大切なもの / しろつめ

追手門学院大学文芸同好会

第1話

 窓越しに見える青々と茂った草木が、私に夏を知らせている。高校生になって二度目の夏休みはもう半分を過ぎようとしていた。学生らしく部活に勤しむのもよいのだろうが、生憎今はクーラーの効いた部屋で友人とオンラインゲーム中だ。毎日のように電話して、中身のないような会話で笑う。長期休暇だから許されるだらけた生活も、学生生活の醍醐味であろう。

 外を騒ぎながら駆けていく小学生らしき声が聞こえてきた。よくこんな暑い中動き回れるものだと幼さ特有の体力の無尽蔵さを羨む。家を出て右へ道なりに行くと小さな林があるのだが、どうやらそこへ向かっているらしかった。昆虫採集にでも行くのだろうか。私が暮らすこの町は、夜になると星の光で溢れかえるが、街灯やコンビニの光は見当たらない。綺麗な町だと思う一方、高校生には少々物足りない場所だ。


 ねぇ、とイヤホンの向こうから気の抜けた友人の声がする。意識をゲームの方に戻しつつ、何?と聞くと、面倒くさそうな彼女の声が返ってきた。

「夏休みの宿題に作文あったじゃん。あれどうする?」

「あ、あれね」

 課題テーマ「大切なもの」。ぱっと浮かぶ家族や友人、それからゲームや本も結構大切かもしれない。しかしそんな題材はありきたりで、とてもつまらなく思えた。

「一つだけ書こうと思ってもぶっちゃけ決まんないよね。将来の夢とかもまだ分かんないし」

「そうだね」

 彼女の意見に同意しつつ、私は「大切なもの」について考える。分からなくても書かねばならないのだ。適当に書き上げることもできるが、去年のように班で読み回されたら堪らない。小学生のような出来の作文にはしたくなかった。分からないなりに自分の答えを見つけなければならない。この夏の間に。

「難しいなぁ」

 呟くような微かな声はゲーム音に掻き消され、この話は終わった。



 しばらく握ったままだったゲーム機を一旦放り、彼女に一声掛けてから台所の冷蔵庫へ飲み物を取りに行った。水をコップに注ぎ勢いよく飲み干す。そこへやってきた母が、ちょうどよかったとダイニングテーブルの上の袋を指す。

「このきゅうり、ミチコさんに渡しに行ってちょうだい。今年はうちの畑でたくさん穫れたからって。あんた最近一歩も外に出てないでしょ。身体に悪いわよ」

 そう捲し立てた母は、容赦なく私を外に追い出したのだった。

 外は想像通りの酷暑で、クーラーで冷えた身体には熱風が当たっているような感覚だった。はぁ、と母にも聞こえるくらいの大きな溜め息を吐く。

「あらどうしたの?そんな溜め息をついて」

「あ、ミチコさんこんにちは。今日もすごく暑いなぁって思って」

 私に声を掛けてきたのは、隣に住んでいるミチコさんだ。敷地を仕切る背の低い柵の向こうで、花に水をやっている。おしとやかで、どこまでも優しそうな笑みが特徴的な七十歳くらいの女性だ。幼い頃から可愛がってもらっていて、毎日のように彼女の家にあがり、楽しくお喋りをしたものだ。いつも用意されているお菓子とジュースも楽しみのひとつだった。しかし最近は、偶々会ったら会釈をする程度となっている。

「ミチコさんにきゅうりを渡して来てってお母さんに頼まれたの。どうぞ」

「あら、偉いわねぇ。そうだ、久しぶりにお茶でもしましょう。いいお菓子を貰ったの」

 そう言って彼女は微笑む。昔から変わらないその笑い方がとても懐かしく思えた。

「うん」

 もう少しだけ子供でありたい。彼女の前ではどうしてもそう思ってしまう私だった。


 彼女が私を居間まで案内する。あぁ、いつも通りだ。昔と全く変わらない。まるでタイムスリップしたような感覚を覚える。しかし近くで彼女を見ると、昔より深くなった頬のシワに気付いた。それが私に時の流れを感じさせる。

 程なくして居間に着き、彼女は台所へ姿を消した。そして私は座布団の上に正座した。この景色を見るのは何年ぶりだろう。少し落ち着かない気持ちで私は彼女を待つ。

「懐かしいなぁ」

 本当に昔に居るかのようで、扇風機のぬるい風が妙に心地良くて、変わってしまった私だけが異質なものにすら感じた。



 氷とグラスの間がカランと鳴いた。涼しい音だ。冷たい麦茶に色々な茶菓子。テーブルの向かいに座ったミチコさんと、他愛のない会話で盛り上がる。私は生まれてすぐ祖母を亡くしていたし、彼女は孫が東京にいてなかなか会えないらしいので、こういう時間がとても幸せなものに感じた。この光景が幸せだと感じるということは、私は数年間で色々なことを知ってしまったのだと思う。良いことも、悪いことも。

