第5話

 あたたかいオレンジが、のんびり教室を照らしている。

 それも少しずつ影が濃くなって……オレンジがほとんど眠ってしまった、夕暮れ。


 ぼくと桃香ちゃん、そして琥珀くんは、三階の音楽室の前にいた。

 本当なら、家で晩ご飯を食べているころだ。

 こんな時間まで学校にいるなんて、お母さんにバレたら叱られそう。

 ……茜くんがぼくの家に電話したら、お母さんもコロッと「西園寺くんがいるなら心配ないわね」なんてよそ行きの声で笑っていたんだけどね……。

 ぼく、あんまりお母さんに茜くんのこと言ってないんだけどな。

 きっと親同士のネットワークでも、茜くんの知名度がバリバリなんだろう。そうにちがいない。

 本当に何者なんだ、茜くんって。


「オレはおまえなんか認めてねーからな」


 ふいに。

 琥珀くんが、ぼくをギロリとにらんだ。

 鋭い目つきが、ぼくを串刺しにする。


「あの、こはくくん。わかばくんはね……」

「桃香はだまってて」


 ピシャリと一言。

 言われた桃香ちゃんは、肩を跳ねさせてだまり込む。

 ふん、と琥珀くんは鼻を鳴らした。


「ぽっと出のやつなんて信用できないからな。今は茜が言うから、仕方なくいっしょにいてやるけど」


 そうブツクサと言う琥珀くんは、なんだか、すごく……。


「……琥珀くん。もしかして、具合悪い?」

「は!? 何だよ急に!」

「ご、ごめん。勘違いならいいんだ。ちょっと顔色が悪い気がして……」

「うるさいな! 関係ないだろ!」


 そう怒鳴って、琥珀くんは思いきりぼくから顔をそむけた。

 い、居たたまれない。

 ちょっと気になっただけなのに……。

 そんな気まずいぼくたちを心配して、桃香ちゃんがこっそりささやいてくる。


「あのね。こはくくんは、鼻がいいでしょ」

「うん……? そうらしいね」

「だから、悪い幽霊がいっぱいいるとね、臭くて、具合悪くなっちゃうんだ」

「……そうなの?」

「うん。わたしたちの中でも一番体調に出やすいから……こはくくんも気にしてるみたい」


 ちらり。ぼくはもう一度琥珀くんを見てみる。

 やっぱり顔色が悪い。

 青い、を通り越して、白いくらいだ。

 もしかして、だからピリピリしてるのかな。

 いつもいい匂いをさせてるのも、幽霊の臭いをごまかすため、なのかな。

 実はけっこう、琥珀くんなりに大変なのかもしれない。

 そんな風に考えていると……。


 ~♪


 音楽室の中からピアノの音が聞こえた。

 ぽん、ぽーん、と最初は軽い音。

 それがだんだん強くなっていく。

 強く、激しく。

 鍵盤が力任せに叩きつけられているような。

 壊そうとするかのような。

 怒っているような……。

 耳のいい桃香ちゃんには、刺激が強いみたい。

 桃香ちゃんは、ヘッドフォンを耳にかけて、ぎゅっと上から押さえつけた。


「時間だ。行くぞ」


 緊張した顔で、琥珀くんが音楽室のドアに手をかけた。

 ぼくも気持ちを切り替える。

 ごくり。

 いつも幽霊を見たら逃げ回っていたから、自分から突撃するなんて初めてだ。

 琥珀くんが、ドアを開ける。

 中は、ガランとしていた。

 吹奏楽部が使っていたのか、机がちょっとバラバラだ。

 視線を上げれば、たくさんの肖像画がぼくたちを見下ろしている。

 うへぇ。

 ぼくは顔をしかめる。これだけでもうかなり不気味だ。

 だけど、ぼくたちの目的はベートーベンやバッハの顔じゃない。

 勇気を出して、部屋の奥に目を向ける。

 当たり前のようにたたずんだ、黒いピアノ。

 そこからピアノの音がずっと鳴っている。


「桃香。大丈夫か?」

「うん……。でも、耳が、痛いくらい……」

「臭いも強いな……いるんだな、そこに」


 琥珀くんと桃香ちゃんが、じっとピアノを見ている。

 ぼくはコクンとうなずいた。


「いるよ。女の子だ。……泣いてる」

「泣いてる?」


 琥珀くんが、不思議そうに眉を寄せた。

 確かに訳がわからないかもしれない。

 でも、本当にぼくにはそう見えるんだから仕方ないじゃないか。

 ピアノを弾き続けている女の子。

