第1話 消えた痕跡
シェラスタンによる襲撃から2日。
ハルツグの姿は、玉都と運河の町・タスエの丁度中間あたりにあるキルケ村にあった。
彼女は宿屋の看板を確認して、飴色に光る取っ手を引いた。扉につけられた鈴がカランと音を立てる。
パチッと木の爆ぜる
田舎風の素朴な内装の中、正面の小さなカウンターでは小太りの女が1人肘をつき、こっくりこっくりと船を漕いでいる。片田舎の平和な昼下がりそのままの情景に、張りつめていた気持ちがわずかにほぐれる。
ハルツグはフードを取り「あの」と言いながらカウンターへ歩み寄りかけた。そこに右手奥にある階段から軽やかな足音が降りてくる。
「あ、到着されましたか」
「ごめんなさいね、遅くなって」
目の前に立った団員は「いえ」と答えると、気安い笑顔になった。
「お久し振りです。皇宮勤めはどうでしたか」
「それなりに楽しかったわ」
ハルツグはさらりと答えて小さく肩を竦める。
「少参丈も悪くはなかったけどね。やっぱり私はこの方がいいわ」
「そうですか」
「リスタルテは?」
「2階に。階段正面の部屋です」
カウンターの前を横切りながら、小太りの女をちらりと一瞥する。女は連れ立って行く2人に気付いた風もなく心地よい微睡の中にいる。
その呑気さが今だけはとても羨ましい。そう思いながらハルツグは案内されるままに2階へと上がって行った。
階段を上がって正面の部屋に入る。
全体的に小じんまりとしている田舎の宿屋にしては珍しく広々とした部屋だ。
3つ置いてあるベッドの一番手前には互い違いに倒れ込んでいるレトとラムダの姿があり、奥の卓ではリスタルテが残りの団員達と地図を囲んで話し込んでいる。
仰向けに倒れ込んだレトの顎あたりにこびりついている乾いた泥片と、うつ伏せに伸びているラムダの汚れきった靴とがこの2日の無為さを物語っていた。
「殿下はまだ見つかってないのね」
外套を解きながら発した声に奥のリスタルテが反応する。彼は人好きのする笑顔で片手を上げた。見慣れた八重歯がちょっと口元から覗く。
リスタルテと共にいるセレスティアン=シュヴァリエ南都守備隊の見慣れた面々からも口々に「おぅ!」、「久し振りだなぁ」と朗らかな声がかかった。重苦しい雰囲気一辺倒だった室内にわずかばかりの和やかさが染み渡る。
「来たか、ランシェリーナ。スーシェとイデルはどうだ?」
「ハルツグ」と言って外套を脱ぎ去る。
「今はその名前じゃなくてハルツグを名乗っているのよ。誰かさんのおかげでね?」
手近な椅子の背に外套を掛けて、彼女はリスタルテの真正面に立った。
「2人は大丈夫よ。重傷には違いないけど、今はクローシュ大兄がついてるし」
「墓守クローシュか。ま、あの人がついてるならいいな」
「おやめなさいな、その言い方」
ちくりと釘を刺しつつ、ベッドで死んでいる例の2人組に視線を走らす。
「状況は芳しくないようね」
「今も森に3人ばかし入ってはいるが……」
リスタルテは人差し指で自らの顎先を撫でている。17年振りに見る、彼の癖に気を取られてつい目を細めてしまった。そんなハルツグの視線には気づかずにリスタルテは大きく溜息をついて腕を組む。
「姫様の柔足でそんな遠くに行くとも思えんが。張り切って逃げたもんだな」
「そうよ。私達の姫様はそんなにやわじゃないもの」
「それは大いに結構。探し甲斐があるってもんよ」
「精道が乱れていて目視で探すしかないというのがまた厄介ですね」と団員の1人が言葉を挟んだ。
「まぁな。それに森っつうのはひと1人身を潜める場所がわんさかあるからな」
「もっと人員は増やせないの?」
「難しいな」
一顧だにせずにリスタルテは言い切る。
「シェラスタンの野郎が本当に帰ったのか保障がねぇからな。人員はどうしてもそちらに行く」
