一つ目 游星の白昼夢、流星の明晰夢

1、プラネット・チェイス 『修正版』

 東京都新宿。


 一度ひとたび、歓楽街を歩けば、ヤクザ、チンピラ、ごろつきに出くわし、金と暴力が湯水のように渦巻く、混沌と無法が支配する日本のゴッサムシティ。……少し誇張しすぎたか。

 とは言え、深夜になっても。いや、夜が更けていくにつれてこの街は眩い輝きを放ち、それと同時に、その輝きに紛れ、私利私欲を満たさんと法に触れる輩がそこら中から湧いて出てくる


「ねぇねぇ、そこのキミ」

「ん? 私ですか」


 路上喫煙所で左手をパーカーのポケットに突っ込みながらしゃがみ込む明るい髪色の少女に、若い男が声を掛ける。 

 八月に入り、学生は長期休暇に浮足立ち、羽目を外しやすい時期。

 本来ならば、子供がうろつくような時間ではない。そんな時間にしかも喫煙所で煙を吸おうとしている少女。まさに、こういった男の狙いの的だ。

 水辺に群がる蚊柱のごとく、悪い大人というのは若い芽を利用しようと集まってくる。


「若い子が煙草なんて、身体によくないよ」


 人を見てくれで判断してはいけないのは百も承知だが、声を掛けた男は金髪に両耳にジャラジャラとピアスを付けている。とてもではないが青少年を良き方に導こうとする立場の人間には見えない。


「放っておいてもらえますか」


 少女の方も怪しい大人に声を掛けられた状況だからか冷たい表情で男を睨む。


「いやいや、若いうちから吸ってると大人になってからが大変だよ。って、俺なんかが言っても説得力ないかもしんないけど」


 へらへらとした表情で、少女の隣に男はしゃがみ込む。

 少女が吸っている銘柄はセブンスター。


「また重めの吸ってるね」

「煙草吸ってるのにそんなことを気にしても仕方ないでしょ……」


 しつこく話しかけてくる男に辟易している様子で、一息煙を吸い込み、肺まで到達させてゆっくりと吐き出す。慣れている様で、重い煙にえづいたりと言った様子もない。

 男は一目見て、煙草などの若い悪いことには慣れていて抵抗感がない子どもだと思ったことだろう。それを確認した男はバレないように目の色を変える。


「ねぇ、良かったらさ……君に良いものをあげたいんだけど」

「良いもの……?」

「そう、『良いもの』ちょっと付いてきてよ」


 そう言うと男は、少女に向かっておいでおいでと手招きをする。

 男の誘いは、ある程度健全な青少年や一般的な良識を持ち合わせた大人が見れば、明らかに乗るべきではないと判断できるだろう。

 少女は怪訝そうにしてるようだが、興味はあるのか、吸っていた煙草を途中ながら、灰皿に投げ捨て、男に誘われるがままに、新宿の膿がたまる路地へと足を踏み入れてしまう。


 上空の地図からだけでは分からない街の細部、駅の周辺が街の心臓だとすれば、ここは指先とも言えるのだろうか、路地の奥にある建築年数が随分と経っていそうな雑居ビルの三階のバーへと少女を連れ込んでいた。

 アングラなバーと言えば想像しやすいだろうか。他の客の顔ぶれも、肩から二の腕まで入った入れ墨や、指の一本や二本ないかもしれない背広の中年など、あまり日の当たる場所で仕事をしているとは言えない見てくれをしている。


 斯く言う少女も日本で暮らす真っ当な学生とは言えない見た目をしていると言っても良いかもしれない。

 先ほどは暗がりでは詳細には分からなかったが『明るい』と言った短い髪の色は明度を上げきったような、洒落た言い方をすれば光沢を帯びた灰桜、それと日本人にしては不健康そうな真白い肌に気怠そうな瞳は対照的に明るさを絞った夕空の群青色をしている。

 新宿によくいそうな、話しかけづらい甘めのふんわりしたファッション……少し良いように言い過ぎたか、濁さず言えば量産型地雷っぽいそんな見た目をしていた。

 絶対に触れたくない。


「それで、何くれるの」


 そんな場所でも、少女は物怖じせずに男の誘い文句の品を要求する。

 カウンター席で、当然のようにアルコールの注文も受け入れている。線を踏み越えるハードルが低いのは確かだろう。


「興味津々だね。それじゃあ、これなんだけど」


 特にもったい付けるわけでもなく男は懐から、小さな立方体のケースを取り出す。


「開けてみてよ」


 少女はケースを受け取り、空けてみると中に入っていたのは、金属の半円が組み合わさったような輪っか、内径は2cm位だろう。接合部は開閉でき、大きさはある程度切り替えられそうだ。