 桃香ちゃんと同じ制服。リボンの色が緑だから、一年生かな。

 手は止まらない。

 その目からは、涙がポロポロとこぼれている。

 ……うれしくて泣いている、ってわけじゃなさそうだ。

 だって、表情がどこか苦しそうだもの。


「ぼやぼやしてんな。封印するぞ」


 琥珀くんが、ポケットからごそごそと紙を取り出した。

 よく見たら、それはお札だ。

 どこかで見たような六芒星のマークが描かれている。流行ってるのかな。


「琥珀くん。何、それ」

「茜が作ったんだよ。これを悪霊に貼れば封印できるんだ」

「茜くんって何者……」

「オレも知りてーよ」


 はあ、と琥珀くんはため息。

 ぼくへの意地悪じゃなくて、本心みたいだった。

 そのまま琥珀くんはピアノに近づいていく。

 それにしても……。


「あの、さ。封印、しなきゃダメなのかな」

「は?」


 う。

 琥珀くんは、訳がわからなそうに、怖い顔。

 桃香ちゃんもポカンとぼくを見ている。

 ……うん、ぼくも何言ってるんだろうって自分で思うよ。

 でも。でもさ。


「だって、あんなに泣いてるんだよ」


 ぼくは今まで、こんなにまじまじと幽霊を見たことがなかった。

 だって、すぐ逃げてたからね。

 ……でも、こうして改めて見てみたら……。

 かわいそう、って思ってしまうのは、おかしいのかな。

 今もまだ、女の子は必死にピアノを弾いている。

 苦しそう。

 悲しそう。

 ぼくの胸まで、ぎゅっと締め付けられそうだ。

 何とかしてあげられないのかな……。


「女の子はピアノを聴いてほしいだけなんだよね? だったら、ぼくらが聴いてあげればそれで満足して成仏するんじゃないかな」

「わかばくん……」

「そんな、甘いこと……」


 琥珀くんは苦い顔をした。

 だけど迷っているみたい。

 お札を握りしめたまま、ちらちらピアノを見ている。

 ぼくと桃香ちゃんもそろって目を向けた。

 ぼくらが見ていることに気づいたのか、女の子が顔を上げる。

 ぼくと目が合った。


 とたんに――。


 女の子は鍵盤を叩きつけて立ち上がった。

 乱暴に楽譜を握りしめる。

 え?


「様子が変わった……!」


 女の子の顔が、怒っているみたいにゆがみ始めた。

 カッと大きく見開いた目。

 それは血走っていて、裂けてしまいそう。

 それなのに涙はぼたぼたとその目からこぼれ落ちている。

 何だ?

 急にどうしたっていうんだ!?


「うっ……!」


 女の子がこっちに近づいてきたとたん、琥珀くんが崩れ落ちた。


「琥珀くん!?」

「こはくくん……! しっかりして!」


 汗がすごい。

 息もハァハァと苦しそう。

 そういえば、琥珀くんは悪霊の影響が体調に出やすいって……。

 女の子の様子が変わったから?

 悪霊として強くなったってこと?


「桃香、こいつはやばい……にげろ」

「こはくくんを置いていけないよ!」


 そう言いながら、桃香ちゃんもガタガタ震えている。

 だけど桃香ちゃんは、逃げなかった。

 ハッと顔を上げる。

 見ている方向には、近づいてくる女の子の幽霊。


「声、聞こえる……」

「声? 女の子の?」

「うん。もう弾きたくない、って言ってる……」


 震える声で桃香ちゃんがつぶやいた。

 ぼくと琥珀くんは同時に桃香ちゃんと同じ方向を見る。

 女の子はゆらり、ゆらりとぼくたちに近づいてきている。

 憎しみのこもった目で。


 ――もう弾きたくない?

 あの女の子が、そう言ってるのか?

 でも、実際に弾いてるのは女の子なのに……?

 イヤならやめればいいと思うんだけど……。


 あれ?

 ふと、ぼくは女の子の様子がおかしいことに気がついた。


「何だろう。右手をかばってる……?」


 右手に巻かれた、白い包帯。

 女の子は左手でそれをかばっている。


「ケガ、してるみたいだ」


 ――もしかして、だから、弾きたくない?

 ケガをして、痛いから?

 それなのに弾かなきゃいけないから?


 女の子が手を伸ばしてくる。

 狙っているのは――動けない琥珀くんだ!

