誰も知らない

ナツメ

プロローグ

 ボクは本当は天使なんだ。


 そんなふうに言うと、たいていの人は鼻で笑うか、冷たい目を向けてくる。あるいは哀れみの。

 誰ひとり、ボクの言うことを信じてはくれない。ボクがどんなに苦しんでいるかも知らないで。

 この世界は――人間の世界は、ボクが暮らすにはあまりにも、汚い。空気はよどんで、肺の中まで真っ黒になってしまう。排気ガスとか、そういうことじゃない。人間の悪意、いじわる、みにくさ――そういうものがボクの呼吸を妨げる。ボクは、清廉せいれんで澄んだ、うつくしい場所でしか生きられないんだ。

 人間はバカだ。ボクはこんなにもキレイで清らかなのに、ボクじゃない他の誰かのことを信じる。評価する。好きになる。ボクは何も悪くないのに、何もかも思ったとおりにいかないんだ。

 どうしてこんなところにいるんだろう。神様はきっと間違えた。天使の魂を、間違えて人間の身体に入れてしまったんだ。

 だから、こんな目に遭っている。汚物に塗れて、嫌な人間たちに揉まれて。もちろん、身を守ろうとした。おぞましいものを遠ざけようとした。うまく行くこともあった。でも、なぜかいつも、気付いたらひとりぼっちになっている。

 だれもボクのことを理解してくれない。そう思っていた。彼に出会うまでは。


 最初から、ボクの話を受け入れてくれたのは彼だけだった。

 まるで昔からボクのことを知っていたみたい。運命だと思った。人間の世界はボクにはふさわしくない。そう泣いたら、彼は「そうだね」と言ってくれたんだ。

 もうここには居られない。本来のボクの居場所に帰りたい。

 一緒に来て。

 彼は、いいよ、と言った。


 そして、彼と並んで横になった。

 抱きしめてほしい、と彼に頼んだ。天国に行くのは怖くないけど、この肉体の最期の時を、彼の腕の中で迎えたかった。

 たくましい彼の腕にすっぽりと包まれて、ボクは目をつむる。温かさを感じないのは、薬が効いて感覚が鈍くなっているのだろうか?

 そう考えるうちにあたまの芯がぼうっとしてくる。ねむりのまえの感覚。やっぱり薬がきいてきたんだ。彼にだかれて、ねむったまま、ボクはもとの世界へとかえるんだ。

 ふと、かれが身じろいだ。知らず閉じていたまぶたをあける。でも見えるのは彼の着ているTシャツだけで、かおは見えない。

「最後に、言いたいことがあるんだ」

 低く、かすれた声があたまの上と、目のまえのむね、両方からひびく。

 こくりとうなずくと、彼はボクの耳に口をよせた。

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