「これは……」


 人工指環レプリカ、と呼ばれる。ある意味薬物より厄介な、先天性の指環のメカニズムを逆転した発想から生まれたリハビリや医療器具として特定の職業の人間しか本来所持を許可されていない物品。

 つまり、非正規の横流し品。


「見慣れないかもしれないけど、これアクセサリーなんだ、俺、アパレルで働いててさ。大分昔に流行ったらしくて、今リバイバルブームになるんじゃないかって界隈で言われれてるんだよ」

「ふーんそうなんだ」


 そこで、少女は突っ込んでいた今までポケットに突っ込んでいた左手をようやく外気にさらす。


「私にも似合うかな?」


 その薬指の根元には銀色の指環が輝いていた。

 男の顔色が変わる。


「血色がよくないように見えるけど。大丈夫?」


 一切ぶれない声色で少女は男に問う。


「まあ、貴方の体調に興味はないけど、この……人工指環レプリカについて話を聞かせてもらえる?」


 指環に目を奪われていた男だが、改めて少女が取り出したものを確認する。そこにはこげ茶色の手帳が握られていた。


「で、刑事デカ!?」


 そこには警察の制服を着た少女の無表情なバストアップの写真と警察庁と刻まれた旭日章きょくじつしょうのエンブレムがあった。


「人工指環製造法違反だね。貴方を現行犯逮捕します」

「くそっ! おとり捜査か……」


 男は拳を握りしめて震えながら項垂れる。この反応は……当たりを引いた。と少女刑事は思っていただろう。


「こんなとこで、捕まっていられるかよ……おい! 野郎ども、女だろうが関係ねぇ! やっちまえ!」


 男はそういって立ち上がると、客として呑んでいたチンピラ、そして、店の奥からもガラの悪そうな男達が、少女を囲むようにぞろぞろと集まってくる。一般の客もいたのだろう、突如として物々しい雰囲気に、それぞれ酔った客は喧嘩と勘違いして野次を飛ばし、酔いの浅い客は不安そう様子を見ながら縮こまっている。


「抵抗するなら、公務執行妨害もおまけしないといけない」

「うるせぇ! 指環持ちだろうが、相手は女一人だ。てめぇら! 人工指環レプリカキメろォォ!!」


 少女と話していた男は周囲の仲間に号令をかけると、男と連中はそれぞれ人工指環を指に装着する。

 すると、彼らはアッパー系の薬物を投与されたかのように、ある者は恍惚とした表情を浮かべ、眼球の毛細血管が浮かび上がり、またある者は口元が緩んだようによだれを垂らしニタニタと気色の悪い笑みを浮かべている。


「大人しく逮捕されとけばいいのに……全員追加で現行犯逮捕か。流石にめんどいな……」


 少女刑事は小さくため息を吐く。


「今更、後悔しても遅ぇ! やっちまえ!」


 男達は一斉に少女刑事に襲い掛かる。


「書類送検の準備が、って意味」


 だが、少女は依然表情を崩さず冷静だ。


左人差し指ウォルインデックス四、中指ウィドウ四、右人差し指インデックスウィズ二、右中指ミドル一、随分攻撃的な構成だね。オフサイドには気を付けなよ」

 そう言って、男が迂闊にも渡した人工指環証拠品を懐にしまう。


 左手、心臓や神経系が発達した指環持ちに発現する指の位置。

 右手、頭脳や感覚系が発達した指環持ちに発現する指の位置。


 簡単に言えば、左手に付ければ前衛向きの肉体が、右手に付ければ司令塔的な頭脳が、大多数の一般的な人間よりも優れた力が手に入る。

 先天的な指環も同じカテゴリー分けと捉えてくれて構わない。

 ただ人工指環は外から肉体を脳を無理やり強化する都合上、用法容量を守らなければ神経系や頭脳に直接悪影響を与える。


「相手が一人しかいねぇのにどうやったらオフサイドになるってんだ!」


 その中の一人の手が肩に触れそうになる。

 だが、その腕を蹴り上げる足があった。


「汚ぇ手でウチの班員に触んじゃねぇよ……」


 蹴り上げた足の持ち主は、一見すると、チンピラたちに紛れこんでいた。連中とそう遜色のない射殺すような鋭い目つきを、あえて見せるようにくしゃくしゃの前髪を上げた、寄れたスーツの大男。ガールズーバーの用心棒やケツモチに見えなくもない。


