第1話 今現在の私



「~~様!アンジュ様!!」


  はたと我に返れば、ブラウンアイの揺れる瞳と目が合った。

 随分と慌てた様子をしている。


「な、何度かお声をかけたのですが、反応がなく。ずっと静止されたまま、でしたので、な、何かあったのか、と……」


 青白くなった顔で説明する侍女の話を聞き、視線だけを己に移してみれば、赤い薔薇の花が敷き詰められた、長四角い容器が見える。

 視野を広げれば、そこに座り入るような形で、身体が浸かっていることを認識できた。


 身を入れている容器の素材が大理石である点、肌に感じる水温が適温な点から、今が湯浴みの最中であったことを、私は思い出す。

 侍女の言葉を聞くに、入浴中、いつの間にか頭が留守になってしまったようだ。 


「……大丈夫よ。なにも心配ないから、このまま続けてちょうだい」


 そう冷静に伝えた私は、周囲を取り囲む焦った様子の侍女達を注視した。

 

 慌ただしく動き出した侍女達の、袖や前掛けが不自然に濡れている様子。

 数名の侍女が持っている、濡れた花びらが入った桶。

 それらを見た私の中に、ある推測が浮かぶ。


 ここにいるもの達は、

 (浴槽に浮かべた薔薇に問題があって、それにふれた王太子妃様の様子がおかしくなったのでは……)

 そのように焦り、慌てて薔薇を取り除く作業をしたようだ。


 王族が絶対的とされる我が国で、王族に危害を加えようとする不届き者は、まず存在しない。  

 王族に手を出した時点で、この国に存在することは不可能。

 己の生活や命が脅かされる事態になってしまうという旨を、我が国では幼児教育の段階で習う。

 

 つまり。

 王太子妃の私室、ましてや1番無防備になる浴室で、良からぬ事が起こるはずなど有り得ない。

 何かが起こった。

 そのような思想を持つこと自体異様なのだが、私に関しては、そうは思えなかったのだろう。

 私の周りからの印象、1部で囁かれている王太子との仲。 

 それらについてを考慮すれば、納得のいく話だが。


「こ、香油はスペシャルブレンドのもの、お、お髪の染め色はプラチナブロンドで、よろしい、でしょうか?」


 弱々しい侍女の声が、黙考していた私の右脇から聞こえてきた。


「ええ。いつも通り、特別仕様にする形で構わないわ。それと、なにかあれば私から声をかけるから、わざわざ声をかけず作業に集中なさい」


「は、はい。よ、余計な問いかけをしてしまい、申し訳ありませんでした」


 侍女の方へ軽く顔を上げながら、問いかけに答えた私に対し、彼女は声を震わせながら頭を深く下げ、逃げるように私の視界から消えていく。



『王太子妃の専属侍女らしく、泰然自若の態度をなさい』


 専属侍女である彼女、サーシャにはそう伝えているが、彼女の気後れした態度は、何度言っても変わらなかった。

 私に萎縮する様が変わらないのは、匙を投げている。  

 しかし。

 サーシャがああいった態度をする度に、被害を被るのは私だ。

 その様子を見たもの等の世間話により、王宮の一部で陰口を叩かれることになる。


 今度の世評は、

『王太子妃は、いつまでたっても侍女虐めを辞めやしない』

『成り上がり者は、やはり卑しく心根が腐っている』

 といったところだろう。


「はぁぁ……」


 こちらは王太子妃に相応しい、毅然とした態度で対応しているだけだというのに。

 私の印象や立場が、また悪くなるのかと思うと、深い溜息が出てしまった。



 それにしても。  


 先程は、随分懐かしい想いを想起した。


 “ お願い、私を見て”という強い願い。


 それは、結婚して数ヶ月の間に抱いていたもの。

 今となっては、そう願っていた自分がとても愚婦だったと思っている。

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