第8話 揺らめく瞳

「何とか事は収まったようだな」

 

 陽光きらめく飛輪宮の一角で皇帝リスディファマスは寛いだ様子でソファーにもたれかかる。

 仄かに湯気が漂う茶器を皇帝の前に、ことりと置いて、皇内大務スルンダール上級伯は向かい側に腰を降ろした。


「一時はどうなることかと思いましたが」

「お前がか? いつでも手を打てるようにはしていたのだろう?」

「さぁ?」

 素気無く呟いて、スルンダール上級伯は自ら淹れた紅茶を一口、口に含んだ。

 皇帝も紅茶を一口飲むと、満足そうに茶器を置く。


「今回の事はフェスタローゼにとっても周囲を見直すいいきっかけになったのではないかな」

「あのお方はどうにも自らの出来ない事ばかりを気にかけ過ぎるきらいがあります。自らを全く省みないのも問題ですが、過度に責めすぎるのもまたよくない」

「そうだな」


 スルンダール上級伯の意見に皇帝は深く頷いた。

「確かにリスデシャイルは優秀な息子であった。しかし私にとってはあの子もまた優秀な娘だ。フェスタローゼの慈愛の心は必ずやこの国を纏める光となる」

「そのためにはもう少し、ご本人がその自覚を持たなくては」

「それは確かに」

「しかしこれで、少しづついい方向に向かうのではないでしょうか。エシュルバルド殿下もみえるし」

「あれはフェスタローゼのいい補佐役になるだろう。少年故の短慮もまだあるが、中々どうして大人顔負けの洞察力を発揮する時もある」

「お父上の才を継いだのでしょうな」

「父の才と言えば」

 皇帝の目にからかいの影が差す。


「スーシェはどうなんだ。頑張っているのか」

「あれはまだまだです」

 言下に切って捨てて、スルンダール上級伯は澄ました顔で紅茶を飲む。

「はっきり言って今のままでは物足らぬ。自らの感情に引き摺られて物事を見定めることができておりません。それに何よりもいけないのが、リスデシャイル様を通してフェスタローゼ様を見ていることです。あれではフェスタローゼ様も反発するしかない」

「相変わらず手厳しいな」

「そうでしょうか」

「お前を父に持つとは多少はスーシェに同情するよ」

 おかしそうに肩を揺らす皇帝にスルンダール上級伯は咎めるような視線を送った。


 しばしの沈黙が2人の間に舞い降りる。心底、気を許した者同士の豊かな静けさが辺りを満たした。沈黙の時を共有する中、スルンダール上級伯がふと顔を上げた。


「時に陛下」

「なんだ」

「和佐殿下の母君のことはお決めになりましたか」


 漂っていた安穏とした空気にピシリと一抹の緊張感が混じる。皇帝は物憂げに眉をひそめて視線を逸らした。

「正直な所迷っている。お前の意見は……」と言い掛けて皇帝は口をつぐむ。

 スルンダール上級伯は無言のままに軽く首を振った。


「最初から申し上げているように私は反対です。和佐殿下の母君はフィーリア様で間違いないでしょう。しかし、あの方は帝国においては20数年前に亡くなったとされるお方です。そして実際に7年前にご逝去されている。その事実を公開することの方が徒に世間を騒がせることになると思いますが」

「お前の言い分はよく分かる。だが……」


 言葉を切って、一拍。

 短く吸いこんだ息に乗せて皇帝はやるせない思いを吐露した。

「フィーリアは私の妹なんだ。数多いた兄弟の中でも唯一母を同じくする妹なんだ」

「重々承知致しております。あの場には私も居合わせました」

「ならば」

「全ては済んだことです、陛下。眠りにつかれたフィーリア様の墓を暴いて晒すことに如何ほどの意義があるのでしょうか」

「それはそうかもしれん。しかし」


 なおも言い募って皇帝は黙り込んだ。

 あの時の妹の様子が昨日のことのように思い出される。

 己の胸に縋った華奢な手。今生の別れと悟って潤んだ美しい碧眼。ふわりと鼻先を掠めた髪の香も全てを覚えている。忘れることができない。


 ふ、と皇帝の肩から力が抜けた。

 彼はぶっきらぼうに「もう少しだけ考えてみる」と告げると、温み始めた紅茶を一気に飲み干した。



 皇帝の前を辞したスルンダール上級伯は飛輪宮の前に広がる広大な庭園を見るとはなしに眺めながら歩いていた。

 令侍としてリスディファマスの元にやって来たのが40年程前。

 不遇の皇太子時代を共に過ごし、怒涛の即位を乗り越えて、様々な難問はあるが基本的に穏やかな今に辿り着いた。


 今更、過去からの便りなど誰も望んでいない。しかもこれだけ皇帝の甥、姪が問題を起こした後にだ。

 しかしかの君は過去に囚われている。亡霊ともいえる面影を追って、過ぎ去りし日々に彷徨いかけている。


「まったくどうしたものか」


 独りごちて、外の景色をなぞる目が庭園のある一点に絞られた。

 飛輪宮の向こうに広がる庭園に造られた東屋に佇む影がある。帝国式の衣装とは異なるあのシルエットは恐らく和佐だろう。


 真夏のぎらつく太陽が東屋の柱に遮られて、濃い影を落としている。柱に寄りかかった和佐は腕を組んで、じっとこちらを見つめていた。


 珍しい、今日はあの女性の護衛官は一緒にいないのか。いつもぴったり側にいるのに。


 そう思いながら行き過ぎて、スルンダール上級伯は足を止めた。

 名状しがたい違和感が胸の内にじわりと広がる。何が、とははっきり口には出来ないが、何かがひどく違っていた気がする。


 おかしな違和感に急かされてもう一度窓の外を見る。しかし彼方の東屋に和佐の姿は既になく、ただ真夏の熱気の中にがらんとした東屋が建っているのみであった。

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