「ウルフ、いたんだ。あんまり馴染んでたから気が付かなかった」

「近づきすぎだスパイダー。マル被とは一定以上距離を空けろって言ってんだろ」

「それじゃあ、不自然じゃん。それに、何かあったら、キミが駆けつけてくれる」

「それでもだ。怪我でもしたらどうする?」

「相変わらず過保護だねぇ。同じ現場の刑事だってのに」


 仏頂面の大男、本名ではないだろうがウルフと呼ばれた彼は、スパイダーと呼ばれた少女刑事を心配しているようで、彼女を背中側に、チンピラたちと対峙している。

 ウルフの左手薬指には少女刑事同様、指環がくっついている。


「警察庁、組織犯罪対策第三課、特異事例対策室だ。人工指環を外して全員床に手を置け」

「三課、指環専門の特殊部隊、RING……! だ、だが、たかが一人増えただけだ! 怯むことは――」

「誰が、発言を許可した」


 ウルフは喚こうとした男の顎を蹴り上げる。不意を突かれた一撃に、躱す、防ぐ等の余地はなく、脳を揺らされた男は意識を失い、床に倒れ込む。


「お、お前……警察官のクセに喋ってる最中の相手に」

「だから、いつ俺が喋れっつった?」


 続けて何か言おうとしたチンピラに向かって、先ほど男が座っていたステンレス製のカウンターチェアを蹴り飛ばす。

 運良くコントロールがぶれて壁にぶち当たるが、背の高いカウンターチェアが軽く大の大人の頭の位置まで蹴り上がり、ステンレスが砕ける音と、コンクリートの壁にボコっと穴が空く音がチンピラたちの背後で鈍く響く。


「チッ……外した……」

「な、何ビビってんだァ! 相手は指環持ちだろうが、こっちにも指環が……」

「そ、そうだ、兄貴の仇!」


 興奮した様子のチンピラたちは口々に騒ぎ、ウルフはうんざりした表情を浮かべる。


「どいつも、こいつも……お巡りさんの言うことを聞かねぇ馬鹿ばっかりだなぁ!」


 囲まれている状況を一切意に介さず、ウルフもチンピラ連中にガンを飛ばす。


「馬鹿は逮捕しなくちゃなぁ!」


 ウルフの咆哮に呼応するように、チンピラが改めて襲い掛かる。

 酒瓶を持ち出したり、鉄パイプを持ち出したり、中には拳銃を取り出す者までいた。


「グロック、9mmパラベラム9パラ


 拳銃を確認した少女は素早くウルフに情報を伝える。


「そんな豆鉄砲関係ねぇな!」


 そう言いつつ、ウルフは一切の躊躇なく真っ先に銃を構える右手に指環を付けた男に向かう。

 銃を構える男は不慣れな手つきでウルフに狙いを定めようとするが、近い距離でありながら、大きく素早く左右にレの字を描くように迫る一匹の獣に翻弄されている。何度か発砲をするが、まるで当たる気配もなく床に弾痕を残すだけに終わる。

