第3話
ハーレムの出入口は水路の上の短い橋だ。建物から出ると境界のように水路が走っている。その水路に橋が架かっており、そこにアーチ状の門が作られているのだ。そこにいる門番に手形を見せ、ライラは王宮内を歩く。といっても王族や貴族がいる区画などではなく、先日までライラが寝起きしていた区画を歩いていた。そして、王宮に常勤しているアブーシの施術室を訪れる。
「失礼いたします。アブーシ様はいらっしゃいますか?」
すると、医者と思われる青年がいただけだった。
「アブーシは今休憩中ですよ。たぶん中庭のテラスにいると思います」
「休憩中なのですね。教えてくださりありがとうございます」
「いえいえ。それよりその手形を持っているという事はハーレムの薬師ですか?」
青年はライラの胸元で揺れる青い石を見ていた。
「はい、先日から働かせていただいております」
「へぇ……もしかしてなんですが、父君の名前はマルコさんではありませんか?」
「えっ……と、あの」
突如、身元を特定するようなことを言われ、ライラは恐怖心を抱いてしまう。
「す、すみません。驚かせちゃいましたね。私はベゼットと申します。諸国を巡りながら見聞を広めていた時、王宮勤めの方に出会ってここに来たんです。その旅の途中でヒュリスに住む、マルコさんという腕の良い薬師の方にお世話になったんですよ。なので、ハーレムの薬師が西方のオアシスから来たと聞いたとき、もしや娘さんではと思ったんです」
本当に父の知り合いらしいと分かり、ライラはほっとした。
「そういうことだったんですね。はい、それはたぶん私の父です。父は依頼があると近隣のオアシスによく出掛けていましたから」
ライラが笑顔で答えると、途端にベゼットの様子が変わった。
「あぁまさか、遺物の使い手とこんな所で会えるとは思わなかった。何て幸運なんだ!」
興奮して頬は上気し、目は狂乱と呼べるほどギラギラとしている。
ライラは一気に血の気が引いていくのを感じた。
「は……遺物、ですか」
こんな簡単に身元を明かすんじゃなかったと死ぬほど後悔した。けれどもう遅い。
「知ってるんだよ。あの辺りのオアシスには噂が流れてたからな。昔は婆さんが遺物使いだったらしいが、今は若い娘に引き継がれてるってね。あんたなんだろ?」
「し、知りません」
ライラは必死にとぼける。けれど、ベゼットはもう確信しているようだった。
「しらばっくれるな! 色んな噂話を頼りにマルコまで辿り着いたのに、マルコは俺を遠ざけた。遺物の秘薬を分けて欲しいって頼んだのに断りやがったんだ!」
「あの、私はアブーシ様を探していますので、もう行きます」
震え始めた足を叱咤し走り出そうとした。けれど、腕を掴まれて引き戻されてしまう。
「頼んでもダメなら、強硬手段に出るしかないよなぁ。だから破落戸を金でそそのかしたのに失敗しやがるし。でも、そのせいでお前は王宮に逃げ込んできたわけだろ? こうして俺の前に現れたんだから、結果的に破落戸に金を払っただけの価値はあったな」
ベゼットの言葉にライラは目を見開いた。
「まさか、あの破落戸たちが薬を狙ってたのは、あなたが雇ったからなの?」
こいつのせいで弟と自分は殴られ、妹達も怖い思いをしたというのか? そして、ライラが村を出て行かざるを得なくなった原因も、こいつということになる。
「ははっ、お前単純だな。今、自分が墓穴掘ったって気付いてるか?」
「えっ?」
「破落戸に反応した時点で、お前が遺物の使い手だって認めてんだよ」
ベゼットが心底おかしいとばかりに笑っている。
子供の頃、詰めが甘いんだとよくシンに笑われた。シンに悪戯の仕返しをしようとしたけれど、あと少しで悪戯成功というところでいつもシンに見破られていた。あの頃から、自分は全然成長していないのだなと悲しくなる。
「なぁ、薬くれよ。恋の秘薬なんだろ。俺、好きで好きで仕方ない相手がいるんだ」
ベゼットの手に力がこもる。掴まれている腕が痛かった。
怖い。感情に飲まれた人間ほど怖いものはない。ライラは自然と手が震えていた。
「……あれは、惚れ薬なんかじゃ、ありません」
これを言ったところで、信じて貰えないかもしれない。現に破落戸だって、信じずに逆上してライラを殴ってきたのだから。だが、ベゼットは逆上などしなかった。
「知ってるさ。あれは、恋心をなくす薬、つまり恋の解熱剤だろう」
平然とした表情で青年は言った。
「あなたは……苦しい恋を、忘れたいということですか?」
ライラは少しだけ安堵した。ちゃんと薬の効果を理解した上で、薬が欲しいと言っていることに。ライラも報われない恋が辛いことは知っている。この目で何人も見てきたし、自らも実感してきた。実感……してきた?
「お前さ、何か勘違いしてるよ。俺はこの気持ちを手放す気なんてない。これは俺がずっと大事に、どうにもならないけど抱えてきた気持ちだ。重くて、長い時間掛けて発酵して、腐りきって、どろどろの醜い物体だけどな。俺はこれが愛しくてたまんねえんだよ!」
口元をゆがめて笑うベゼットが、何故だか泣いてるように見えた。涙なんか流れていないけれど、とても悲しくて辛そうに見えた。こんなに苦しんでるのに、どうして気持ちを手放さないのだろう。ライラには分からない。
「恋心を手放す気がないなら……薬なんて必要ないと、思いますけど」
「お前は純真無垢なお子様なんだな。大人になるとな、もっと汚いことを考えるんだよ」
ベゼットは引きつった笑い声を上げると、ライラの腕を更に引き寄せた。
「俺の好きな相手はさ、俺じゃない男を好きになって結婚しやがった。許せないだろ、俺はこんなに好きなのに。だから……あいつに飲ませるんだよ。結婚相手への恋心がなくなり、真っさらになったあいつを今度こそ俺が手に入れるんだ!」
ベゼットの目は血走っていた。
おぞましくて、受け入れがたくて、目をそらしたい。けれど、生々しくて人間くさい感情に引きずられる。理不尽で許しがたいことを言っている。けれど心からの叫びには、信じられないほどの熱量がこもっていた。
「うるさいな、何してるんだ」
突如、第三者の声が響く。ベゼットはすっとライラから手を離した。
「アブーシ、いや、その、こいつが勝手に入ってきたから説教してたんだよ」
アブーシのおかげで助かったなと、ライラは思った。
「本当に? だとしても、女性の腕を無遠慮に掴むのは紳士的とはいえないな」
「ふん、知ったことか。まだ尻の青いガキだろ。女扱いする気にもならないね」
もう青くないと内心で思うが、ここで余計なことは言うべきではない。アブーシが取りなしてくれているのだから。
「僕の休憩時間は終わりだ。次は君の番だろう。さっさと行くといい」
アブーシに言われ、ベゼットはライラを睨みつつ出て行った。
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