ある朝
海岸沿いをしばらく走って、ぽつんと立った自販機を見つけたので速度をゆるめた。
路肩に寄せ、車を停める。ドアを開けると磯のにおいが鼻をつく。悪い心地はしなかった。
明るいとも暗いとも言えない曖昧な
白い缶を片手に車の方まで戻る。なんとなくまだ外の風に当たっていたくて堤防に缶を置いた。
運転していたこともあって身体には疲労感があるが、一睡もしていないのに眠気はまったくなかった。缶の横に腰掛けて海に
明け方の涼しい潮風が心地良い。水分を含んではいるが、昼間に比べればずいぶんサラサラとして、俺の頬を
――こもって淀んだあの部屋の空気とは正反対だ。
ついそう思ってしまったときにはもう、お前の部屋を思い出していた。
閉め切った部屋は暗く、じめじめとしている。お前は小さい身体を一層
なにかと準備に動く俺を、お前が呼ぶ。何度目だろう。十分と経たないうちにまた呼ばれるので、その度に手が止まってすべきことは遅々として進まない。
それでも俺は、すぐにお前のそばに行く。そばに、と言ったってたかが数メートルだけど。数メートルだろうと数十センチだろうと、触れることができない距離はお前にとっては全部遠すぎるらしい。
後ろから抱きしめるように座って細い髪を撫でてやる。しばらくそうしていたら落ち着いたようで、俺はまた立ち上がろうとした。
中腰になったところで服の
丸く大きい目が、俺を見上げていた。
「ボク、ミルクティーが飲みたい」
とお前は言う。
そういうわがままも日常茶飯事だ。ちょっと待ってと言ってキッチンへ向かう。牛乳なんてないんじゃないかと思いながら冷蔵庫を開けると、やはりなかった。そのことを告げると「じゃあ自販機かコンビニでミルクティー買ってきて」と言う。ブランドまで指定して。白いパッケージのロイヤルミルクティー。あいつが一番好きだったやつ。思わず顔をしかめたが、キッチンカーテンのおかげで見えていないはずだ。
「もう無理だよ、ドアにテープ貼っちゃったし」
笑顔を作り直して部屋に戻りながらそう言うと、お前はやっと諦めてくれたようだった。
俺は緑のテープを手にとって、窓の目張りを再開する。ビーッ、と音を立ててテープを伸ばすたび、視界の端でお前の肩がびくりと揺れる。
自分から言いだしたくせに何を
そんなふうに怖がる必要なんてないのに。
「大丈夫」
手を止めずに声だけかける。
「俺がついてるから」
だから、お前が恐れてるようなことにはならないよ。
やっと準備が整った。置物のように部屋の真ん中から動かないお前の前に、コップと小皿を置いた。
「一緒に飲んで」
皿の上の白い錠剤をつまみ上げながらお前が言う。
「もちろん」
最初からそのつもりだった。自分の分を取ってきて、お前と同時に口に入れる。水と白い粒が合わさって、口の中でシュワシュワと溶けていく。
なめらかな白い喉がごくりと動いたのを確認し、俺も甘くなった水を飲み込んだ。
そして並んで横になった。
お前はまたいつものように、自分の話をした。何度も聞いた話だった。ボクは天使なの。ボクはこんなにいい子なのに、どうして不幸なの。この世界は理不尽だ。悪いやつばっかり報われる。他のやつばっかりいい思いをする。ムカつく。気に入らない。バイト先で叱られた。ボクは悪くないのに。誰それが褒められていた。ボクだってそれくらいできるのに。だからバイトに来られないようにしてやった。だって向こうが悪いんだ。ボクのこと馬鹿にしたんだよ。ひどいよね。ボクは傷付いたから自分を守っただけなのに。こんなことばっかり。人間はバカばっかり。ボクはかわいそう。つらくてつらくてしょうがない。
そんなことを言って泣く。俺はそれを聞き流しながら、思い出していた。
昔、あいつはよく泣いた。ぼくが悪いのかな、でも何がいけないのかわかんないんだ、と言ってぽろぽろと泣いた。男だろ、そんなことくらいで泣くなと笑って拭ってやった涙は、それはそれは綺麗な涙だった。
今、すぐそばで流れている黒く汚れた涙は、拭ってやろうとも思わない。
天井を眺めていると、名前を呼ばれた。
「一緒に死んでくれてありがとう」
返事はしなかった。
「こんな世界嫌だってずっと思ってたけど、ひとりで死ぬのは怖かった。でも、一緒に天国に行けるなら、ボク、もう何も怖くない」
「……大丈夫だよ」
天国になんか行かせないから。
「ねえ、ぎゅってしてほしい」
お前はそう言って
胸に押し当てられた顔を見下ろしていると、長い
「最後に、言いたいことがあるんだ」
そう言うと、腕の中のお前が頷いた。小さな耳に唇を寄せて、言った。
「お前があいつを殺したんだ」
何秒かの沈黙。
しばらくして、ようやく「え」と掠れた音がした。
「お前が俺の弟を殺した。お前のせいであいつは死んだんだよ」
耳の穴に流し込むように、弟の名前を
「覚えてないか?」
返事は、なかった。まあ、わかっていたけれど。だってお前は、俺と初めて会ってから一度だって弟の話をしなかったもんな。同じ苗字なのに思い出しもしなかったんだろ。
