近代広告概論:6
大学のパブリック空間には学生や大学職員、教授などたくさんの人がいたが、やはり誰が誰なのかよく分からない。
それは高校の時も似たような感じだったが、高校の時は、生徒は胸部分にクラスと出席番号が記載された名札を付けていたので、それで誰か識別することが出来ていた。
しかし大学では名札もないので、本当に誰だが分からないのだ。
「近代広告概論」の講義ではないが、「名前」に関しても世間では何度か炎上したことがある。
幸樹が具体的な炎上事例を思い出せるかというと残念ながらパッとは出てこないが、今の時代「名前」も気軽に呼べなくなってきている。名前から国籍や性別を推測されてしまい、人種差別や性差別につながりかねないからと言う理由からだ。
さらに、本名は個人情報流出に繋がる恐れがあるとし、また、あだ名やニックネームもいじめに繋がることから、パブリック空間で積極的に名前を公表する人も少なくなっているのだ。
幸樹だって、その漢字の名前から男性のように思えるが、「
漢字から男性ではないかと無意識にバイアスがかかっている人もいると思うが、幸樹はあまり気にしていない。
それから「近代広告概論」の教授も自ら女性であると公言しているし、同じサッカークラブの
いつもどおりコテージの認証システムを解除して、パブリベート空間に入る。
「おう! 初戦、幸樹と対戦決まったな!」
ブライアンがソファにくつろぎながら幸樹に向かって言った。ブライアンは犬の姿のアバターだ。
「幸樹っ! 予選トップおめでとうっ」
雨桐が駆け寄って幸樹を抱きしめた。雨桐はサッカー選手のユニフォームを着た男性のアバター姿だ。
「ありがとう」
ここ、令和メタバース大学のパブリベート空間では、みんな自由なアバター姿になることが出来るのだ。幸樹は女子大学生のアバター姿である。
「ブライアン、雨桐、ごめん、ポスターの締め切りが今日までなんだ。部屋にこもるね」
「分かったっ! 頑張ってねっ」
二人にそう話すと、幸樹は二階の自室へと向かった。部屋の前の認証システムを解除してプライベート空間に入る。
幸樹の姿は、現実世界と同期された。プライベート空間ではアバターでいることもなく、ありのままの自分でいれるのだ。といっても幸樹の姿はパブリベート空間のアバター姿とほとんど変わらない。
幸樹は画像編集ソフトを開き、ポスターの仕上げに取りかかった。
ポスターはパブリック空間に掲載されるので、広告が炎上しないように細心の注意を払わなければならない。
チーム名の「ユナイテッドES東京」の下に書かれている英語表記「United eSports TOKYO」にスペルミスがないか丁寧に読み上げる。
人物の配置やポーズに、炎上するような要素が含まれていないか確認する。背景に映ってはいけないものなどが映り込んでいないか確認する。キャッチコピーや詳細説明に差別的な言葉がないか確認する。そうやって一つ一つに炎上要素がないかを確認していく。
「近代広告概論」で講義したように、この数十年で広告やイラストなどの制作物に対する規制が厳しくなった。
ひとつの制作物に対して、
ひとつでも引っかかると、その都度、やれ女性蔑視だ、やれ人種差別だ、やれ男性びいきだと、毎回毎回、炎上しては議論がされてきた。
全てを賄うには、男性女性だけでなく、様々な差別に配慮した制作物を作らなければいけない。
ある時期からそのように広告手法が変化していった。大手広告代理店が先導して、ルールブック作成し、広告基準を作った。
一つの広告において、あらゆる性別に配慮し二名以上登場させ、年齢にも配慮しさらに複数名登場させる、その上、外見にも配慮し多様な人物を登場させ、最終的には十数人の人物が描かれる。そういった広告が主流となった。
しかしそれはそう長くは続かなかった。資金のある大手広告代理店ならともかく、中小の広告代理店には、一度に多数の人物を起用することが出来なく、例えAIがクリエイティブを描き、AIが広告基準に満たしているかをチェックしたとしても、最終的には人間が、細かい基準を全てチェックする必要があり、しかしそのような人的リソースを持ち得ていなかったのだ。中小の広告会社は度重なる炎上に疲弊した。