 ぼくはとっさに琥珀くんの腕を引いた。


「うわっ」


 琥珀くんがバランスを崩す。

 ぼくもまた、引っ張りきれなくて後ろに尻もちをつく。

 い、いたた……。

 痛いけど、のんきにしている場合じゃない。

 慌てて顔を上げる。

 すると――。


「桃香ちゃん!?」


 桃香ちゃんが、ぼくらの前に立って腕を広げていた。

 小さな、震える身体で。

 女の子と向かい合って。

 桃香ちゃんは、声を上げる。


「もう、いいんだよ」


 桃香ちゃんがそう言うと、女の子はピタリと止まった。


「手が痛くて……それでも周りから期待されて、ずっと弾かなきゃいけなくて、つらかったんだね」


 桃香ちゃんがポロポロと涙をこぼす。

 女の子が、ハッとしたように息をのんだ。


「痛かったね。苦しかったね。誰にも気づいてもらえなくて、つらかったんだね」

「あ……」


 女の子は、静かにうなずいた。

 女の子の目に、みるみると涙がたまっていく。

 握っていた楽譜の上に、一粒、二粒とこぼれて、しみが広がる。

 でも……さっきまでの苦しそうな涙じゃなかった。

 そうじゃなくて、もっと、温かそうな。


「わたしたちは、あなたを見世物として見に来たわけじゃないよ。あなたを助けにきたの。つらかったら、やめたかったら、やめていいんだよ」


 女の子が、涙をぬぐう。女の子はほほえんだ。小さく口が開く。

 ぼくには女の子の声は聞こえないけど……「ありがとう」と、言ってるみたいだった。

 くるりと背を向けた女の子は、ピアノに戻って腰掛ける。

 くしゃくしゃになった楽譜を、大切そうに広げて戻す。

 それからスッと手を伸ばして、鍵盤に手を添えた。

 今までの激しい音じゃない。

 明るくて、優しい音が聞こえてくる。

 目を閉じながら音を奏でる女の子は、楽しそうだった。

 見れば、手のケガも消えている。

 ――癒やされた、のかな。

 ケガをしてもずっと弾かなきゃいけなかった呪縛から解かれて、ただ好きで弾くことを思い出して……?

 ……でも、さっきも急に様子が変わったから、どこかで半信半疑だ。

 もう、大丈夫なんだろうか。

 本当に?


「大丈夫だ」


 ぼくの疑問を読み取って答えたのは、琥珀くんだった。

 琥珀くんはしんどそうに汗をぬぐって、息をつく。


「においが良くなった。幽霊はにおいまでは、うそ、つけねーよ」

「そっか……。琥珀くん……大丈夫?」

「ああ。別にケガはしてないから」


 苦笑した琥珀くん。

 それから琥珀くんは、桃香ちゃんの頭に手を置いた。

 ぐりぐり。

 少し力を込めてなで回す。桃香ちゃんの小さい頭がぐらぐら揺れる。


「わ、わっ」

「桃香もありがとうな。でもムリすんなよ。びっくりしただろ」

「う、ううん! 二人とも無事で良かった」

「あの、ぼくからもありがとう……。桃香ちゃんがいなかったら、ぼく……」

「それはわたしのセリフだよ!」


 力強く言った桃香ちゃんは、ぼくの手をぎゅっと握った。

 うわ。

 ち、近い近い!

 こういうのは慣れないよ!


「わたしだけだと、あの子が何を言ってるか、バラバラでよくわからなかったの。でもわかばくんが様子を教えてくれたから、事情がちゃんとわかったんだよ。ありがとう!」

「そんな、ぼくは別に……見たままのことを言うだけしか……」

「……オレじゃ、逃げることもできなかった」


 ぽつりと琥珀くんがつぶやいた。

 少しだけ気まずそうに、唇をとがらせて。


「助けてくれて……ありがと、な」

「ぼ、ぼくこそ。琥珀くんがにおいで判別してくれて、助かったよ。ぼくじゃ見たままのことしかわからないから……きっと演技されてたらわからないし」

「何だよ。オレがありがとうって言ってんだから、素直に受け取れって」

「でもぼくも本当の気持ちで」

「……ぷっ」


 言い合っているぼくらを見て、桃香ちゃんが笑う。

 そんな桃香ちゃんの様子に、ぼくと琥珀くんも顔を見合わせて。

 なんだかおかしくなって、三人そろって笑い転げてしまった。

 女の子の幽霊も、それをどこか楽しそうに見ていて。

 優しい、温かい音が、ぼくらをフワフワと包んでいた。

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