 ウルフは慣れた足さばきで拳銃を真上に蹴り上げ、そのまま軸足で無理やり身体を捻りその慣性だけで上げた足を鞭のように腹を殴りつける。


 「グえっ……!」とうなり声を小さくあげて、激しく転がり店のテーブルに身体を打ち付け拳銃男は動かなくなる。死んではいない、多分。

 それを目にしながらも、鉄パイプを持ったチンピラが怯むことなく背を向けるウルフにそれらを振り下ろそうとする。


「――がっ!!」


 その悲鳴はウルフ……ではなく彼の背後から。


「ゆ……スパイダー……!」


 振り返ると、鉄パイプを落とし股間を抑えながら崩れ落ちるチンピラの後ろに、どこをとは言わないが相手の特定の部位を蹴り上げた後の少女がいた。


「流石に多勢に無勢なんだし、こういう時くらいは頼ってよ」

「……絶対、離れるなよ」

「おっけ」


 ウルフが蹴り上げ天井を経由して落ちてきた拳銃を少女は左手で掴み取り、一切周囲を見ることなく、左に一発、右に二発、発砲する。


「二人……あ、やば、余分に撃っちゃった。弾数少ないのに……」


 彼女が放った弾丸は左右にいた男のそれぞれ肩と太腿、アキレス腱を貫き無力化する。


「コピー品にしては、良い製品だね。これ、どこで売ってるの? そこにガサ入れするって意味だけど」

「警告もなしに撃ちやがった……」

「ウチの部署、ちゃんと試験通ったら人工指環相手に発砲許可要らないんだ。こっちの筋肉ゴリラは受かってないから安心しなよ」

「ゴリラじゃねぇよ」


 その男はもはや捨て鉢になって襲い掛かってくる男を蹴り飛ばしながら言う。


「狼だ」

「知ってる」


 残った弾を撃ち尽くすように、一発ごとに一人ずつ、行動を封じられる部位に発砲し、合計で四人の動きを封じる。


「これが、特殊部隊……RING……」


 残った男たちは瞬く間に七人を蹴散らした二人を見て、我先にと店の外へ出て言ってしまう。


「ありゃ、弾無いや」

「自分のはどうした」


 逃げる男達を追うために二人も走り出す。


「パーカーの中にあるんだよホルスター。囮だったし見せびらかしちゃ意味ないでしょ」


 外のエレベーターは男達が使っており待っている時間はないと判断し、階段を使う。その途中、一階のシャッターが降りていた部屋から、黒塗りのナンバーが剥がされた乗用車が、タイヤから白い煙を出し、あちこちに擦りながら飛び出すところを二人は目撃した。


「本部、店の中の連中は無力化したが、そのうち四名が逃走」

『は? 何やってんのアンタ』


 ウルフが耳つけていたワイヤレスイヤホン型の通信機に呼びかけると、帰ってきた声はウルフと同世代の女性のものだった。


「俺だけじゃなくてスパイダーも現場にいただろ……」

『まさかアンタ、あの子を戦わせたんじゃないでしょうね⁉』

「え、あ、いや……」

「私が現場判断で取り押さえに参加した。ウルフは悪くない。今は言い争ってる場合じゃないよ。今すぐあの車を追う。しおちゃんはナビゲートお願い」

『作戦中は名前で呼ばないで!』


 通信機の先の女性、晴川詩音はやや声を荒げながらも、諦めたように続ける。


『ああ、もう分かった、ユメ、プラネットで車を追って。葵、アンタは公用車のとこまで戻って先回り、それでいい?』

「お前が、名前で呼んでんじゃねぇか……」

『アタシの声はアンタら意外にに聞こえないからいいの、グダグダ言ってないでさっさと動きなさい』


 詩音に急かされ、二人は指示通りに動く。

 スパイダーというのはコードネームだろう、では少女改めてユメ。香澄夢芽は先ほど煙草を吸っていた場所の近くに駐車していた『プラネット』と呼ばれていた、旭日章が刻まれた大型の白バイに跨る。

 跨る。と書いたが、その大きさの差的には、ちょこんと置かれているように見えるかもしれない。

 だが、彼女は手慣れた動きでエンジンを賭け緊急車両を示す赤ランプを点灯し、新宿の街を駆け抜ける。


『ドローンで車を捉えた。進行方向的には首都高かしら……東京を出られたら面倒ね。周囲の被害が出るのもまずい、指定したポイントまで追い込んで』


 晴川詩音がそう言うと、プラネットに備えられたナビ端末にピンが刺さる。


「おっけ」


 指定された場所は、この時間なら人気がなさそうな廃工場付近、それを確認したユメはプラネットを走らせ、黒の乗用車を発見する。


「そこの黒の乗用車、止まりなさい!」


 こんな光景、なんとか24時ってテレビで見たことあるな。などと思いながら、無駄と知りながら搭載されているスピーカーを使って聞こえるように声を掛ける。


「誰が、止まるかよ!」


 無視してくれればいいのに時速100キロを超える速度の中、わざわざ男の一人が後部座席から身を乗り出し、持っていた拳銃で発砲してくる。


「当たるわけないじゃん」


 当然のように、ハンドルを操りユメは弾丸を躱し、乗用車に幅寄せする。煽り運転と言うべきか、名古屋走りと言うべきか、交通課に見られたら絶叫されそうな走りで車を追い詰め、目標地点に遠ざかる進路を取ろうとすれば先回りし道を塞ぐように立ち回る。