「よりによってこんな時に……。やっぱり私も一緒に行くべきだったわ」
ハルツグはぎゅっと眉を顰めて無念の思いを吐き出した。それはフェスタローゼ行方不明の一報を聞いた時からずっと胸の内に渦巻いている苦い後悔だ。
イデルは経験の浅いスーシェと守らねばならぬフェスタローゼを1人で背負ったために再起不能寸前までに追い込まれた。
あの場にハルツグがいればきっと違う結果になっていただろう。少なくともフェスタローゼが行方不明になるような事態にはならなかったはずだ。
ぽん、と優しく頭に手が乗る。顔を上げるとリスタルテの大らかな瞳と出会った。
「そう言うなって。あの状況で奮戦して姫様をきっちり逃がした2人を褒めてやれ」
余裕があったらあそこの死んでる2人も、と付け加えて彼は人の悪い笑みになる。
レトが仰向けに寝そべったまま左手だけを上げて「うぇ~い」と応じた。
「何だ、まだ手が上がるだけの元気があるのか」
レトはパタリと手を降ろして寝たふりをする。
「レトったら」
思わず笑顔になる。
視線を戻すと同じように笑顔のリスタルテと目が合った。
彼はしっかりと1回、深く首肯する。ハルツグは小さく頷き返すと、後悔をひとまず心の奥底に落とし込んで、リスタルテに向き直った。
「シェラスタンは一体、何しに来たのかしら」
「アマオトスの顕現具合を見に来たんだろうよ」
「……ナッサンドラ=アルフェントは動くと思う?」
胸の内にある懸念を口にする。“
ハルツグの懸念にリスタルテは人差し指で顎先を撫でながら、んー、と呟く。
「そうすぐに動く事はないだろうが……警戒はいるな。60年前の二の舞はごめんだ」
「そうね。確かに」
ハルツグは目線を卓上の地図に落として重々しく同意した。広げられた地図の、森に該当する部分を指でなぞる。
「でも何でナッサンドラ=アルフェントはあんなに対立して来るのかしらね」
「そらぁ、お前。あいつらの大好きなアマオトスに俺達がちょっかい出すからだろ」
「隊長の言い方、緊迫感なさ過ぎっす」
「恋愛のもつれみたいに聞こえるっす」
「違いない」
あはは、と明るく笑ってハルツグは一息ついた。そして地図の上に身を乗り出してフェスタローゼ達が通過してきた経路を辿って行く。その指がフェスタローゼを見失った森を抜けてその先に進む。
ハルツグは、トン、と“タスエ”の名を指してリスタルテを見上げた。2人の目がかち合う。
「行ってくれるか?」
「……脱ぐ必要なかったわね」
返事の代わりに脱いだばかりの外套を拾い上げてさっと羽織った。目深にフードをかぶった彼女にリスタルテが軽口を叩く。
「そんなにフードかぶっちゃ、イイ女が台無しじゃねぇか」
「馬鹿ね」
少しだけフードを持ち上げて、ハルツグは艶然と微笑んだ。
「見えないからいいんじゃない」
くるり、と踵を返して戸口へと歩いていく。
通りしなに、伸びきっているラムダの背中を「気張りなさいよ!」と叩いて、ハルツグは部屋から出て行った。
◆◇◆
水差しを持った少年が軽やかな身のこなしで、石だらけの河原を渡って行く。
「おぉ~、さむ、さむ」
歌うように口ずさみながら川の流れにとぷんと水差しを差し込んで水を汲む。少年の目がふと対岸に向けられた。
――何かある。
少年はそれを見極めようと、額に手をかざしてじっと目を凝らした。その目が文字通りに真ん丸になる。
「えらいこっちゃ!」
彼は独りごちて水差しをその場に置くと、野営の準備をしている祖父の元へと急いで駆けて行った。
「じいちゃん、じいちゃん!」
「おぅ、何じゃぁ」
とんとん、と腰を叩きながら振り返った祖父に少年は息せきって河原の方を指差した。
「河原で女の人が倒れてるよ!!」
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