第10話
四日目の朝が来た。昨夜、シンと喧嘩をして思い切り泣いて叫んだおかげか、なんだか心が軽くなった気がした。こんなに健やかな気分になるくらいだから、きっと、積もり積もった不満をぶつけてしまったのだろう。それを申し訳なく思いつつも、まぁ、シンなら許してくれるだろうとも思っていた。
ライラの予定では四日目で課題の薬をほぼ作り終え、五日目は棚の整とんを一気に行うというものだった。なので、四日目は朝から薬の調合に取りかかっている。原料は五種類を除いて全て見つけた。だから、この五種類の原料を用いる薬以外を黙々と調合する。
午前中は順調に進んだ。だが、昼食を食べ終わると雲行きが怪しくなってきた。
「埃っぽいとこだねぇ。こんな所で調合した薬なんて、怖くて飲めたもんじゃないよ」
挨拶も無しに、粗探しをするような目をしたバドラがやってきた。
「バドラ様、いかがされましたか」
「課題の進み具合は?」
ライラの顔を見ることなく、作業机をじろじろと見ている。
「順調です」
「はん、面白くない。それより、ここは埃っぽいね。薬作るより先にまず掃除しな」
埃っぽいというが、毎日王宮勤めの女官が棚や机の埃や砂をハタキで落とし、床を拭いてくれている。他の部屋と比べても遜色ないはずだ。それなのにライラに掃除しろと言ってくる。これは要するに言い掛かり。所謂、いびりというというやつだろう。
掃除をしていては時間をかなり消費してしまう。けれどやらなければ不潔な環境で作った薬を提出するだなんて、薬師失格だとか言いかねないなと思った。バドラはとにかくライラのことをハーレムに入れたくないみたいだが、ライラだって簡単に引き下がるわけにはいかないのだ。
仕方ないので掃除に取りかかる。棚を拭き、机と椅子を拭き、床を箒で掃いた後に水拭きをする。バドラのことだから、きっと隅を突くように見てくるだろう。なので床の隅は特に念入りに行った。
「よし、ここまでやれば、流石に文句はないでしょ」
ライラは達成感に満ちあふれつつ、ふと窓の外を見た。すると、なんともう夕方ではないか。バドラに口を挟む隙を与えたくなくて一生懸命になりすぎた。
「課題……薬、調合しなくちゃ。でも、まだ足りない原料もあるのに。先に探したほうがいいけど、もう日が暮れて暗くなっちゃう」
ライラは焦るあまり、おろおろと机と棚の間を行ったり来たりしてしまう。そんな時、バドラが掃除の点検にやってきた。
「掃除は終わったのかい?」
「は、はい。終わりました」
「じゃあ、見させてもらおうかね」
バドラは、これ見よがしに部屋の中を歩き回る。そして、指で床を触っては、面白くなさそうな表情をした。どうやら難癖をつけることが出来ないらしい。
「いかがでしょうか、バドラ様。満足いただけたようなら、作業に戻りたいのですが」
早くバドラに出て行って貰いたくて、結論を急ぎたかったのは否めない。けれど、それがバドラに伝わってしまったのがいけなかった。バドラの視線が作業中のテーブルに移る。
「これは、何だい?」
バドラがある原料を指さした。
「それはオモエナシでございます。化膿止めとして用いられます」
「ふん、そうかい。じゃあ、この粉は? 毒々しい色してるねぇ」
今度は赤黒い色をした粉を指さした。
絶対にわざとだ。ライラの邪魔をしたくて、敢えて質問をしているのだろう。
「赤胡椒というもので、普通の胡椒とはまた別種です。こちらは香料として用います」
「へぇ、香料かい。ということは良い匂いがするってことだね」
バドラは小鉢に入った赤い粉末を、鼻の近くに持っていく。そして、ふんふんと匂いを嗅いだと思った瞬間、信じられない光景がライラを襲った。
「ぶえっくしょん!」
バドラが思い切りくしゃみをしたのだ。鼻水や唾が飛び散ったのはもちろんのこと。一番目を覆いたかったのは、香料の粉末が一面に広がったことだ。
「あー、悪いね。粉が鼻に入っちまって、くしゃみがでちまったよ」
バドラは鼻の下をこすっている。ライラは衝撃のあまり言葉が何も出てこなかった。今の瞬間、完成して避けてある薬以外、すべて使い物にならなくなってしまったのだから。
「どうしたんだい。そんな青白い顔して。せっかく掃除したのにって、怒ってるのかい」
「……い、いえ、そんなことではなくて……」
ライラは必死で言葉を絞り出すが、動揺して、ふさわしい言葉が何も出てこない。
「ふん、ならそんな顔はやめとくれ」
「ち、ちがっ、そうじゃない――」
ライラは慌てて理由を説明しようとしたが、無情にもバドラによって遮られてしまう。
「なんだい、要領を得ない子だね。まったく苛々するよ。もういい、わたしゃ戻るから。あんたにかまけてる暇はないんだよ」
「ま、待ってください。話を聞いてください」
「うるさいね。わたしゃ忙しいんだよ。じゃあ、明日の日没が課題の期限だからね。それに遅れたら、あんたには出てって貰うよ」
ライラの言葉など聞く耳持たずといった様子で、バドラは去って行ってしまった。
残されたライラは、悲惨な状況を目の前にただ立ち尽くしてしまう。夕陽が沈むにつれて、だんだんと空気が冷えてくる。それに引きずられるようにライラの頭も冷えてきた。
「いくらなんでも、酷すぎるよ……」
作業台の上には香料の赤黒い粉がまんべんなく散らばっている。この香料を使わない薬にとって、この赤黒い香料の粉はただの不純物だ。不純物が混ざった薬を提出など出来るわけがない。だから、ここにあるものはすべて廃棄しなければならないのだ。そして、一から原料を量るところから始めなければならない。正直、間に合わないと思った。
それでもまだ丸一日の猶予がある。その時間を余した状態で諦めるのか? 足掻ける時間があるのにそれを捨てるのか? それは出来ないと思った。無理かもしれないけれど、絶対に無理だと決まったわけでもないのだ。徹夜でやれば、ぎりぎり間に合うかもしれない。出来る努力をしないで後悔するのは嫌だと思った。
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