「だと思ったよ」
吐き捨てるように言うと、腕の中でお前がもがく。だけど、二回りも大きい俺に敵うはずもない。押さえ込んで動けないようにしたら、諦めたのか睡眠薬のせいか、お前は抵抗をやめた。
「弟だけじゃないんだろ。死ぬまでじゃなくても、気に入らない奴いじめて追い込んで。他人を傷付けることに躊躇ないもんな、お前。そのくせ自分は被害者のつもりで、本当に救えないな」
ちがう、ちがうとくぐもった音がしたが無視した。
「お前がもう少しまともになってればと俺も思ってたよ。弟が死んでからもう何年も経ってる。お前だって大人になって、過去の愚行を反省して更生してれば、俺はお前に近付かなかった。でも悪くなってんだもんな。いい年して自分のことボクとか天使とか言うメンヘラ女、気持ち悪くて笑えねぇよ」
胸の辺りを殴られている感触があるが、小柄な女、その上力が入っていないから痛くも
「ひ、と、ごろし」
「たす、け」
「て?」
うまく出せなかった一音を補ってやると、また弱々しく胸を殴られる。
たすけて。誰か。殺される。そんなようなことを言おうとしているみたいだ。
「安心しろよ。お前を死なせたりしないよ」
そんな簡単に、お前を楽にさせるわけないだろ。
その言葉が聞こえていたかどうか。ついにお前は動かなくなって、すーすーという規則的な呼吸音だけが残った。
それから俺は自分の痕跡を消し、ガスの元栓を開いてお前の部屋を出た。ドアの養生テープはすぐ
無事目張りを終えた俺はしばらく時間をつぶして、またお前の部屋に戻った。ガムテを剥がし、大きく息を吸ってから口元をタオルで押さえて中に入る。
息を止めてるのに、それでもガス臭い気がした。急いで元栓を締めてお前の様子を見に行く。首筋に触れると、脈があった。良かった。死んでしまったらその時だと思っていたが、できれば生かしておきたかった。すぐにお前から離れて、再びガス栓を、今度は全開ではなくちょっとだけ開く。ドアの目張りも剥がれているし、これくらいなら外に漏れるだろう。臭いに気付いて誰かが通報すれば上出来だ。
そろそろ息が限界だった。俺は今度こそお前の部屋をあとにし、あてどなく車を走らせて、いま、日の出を迎えんとする海を眺めている。
太陽はまだ昇らないが、空はだいぶ明るくなってきた。俺は横に置いていた缶を手に取った。
プルタブを開けて口をつけると、冷たい甘さが流れ込んでくる。普段ジュースの類を飲みつけない俺には慣れない味だ。でも、あいつはこれが好きだった。歳の離れた弟は、目に入れても痛くないほどかわいくて、散歩に連れ出しては母さんに内緒でよくこのミルクティーを買ってやった。
にいちゃんありがとう、と笑うあいつの顔と、白いラベルのミルクティーは俺の記憶の中で強く結びついている。
だから、あの女がその名前を口にした時、どうしようもなく腹が立った。弟との思い出を汚されたみたいで。
本当にどうしようもない女だった。どうか、ひどい障害が残ってくれと思う。死なず、でも意識が戻らないのが一番いい。そうでなくても、生活に支障が出ればいい。一応、どれくらいで人の脳がダメになるか、ある程度は調べて実行したけれど。
死後の世界なんて信じちゃいないし、仮にあったとしても、あの腐れ女が弟と同じところに行けるとは思えない。それでもあの女を死なせたくなかった。俺の大事な弟は罪もないのに死んだんだから、あのクソアマはそれよりもっと苦しむ必要があるだろ。
また腹の底で怒りが湧きそうになり、慌ててミルクティーを一口飲む。暴力的なまでの甘さが俺の感情を落ち着ける。もうあの女のことは考えなくていい。もう済んだことなのだ。
もう一口。ベタつく甘さが弟の面影を脳裏に運んでくる。幼い顔はよく笑っていて、すこし大人びてくると悲しげな顔や泣き顔が増える。
――なあ、弟よ。
なんであんな女に屈しちまったのか。兄ちゃんは頼りなかったか。母さんは、親父は。お前はあんなゴミカスに振り回される必要はなかったし、死ぬ必要もなかったんだ。
弟を思っても、涙なんてとっくに出なくなっていた。泣いてあいつが戻ってくるならいくらでも泣く。でもあいつは二度と戻らない。こんなこと、もう何度も考えた。悲しくはあるが、後悔するのはやめている。
だからと言って、まったく、意味のないことをしたと思う。
あの女の馬鹿げた茶番に何ヶ月か付き合ってしまったし、最悪捕まる可能性もあった。いや、まだこれから捕まる可能性だって残っている。それに、こんなことあいつは望まないかもしれない。
でも、スッキリした。頭の中のもやが晴れたような心地だ。
残りのミルクティーを一気に飲み干す。甘さには少し慣れた気がする。でも、きっともう二度とこれを飲むことはないだろう。
堤防の上に立ち上がり伸びをする。背中がパキッと鳴った。
「これからどうすっかなあ」
そう呟いた時、ついに水平線から太陽が顔を出した。
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