厄介な怪異

 真知の所有する怪異《思考螺旋》は記憶に介入することができる。他人の記憶を傍聴して、改竄することができる。それは思考螺旋の上澄みにしか過ぎない力だが、本質に触れるのは、もっと後でいい。重要なのは、今、記憶を覗かせてくれと頼まれたことだ。

 二つ返事で了承しようとして、はたと気付く。記憶を覗かれるとは、傍聴されるとは、嗜好を、性癖を、思想を、境遇を知られることで、それは思考を掌握されることに他ならない。

 故に思考の螺旋――渦――なのかとみづほは思う。

 思い返してみれば、他人に知られたくないことはいくらでも浮かんでくる。他人に見られたくないものを数え上げればきりがない。

 例えば、単純に、自分の体。

 風呂に入るとき、用を足すとき、あるいは自慰に耽るとき、みづほの眼はみづほの体を観察して、映像として刻み込み、その時の感情とともに記憶する。

 人間の記憶は箪笥のようなものだと聞いたことがある。記憶を忘れるというのは引き出しが開きづらくなっただけのことで、その中には確かに残されている、と。そもそも人間の記憶領域は百年以上の知見を収めるだけの容量キャパシティを誇る。忘れていたつもりになるだけで、思考の奥底では失われていない。それを見られるのは、少しどころの話ではなく、恥ずかしい。

 とてつもなく、身も心も焦がれてしまうほどに恥ずかしい。

 覗かれたくない、と言えばどうなるのだろう? 身を引いてくれるのだろうか。もしくは無理やり覗かれるのだろうか。思考螺旋が記憶の改竄にも関与できるというのなら、覗いた後で「覗かれなかった」と偽の記憶を仕立て上げられることだってあるだろう。

 みづほはしばらく迷った末に、条件がある、と切り出した。

「まず、告げていいのは《伝染の怪異》に関することだけ。それ以外のことを言いふらしたり、悪用したりすれば殺すから」

「殺すのは私もやる!」

 美玖が挙手した、意気揚々と。

「約束する。みづほの秘密は、僕の裡だけに留めると」

 忘れないから、と念を押してから、みづほはもうひとつと指を突き付けた。

「プライバシー侵害料として、二百万」

 美玖と真知は揃って目を丸くして、みづほはどこか高揚した様子で笑顔を浮かべた。むふう、そんな擬音語オノマトペが聞こえてきそうな、誇らしげな顔。微妙な沈黙が漂い、それを最初に破ったのは美玖の笑声だった。アハハハハ、釣られて真知も喉を震わせた。

 真知は金庫を開け、中身をみづほの前に積んだ。一万円札の束が二つ、二百万円分。みづほは受け取り、初めて手にした大金に興奮しながら美玖に差し出した。

「この前のお金、支払うわ」

「はいはい、確かに受け取ったわ」

 愉快そうに受け取り、札束は真知に戻された。金庫にしまわれ、それで終わり。

「さて、覗いていいよ」

 どのようにするのかは知らないが、みづほは目を閉じて頭を差し出した。記憶を覗くというのなら、弄るのは脳に違いないだろうから。そんなに慌てなくていいよとみづほを制し、真知はエプロンを外しながらカウンター内から出た。みづほの正面に立ち、椅子に深く座り直させる。瞑られた目はそのままに、そっと額に手を被せた。

「本当にいいね?」

 今さら蒸し返すようなことを聞かないで、と言わんばかりに返事はなかった。

 神経を尖らせ、ゆったりと肺から空気を搾り出しながら、真知は怪異譚の名前を唱えた。

 思考螺旋――螺旋の渦に思考を掌握させよ、と。

 須臾、みづほの意識は途切れた。ゆっくりとフェードアウトしていくのではなく、ブレーカーが落ちるように一瞬で。意識に介入されたのだとわずかに感じることはできたが、みづほはすでに晦冥に呑まれ、外界を知覚することはできない。自意識さえもおざなりとなり、彼女は転落した。

 一方で、真知の視界は膨れ上がる。視神経を殴られていると錯覚するほどの暴力的な光景を前に、真知はゆっくりと周囲を俯瞰した。記憶を覗くことは、膨大なキネマを編纂する行為に近い。対象が生きていた時間、経験した事物は途方もない情報量の嵐となって記憶の中で流れている。時系列に沿って並んでいることはない。一分前の出来事の隣には、一年前の出来事が流れていることもあり得る。

 真知は思考螺旋を奮い立たせ、現在のみづほを探した。

 探り当てたなら、そこから遡るように記憶を辿っていく。現在から初めて、みづほに怪異の影が射し込むまで、キネマを逆再生で観察していく。

 体感時間は現実の数十倍にも及ぶ。目まぐるしく変化していく記憶の嵐を、自身の記憶回路に刻み付け、目的の情報だけを拾い上げる。ふと、真知は『彼女』の姿を認めた。なおさらのこと意識して『彼女』を記憶に刻み込む。早送りされたキネマは瞬く間に終わり、そこから先に流れているのは、怪異に関与していない頃の記憶だった。

 必要以上に個人を暴くべきではない。それはみづほの矜持を損なう行為だ。真知は思考螺旋を眠りに就かせた。現実に戻ってくる。真知の手が離されたことで、みづほも覚醒した。

「役に立つ情報は得られた?」

「あぁ」

 どこか気が引けた様子で応え、本棚からスケッチブックを取り出すと鉛筆を走らせた。描き出された少女の姿に、みづほは覚えがあった。あの日、あの夕暮れ。真知と出会い、セリアに連れてこられた帰りに見かけた少女だ。

 フードを目深まで被って貌を隠している。フードには、ある模様が印刷されていた。

 人間の髑髏しゃれこうべ。虚ろに空けられた眼窩と鼻孔、上だけが描かれた歯牙の並び。

「さしずめ《髑髏の貌スカル・フェイス》と言ったところか。みづほが視認したのは一度だけのようだが、みづほの夢が発現する直前から《伝染》に至るまで、彼女はずっと、張り付いている」

「そこまで一致するなら、黒、もしくはグレー。従者である可能性も残されているしね。けれど、これでするべきことの指針は決まったわ」

 髑髏の貌を追う。

 具体的にどうするのか、みづほには分からない。そこから先に関われるだけの技能は備わっていないのだから。これでお役御免だ、と身を引こうとして、

「明日もよろしくね、みづほ」

 思考を読まれたのか、美玖に声をかけられた。

「お金を受け取ったでしょう? それなら、最後まで付き合ってもらうわ。もちろん、無事に解決した際には、相応の報酬も約束するから」

「……私なんかが、役に立てるのかな」

 みづほはこれまで弱者でしかなかった。強者になり得た怪異さえ、すでに失った。

 彼女の胸中を察したのか、美玖はスケッチブックを指し示した。

「《髑髏の貌》を探し出すことができた。それはみづほのおかげよ」

 こんな自分でも頼ってもらえる。誰かの役に立つことができた。その嬉しさが先行したのかもしれない。みづほは何を考えるでもなく、情動に突き動かされるまま答えた。

「うん、明日も使って」

 美玖もまた、上機嫌に微笑んだ。一方で、真知は眉をひそめ、内心で呟く。

「厄介な怪異だ」

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