覗き込んで言う。

「お嬢ちゃんの飼猫なら、お腹がすけば、返って来るよ」

「もう一週間も帰って来ないから、捜してるの」

 ユウユは逃げるように老人から離れた。

 ジャングルジムまで走ったけれど、猫の姿はどこにもない。

 胸の奥から涙が溢れて、嗚咽しながら坂道を上がった。

 何度か来たことがある村の神社の石段をエイコラ昇り、鳥居をくぐると、そこはまた異世界だ。

 ポケットに入っていたオモチャのコインを賽銭箱に放り入れ、巨大な綱に飛びついて、鈴をジャラジャラ鳴らした。

「神さま、ねえ、神さま、サクラは、どこですか?」

 祭壇の奥で青い目が見開いて、光った。

「えっ? 神さま?」

 と問うと、

「ミャア」

 と相手は応え、身を起こした。

 猫だ。

 よく見ると、見覚えのある近所の白猫。

「ねえ、白猫さん、サクラ、知らない?」

 とユウユは聞いた。

 白猫は警戒レベルを上げながら近づいて来る。

「教えてくれたら、好きなものあげるよ」

 と告げると、猫はシッポをぼわっと立てて、ユウユの横を駆け抜ける。

 そして境内を出て行った。

 ユウユも懸命について行った。

 疫病で閉鎖された保育園へ歩くと、白猫はユウユの家のある方へ進んだ。

 やがてユウユが追いかけていることに気づくと、猫は怯えた目を見開き、大きな家の庭へ飛び込んで見えなくなった。

 サクラがいない・・

 ポッカリ空いた胸の穴から、また涙が溢れ出した。最後のT字路を折れ、落葉が舞う小道を、壊れながら自宅へ歩いた。

 家の前まで帰り着くと、ピンクのワンピースのおばさんが、ユウユを見て駆け寄って来た。

「猫がいるよ。猫がいるよ・・」

 言葉が紅葉と舞った。

「息子の家に入ったら、タンスの中からミャアミャア聞こえたんだよ。知らぬ間に、閉じ込められてたんだねえ」

 隣の家から出て来た痩せた三毛猫は、ユウユを見ると、鳴きながら駆け寄って来た。

「サクラ」

 と叫ぶユウユの胸へ、猫は大ジャンプ。

 ひしとしがみついて離れない。

「あああ、サクラも、さみしかったの?」

 タンスの中でお漏らしを繰り返したのか、アンモニア臭が鼻を突いた。それでも、悲しみを吹き飛ばすように喉を鳴らすサクラを、悲しみよりも大きな声で泣きながら、ユウユも抱きしめて離さなかった。









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サクラの家出 ピエレ @nozomi22

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