 ワイルドな感じでスピードをだしつつ、連中の乗った車を目標地点の廃工場がある袋小路まで誘いこんだ。


「追いかけっこも終わりかな」


 本来作業用の機材があったような場所にまで追い込まれ、男達の車両は横向きで急停止し、その背後でユメのプラネットもズサーと、どこかの赤いバイクで見たことある停止の仕方で動きを止める。

 そこには先回りしていた、ウルフ改め、雨森葵が待ち構えていた。


「チェイスは楽しかったか?」

「流石にバイクで100キロは肝が冷えるって……」


 言葉とは裏腹に涼しい顔でヘルメットを外して、彼女はバイクから飛び降りる。

 急停止の衝撃で、多少怯んでいるだろうと思い、二人の刑事は車の中からチンピラの連中を引きずり出そうと近づく。


「畜生、バケモンどもがァ……!」


 その声は停車した車の中からだった。

 それは悪あがきか、自らがブレーキを踏んだからか僅かに他の連中よりも急停車した衝撃がある程度少なかった運転手は、アクセルを踏み、ハンドルを切り、急旋回する。

 つまり、背後にいたユメに向かって、車で突っ込もうとしたのだ。


「っ!? ユメ!」

「分かってる。コール、『スパイダー・ネット』」


 素早い反応で彼女は、指環に向かって囁くように告げる。だが、すでにフロント部分が鼻先を掠めそうになるほどに接近を許している。


『声紋認証クリア、随行支援ユニット『プラネット』機動強襲モード起動』


 あと数ミリでユメに衝突する直前に、自慢の脚力と瞬発力で車を追い抜きユメの身体を抱き抱え距離を置いた葵と、合成音声と激しい衝撃音と共に動きを止める黒い乗用車。

 車の運転手はアクセルから足を離していない、ただボンネットは歪み、駆動している前輪が空中に浮いている。


「ありがとう。葵。プラネットも」


 ユメは隣に立つ白い鋼鉄の巨人と抱きかかえた現実味のあるサイズ感の巨人に感謝を述べる。


「危ねぇ……心臓が止まるかと思った……」


 順番が前後して申し訳ないが、ユメが『コール』と告げた瞬間。プラネットはハンドルにも液晶にも触れてもいないのに自ずと、動き出し、元のバイクの雰囲気を残しながら人型の、有り体に言えばロボットのような姿へと変形しながら、所有者を守るように車を持ち上げたのだ。


「な、なんなんだ……」


 ユメたちが答えるわけもないので、代わりに答えよう。

 支援ユニット。細かい話を滔々と説明しても詮無いのでざっくり言うと、公的機関に属する指環持ちがそれぞれに与えられる専用装備。

 きっと男も違法な横流し品の携行サイズのユニットは見たことはあるかもしれないが、このサイズの物は初めて見たことだろう。

 なにせ、このプラネットは研究段階の試作品で、指環持ちの自重を支え乗り物のように移動が可能な随行支援級重量級のユニットは世界中でもこの一基だけなのだから。


「お前が無事ならよかった」


 アクセルをいくら踏んでも仕方ないと運転手は観念したのか空回りしていたタイヤの動きが止まり、ひしゃげた車が乱暴に地面に置かれる。


「んじゃまあ……」


 葵は丁寧にユメを地面に降ろし、車のボンネットに飛び乗る。そして当然のようにフロントガラスを蹴破った。

 その目は警察官が悪党を捕えようとしている。とは言い難いかもしれない、明らかにその瞳は憤怒の情念で光が反射していない。

 チンピラとは言え銃なんかを持ち出している連中の車だ。暴力団関係者だろう、それを裏付けるように防弾仕様の強化ガラスだったが、葵は一切の躊躇もなく、そしていとも容易くそれを粉々に打ち砕く。