ちょうど同じ頃、メタバースが活発化し、メタバース内で自分の姿を好きなように変えることが出来るようになった。
それにより生まれ持った性別や身体的特徴、さらに文化、職業などとは一旦切り離し、誰もが望む姿へと生まれ変わることができ、多様性の理解が大きく前進し、さまざまな表現が認められ始めた。
広告規制もメタバース内では緩和されたのだが、それも束の間。
男の格好をしても女の格好をしても、結局は現実世界と同じような差別が横行し始め、やがてすぐにそれらは「メタ差別」だと言われるようになった。
これには中小の広告会社のみならず、大手広告代理店も、政府すら、気にかける事項が多すぎると疲弊した。
政府はそこで、メタバース空間を、パブリック、パブリベート、プライベートの三つの空間に分けるように法律を作った。
プライベート空間では、現実世界と同様にありのままの姿でいられる。パブリベート空間では、限られたメンバー間のみでの交流なので、好きなアバターの姿でいることが認められた。
そして問題はパブリック空間だ。この空間は広告などの制作物はおろか、空間内にいる人物全てを同じアバターで統一することになったのだ。
多様性は多様性を失った瞬間だった。みんな違ってみんないい、という発想はなくなり、みんな統一することが差別を生まない安全な方法として生み出されたのだった。
アバターは女性らしさ、男性らしさによる差別をなくすために、ボディラインは統一された。長い髪が女性、短い髪が男性といった偏見もなくすために坊主頭に統一された。職業差別をなくすために制服は描かず裸のままにした。性差別を生まないために胸や性器はなくした。さらに人種差別をなくすために、全ての肌の色はグレーに統一。口元の色っぽさを出さないように、小さな口に統一。そしてそれでは感情が分かりにくいからと、目だけは大きな黒い目にして感情表現を出来るようにした。
そう、それは昔から宇宙人として描かれてきた「グレイ」の姿そのものだった。
すべての制作物の表現はこのグレイの姿に統一されたのだ。
さらにその表現はメタバースのパブリック空間だけではなく、現実世界にも適用されていった。
まずは現実世界に存在する広告物が対象となった。広告炎上を避けるため、みんな平等であるため、すべての広告に描かれる人物は、グレイの姿になった。
それと同時に、マンガ、アニメ、ドラマ、映画、演劇、小説、ライブ、スポーツなどのコンテンツ自体が公共の場所から消えた。これらのコンテンツは、現実世界、メタバース問わずパブリベート空間かプライベート空間でしか見られなくなった。
最近では、好奇な目で見られるのを避けるためか、公共の場では、顔の特徴やボディラインなどが一切分からない、グレイの被り物とボディスーツを着ている人もかなり増えてきた。
多様性は失った。どうして広告業界や政府はこんな法律を作ったのだろう。どうしてこれが当たり前になったのだろう。
メタバースネイティブな幸樹にとっては、小学生の時からグレイの姿でいた。
学校に行くのにもサッカーをするにもみんな同じ灰色のグレイだ。先生も学生も。
「近代広告概論」の教授も、芸能人の広告も、ドラマや映画のCMも、おむつや洗濯洗剤のメーカーの広告も、ブライアンも雨桐も、公共の場ではみんな灰色のグレイなのだ。
もうこの姿になれてしまった。これが当たり前になった。ワレワレハ、ウチュウジンなのだ。
だけど。多様性がいかに大事か。現実世界で外に出て、グレイの姿をしていない人間に会うと、こんなにもいろんな特徴のある人がいるんだということを改めて実感できる。みんな違ってみんないいことがいかに素晴らしいことであるか実感できる。
もし、今世界が滅んで、残された広告などの制作物を別の惑星から来た宇宙人が発見したら、この地球に暮らしていた人類はグレイだったと思われるだろう。
十一人がみな同じグレイの姿をしたポスターを眺めて幸樹はそう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます