第9話 黒き影の魔導士との邂逅

星歴899年 11月19日 午前4時20分

ベルイット辺境領 名もない辺境の森


 未明の森は青緑の深い闇に閉ざされていた。

 戦いの混乱の最中を俺は駆け抜けた。

 そして、街道からも外れた森の中へ分け入った。小動物が通っているらしい気配のある微かな獣道が、俺を導いた。獣人の感覚はこんな時も有利だ。


 辺境の砦にあがる炎さえも見えなくなったところで、ようやく、抱えていたフィアを降ろした。

 完全に森の奥底だ。

 いくら妖魔の軍勢が数千を数えると言えど、ここまで離れた場所に兵力を伏せているとは考えられない。


 俺は、ようやく緊張を解いて、安堵した。

 まずは生き残れた。


 だが、フィアは俺の背中越しに、森の奥底、あらぬ方向を見据えていた。


「だれか…… いる?」

 フィアが森の奥を指さした。

 俺の目と耳には判別できない。

 しかし、クォータエルフのフィアなら、森の中での感覚は、俺よりも鋭く確かだ。

 俺はフィアを後ろから抱いて守り、背負った戦斧に手を掛けた。


「ほお? 獣人戦士と…… クォータエルフか? 珍しい取り合わせだが、ここまで逃れてきたとなると、それなりにできるとみるべきだろうな」


 緑の闇の中で、言葉が湧く。

 すぐ近くにいる。おそらく、正面。だが、俺の研ぎ澄まされているはずの獣人の目と耳のいずれでも、位置を掴めない。


 ――!


 ふいに、真正面に気配が湧いた。同時に、人影が霧のように現れ、ゆっくりと腰を折った。黒いマントを羽織った影が、胸に手を当てたポーズで芝居かかった敬礼を決めた。

「だれだ!」


 俺の誰何に、黒い影の男は笑う。

「妖魔の軍勢で、死霊魔術師を務めております。クロイツエルと申します」

 俺は、黒い影の男の言葉を疑った。数千の骸骨兵を、こいつが操っていたというのか? 小柄な黒髪の青年は笑う。その面にある単眼鏡の印象は、ひどく禍々しい。


「ただの魔導士ではないな?」

 死霊魔術師というが、杖を持たず、剣を吊るしている。小柄だが、黒い衣をまとう体躯からは、魔導士のごとき儚さは感じられない。

 先に仕掛けるつもりで、俺はゆっくりと戦斧を握りしめた。


青藍せいらん、〈HALTホールト〉―― 待って、ください」

 フィアが命令語を口にした。〈HALTホールト〉と命じられた。


「ほお、その獣人戦士は、キミの奴隷なのかい」

 黒き影の魔導士が興味を示した。

 フィアは、この魔導士と取引するつもりだ。だから、魔導士の見ている前で、命令語を使って見せた。しかし……?


「私たちは、ギルク辺境伯に囚われた奴隷兵です。戦いの混乱に乗じて、逃げ出してきました。あなた方と争う理由はありません。どうか……」

 フィアの懇願する声を、黒き影の魔導士は薄ら笑う。


「脱走兵だから、我々の敵にはならないと……?」

 フィアが小さくうなずく。

「聡いお嬢さんだ。キミだけなら、無事に逃げ延びるために必要な支援も助力もしよう。路銀、食料、無事に行方をくらますならば着替えは必要だろう。だが……」

 

 黒き影の魔導士は、薄ら笑う。


「だが、その獣人はダメだ。そいつからは、良からぬ魔法力を感じている」

 俺は、〈HALTホールト〉の命令語に縛られたまま、戦斧をただ握り続けていた。


「我々は無知ではない。王国は勇者に選ばれた王太子を守るため、身代わりを用意し安全に経験値を集めるという、騎士道にもとる小賢しい真似をしている」

 黒き影の魔導士は、侮蔑を込めたセリフを吐き捨てた。

 ああ、その感情は俺も同じだ。


 だが、利害は一致しない。

「その獣人には、経験値を複製する魔法がかけられているな。違法な存在だ。看過するわけにはいかない―― 差し出せ」

 あっさり、経験値を王太子と共有していることを看破された。

 俺が、勇者王太子の複アカウントだとバレたのだ。当然、抹殺対象だ。


「クォータエルフの娘よ。その獣人の首と引き換えならば、おまえには安全も自由も援助も与える」

 俺は歯ぎしりした。黒き影の魔導士がいうことは、ごくまともだ。俺の存在自体が処分対象なのは理解できる。問題なのは、俺自身が複アカだという点だけだ。


「それは、できません」

 肩までに切り揃えた白銀の髪が、拒否の意思に揺れる。


 黒き影の魔導士は、意地悪にも薄ら笑う。

「なぜ? どうして? 薄汚い奴隷獣人の首ひとつで、自由も安全も手に入るのだよ。なぜ、獣人などにこだわる必要がある?」


 くっと、フィアが小さなコブシを握りしめた。

 フィアの表情を読んだ黒き影の魔導士は、納得したようにうなずく。


「おまえは良き奴隷主のようだ。よかろう。我々妖魔は、愚かな人間どもとは違う。数千の骸骨兵の群れを掻い潜った手腕は、賞賛を送るに値する」

 ふいに黒き影の魔導士の足元に、魔法陣が浮きあがった。それが召喚陣だと気づいた。やばい! という感覚が俺の中で警鐘を鳴らす。


「フィア、俺の命令語を解け!」


「いいものをくれてやろう」

 俺の言葉と同時に、地面に開いた魔方陣が、地の底から禍々しい獣魔を呼び寄せた。赤黒い触手状の蔓を幾重にもまとう、食肉植物が獣魔と化した妖魔だ。獣魔召喚魔法だ。

 死霊魔術師だと―― 嘘ばっかりじゃないか。


「きゃっ!」

 地面を這う蔓が、フィアをさらった。

 こいつ、反則じゃねぇか。

 蔓は、召喚魔法陣のにまで出現していた。いきなり、そいつがフィアを捕らえたのだ。


「いやっ! 青藍せいらん……」

 フィアが俺の命令語を解こうとした瞬間、絡みついた蔓がフィアの口元をふさいだ。そのまま、召喚魔法陣内に居座る食肉獣魔の本体へと手繰り寄せられた。


「やめろ!!」

 俺は叫んでいた。

 だが、フィアの小さな体は、食肉獣魔の胴体に開いた巨大な口に呑み込まれた。

 丸呑みだった。


 ちくしょう! フィアっ!


 一瞬だった。卑怯な不意打ちを食らったとはいえ、俺はフィアを守れなかった。

 フィアを守り抜くと、何度も心に誓ったはず。

 無力感が俺を嘲笑い、支配する。

 零れ落ちるのは、いつも、突然なのか。



 黒き影の魔導士が、動けない俺に歩み寄ってきた。

「残念だったな、獣人。臆病者の勇者の代替品よ。不憫だが、放置もできないゆえに、バッサリやらせてもらう」


 するりと漆黒の剣が抜き放たれた。俺は、動けなかった。

 まだフィアが掛けた〈HALTホールト〉の命令語が解けていない。俺はフィアの奴隷だ。フィアが生きている限り、命令語は絶対だ。


 ――!?


 〈HALTホールト〉の命令語が解けていない。

 それは、フィアが健在という証だ。



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