 ガラスの雨を腕で防ぎ、プラネットのライトで逆光に照らされる葵を前にクズリ泣く運転手のチンピラ。


「畜生……畜生……」


 流石に二度の衝撃と人工指環の副作用もあってか他の三人は勝手に伸びている。わざわざ手を出すまでもないだろう。


「てめぇら、公務執行妨害、並びに道路交通法違反、あとなんだ? まあいい、その他諸々で現行犯逮捕だ」

「畜生、畜生! これからなんだ、これから! こんなところで、終われるかよぉ!」


 そう吠えると運転手の男はハンドルを力いっぱい握りしめたかと思うと、それはペットボトルのように簡単にひしゃげた。

 人工指環のついている指は、左手人差し指……握力強化。


「俺は、俺は……極道になった瞬間から腹ぁ括ってんだよ!」

「うるせぇ」


 やはり、暴力団構成員。検挙すれば根っこから検挙に繋がることだろうが、『そんなこと』今の葵は興味がない。

 常人を逸脱した握力を目にしながらも、ボンネットの上に仁王立ちをする葵は吠える男に冷ややかな視線を向ける。

 ひっ、と小さく悲鳴を上げ、その視線にわずかに怯える男を尻目に、きっと彼はこんなことを考えている。

 丁度、蹴りやすい位置にあるな。と。


「これ以上、抵抗すれば、手が出るが、どうする?」 

「な、舐めんじゃねぇって言ってんだろぉ!」


 情けないながらも、なおも抵抗しようとボンネットに乗る足に男が掴みかかる。


「あぁ、悪わりぃ」


 バキっと、派手な音ではないが、かといって人から聞こえるような音ではない、そんな音が、男の顔から発せられる。


「手じゃなくて、足だったわ」


 その手が足に触れるよりも先に、葵のつま先が男の鼻っ柱をへし折っていた。


「うぇ……! あ、う、うぅ……」


 声を出して叫ばないだけマシだな、などと思いながら呻く男を眺めたかと思うと、葵は蹴り上げた足をそのまま下ろすように、男の左手に踵を叩きつける。


「――っ!」


 男は唇を噛み締め痛みから出る、叫び声を何とか口の中に抑え込む。


「これで指環壊れたろ。ま、ついでに指も折れたけど、お前らみてぇなヤクザもんなら指の一本二本折れたところで屁でもないよな。くっついてるだけありがたいと思え」


 超人的な能力を持つから指環がある純粋な指環持ちと違い、外から指環をはめることで疑似的に超人性を手に入れる人工指環は、それを壊せば、分相応の人間程度の能力に戻る。

 そのことを理解しているにも関わらず、まだ、抵抗を続ける意思があるのか、男は助手席や後部座席を確認し、持ち出した銃や指環を確認する。


「おい」


 葵はかつてフロントガラスだったものを踏み越え、ダッシュボードにガンっと足を叩きつける。


「妙な動きをしてみろ、次は顎を蹴り上げる。起きたら警察病院のベッドの上はアンタも嫌だろ」


 その葵の言葉は男から馬鹿な動きを止めるには十分だった。


「は、はい……」


 何かをするよりも早く、その足が動く。言葉にするよりも容易く想像が付いてしまったのだ。


「あんま暴れないでくださいよ。こっちもアナタたちを怪我させるのが仕事じゃないからさ」


 葵が男を無力化するところを静観していたユメが、観念した男に手錠を掛け、無線で報告を飛ばす。


「たかが銃チャカ横流ししただけじゃねぇか……たかが二、三人ぽっち女子供泡風呂ソープに沈めただけじゃねぇか……」


 などと、反省の色が見えない男を尻目に、報告を済ませたユメが葵に駆け寄る。


「ちょっとやりすぎだよ」

「指環付けた相手に容赦するなって室長ボスも行ってるだろ」

「相手との力の差が分からないほど子供じゃないでしょ。正直に話して」

「……頭に血が昇った。あの野郎、お前に手ぇ出しやがった」


 思いっきり私情だった。これは報告書が大変だ、とユメは考えていた。


「私も警察、君と同じ巡査部長。多少の危険は覚悟してるよ。もう子供じゃないんだし」

「……悪かった」

「謝るのは私じゃなくて、矢面に立つ室長ボスとか、報告書手伝ってくれるしおちゃんに。現場の責任は二人の責任でしょ。一緒に怒られてあげるから。少し休んでから戻ろ?」


 ん、とユメは葵に左手を差し出す。


「囮やってるときに空になっちゃった」


 その掌の上に、葵は自分の煙草を一本渡す。


「疲れたね」

「そうだな」


 ユメが咥えた煙草に火を点け、ふとその指を見る。

 その左手の薬指には『指環』がくっついている。

 あの頃についていた右手の指には何もない。


 あの日から、変わってしまった。あの日、針金の指輪を渡してから。

 針金の指輪は、そこにはもうない。



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