「高校生は宿題が多そうねぇ」

「私の高校はあまり多くないよ。あぁ、だけど作文で難しそうなお題を出されちゃった。『大切なもの』っていうテーマなんだけど」

「『大切なもの』、とても面白そうね」

「ミチコさんくらい長く生きてたら何書けばいいか分かるだろうけどさ。私には難しいよ」

「好きなことを書けばいいのよ。そういうお題でしょう?」

 確かにそうだ。それでも、私の中心には何があるのか、私にはまだ分からない。

「おばさんにとって大切なものって何?」

 彼女は、まるでずっと前から答えは決まっていると言うかのように、まるで宝物のことを教える幼い子供のように、嬉しそうに微笑んだ。ちょっと待っててね、と言って彼女は部屋を出て行った。直ぐに戻ってきた彼女は、数冊の分厚い本のようなものを抱えていた。それを私に差し出す。受け取ったそれはずしりと重く、表紙を見て私はそれが何であるか気付いた。

「日記帳?」

 私が聞くと、彼女は頷く。

「開けるね」


 最新のものから読み始める。一日分でも相当の文量があった。昨日、一昨日。ざっと目を通して、私はあることに気付いた。一度それを閉じ、一冊目の最初のページを開く。

「これは……」

 そこに記された日々は、彼女のものではなかった。始まりの日の西暦は十年も前で、それは日記と言うより、小説のプロローグのような。

「これ、毎日書いてるの?」

「えぇ、私の数少ない楽しみよ」

 そこに記されていたのは、空想の女の子。見るもの全てがキラキラしていて、とても懐かしい感情が私を占める。羨ましいほどにその子は自由だった。広い世界を知らない子。だからこそその子は、生きる苦しさも、疲れも、諦めも一切知らない。


「昔、作家になりたくてねぇ。仕事を退職したあと夫にも先立たれて、時間は有り余るほどあったから書き始めたの。この子を書くときが、私は一番活き活きしていると思うわ」

 私はペラペラとページをめくる。どのページにもびっしりと文字が埋められていた。十年という歳月が織り成した長編物語は、幼い少女の人生をありのままに表現している。すごい、すごい。鳥肌が立つほどに、私は今、この少女の日記に魅せられている。幼い頃に本が好きだった理由を思い出した気がした。

「綺麗だね、とても」

 この物語は全て想像だ。それでも確かに、かつての私達にはこの日々が在った。目前に迫る闇と、身を焦がすほどの正しさに捕らわれて忘れているだけなのだ。

「見えないところに仕舞っていた大切なものを見れたような気がする」

「そう言ってくれるととっても嬉しいわ」

 彼女は、心の内にある言葉をできるだけそのまま引き出すように、ゆっくりと口を開いた。

「大切なものは目に見えない。だから、それが本当に大切で価値のあるものかを疑ってしまうの。ちゃんとその大切なものを信じて愛でてあげないと、壊れたことにも、無くなったことにもきっと気付けない。私は、幼いときに見たこの世界がとても大好きで、大切で、忘れないように守ってきたの。守ってきたものを、書いているの。それは過去に捕らわれているだけだと言われるかもしれないけれど、私はこれが一番幸せなの。今の私にとって、この日記以上に大切なものはないわ」

「これ、また読みに来てもいい?」

「勿論、いつでもいらっしゃい」

「ありがとう!」


 あの人生を読み切るまでどれぐらい掛かるだろうか。きっとあの少女の人生に最期はない。突然パタリと日々が途切れるだけだろう。それはとても惜しいと思うが、それ以上に彼女らしいとも思った。


 彼女の大切なものは、終わりがないほど長く、美しい文字列だった。


 家に帰ると、途端に夢見心地から現実に引き戻られた。ここは、現実。それでも、家を出る前より心做しか明るく感じた。部屋に入った瞬間繋ぎっぱなしのゲーム機が目に入り、わっと声を上げる。

「ごめん!お母さんから隣の家にきゅうり持っていけって言われて、その人と話し込んじゃって、ほんとごめん」

「あ、帰ってきた。全然いいよ。自分も今から用事あるからまた明日やろ」

「分かった」

 ゲーム機の電源を切り、音が止む。部屋が静かになった途端に外の蝉の声が耳に付いた。私は作文用紙を取り出し、机に広げる。

「大切なもの、か」

 夏はまだまだ長い。これからどんどん暑くなっていくこの季節に、私は私なりの言葉を書き上げるのだ。




あとがき


 はじめまして、しろつめと申します。

大切なものって改めて問われると返答に困ります。あなたの中心には何がありますか。もう一度自分を見つめなおす機会になれば幸いです。

 あなたの幸せを願って。また会いましょう。

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