第6話 何の根拠もない約束の言葉
「
フィアが命令語を使った。崩れたまま身体が動かない。
俺をあくまでも庇うつもりなのか。
こんな殊勝なことをしても、ギルク伯爵のブタ野郎には通じない。また、鞭を受けることになる。俺はフィアが傷つくのを見たくない。
グルル……
力任せに、命令語〈
「
フィアが、〈取り消せ〉と命令語を重ねた。〈変異〉しかけていた俺から、熱までもが奪われた。
名前を呼ばれ、命令語を与えられると、フィアの奴隷である俺は逆らえない。
命令語は、心を支配するのだ。
無力に
心までは奪われたくない。
フィアが傷つくのを、ただ見ているだけの無様な存在に落ちたくない。
肩までに切り揃えた白銀色の髪が揺れた。
床へうつ伏せた俺に、フィアが膝をついた。
フィアの手が俺の頭を撫でる。
不思議な安心感があった。
「ごめんなさい。
押し殺した少女の声が、俺に約束した。そう感じた。
全身を鞭打たれた痛みをたえるフィアの声に、絶望や隷属はない。
はだけかけた服の胸元に、〈死の楔〉の紋様が見えた。
同じ紋様は、俺の胸にもある。
奴隷にされた俺とフィアは、命令語に縛られて、首輪をされているだけではない。
心臓にまで達する〈死の楔〉という魔導に呪われていた。反抗を試みれば、直ちに殺されると、告げられていた。
しかも、この〈死の楔〉が発動する条件を知らされていない。
ギルク伯爵のブタ野郎が、何か良からぬ呪文を唱えたら、俺とフィアは直ちに殺されるのかも知れない。
たったひとこと―― 反抗は死である。
それだけを大司祭から伝えられている。
獣人として、自我を失うリスクを冒して〈変異〉を起こしても、〈死の楔〉がある限りは、無抵抗な死が待っている。それは知っている。だが、目の前でフィアが、鞭打たれる姿を見せられて、無様に床にぶっ倒れていられるか!
だが、フィアが、俺に言い聞かせた。
「いまは我慢して。きっとチャンスは来るから……」
何の根拠もない約束の言葉だ。
しかし、フィアの声は絶望していない。
いや、自暴自棄の〈変異〉を望んだ俺が、恥じるべきだと気づかされた。
「すまない」
だから、俺はフィアを信じた。
フィアは、俺に額を寄せて、小さくうなずいた。
そして、後ろを振り返り、キッとギルク伯爵を見返した。
フィアの冷涼な青い瞳と、俺の血に飢えた赤い眼が、ただ力だけを求める奴隷主、ギルク伯爵を射る。
暴力にも、恫喝にも屈しない。
フィアが、内に意思を秘めた小さな奴隷少女が、俺を導いてくれる。
「今日は、このぐらいにしてやる」
ギルク伯爵が吐き捨てた。
◇ ◇
「フィア、おまえは城館へ来い。傷の手当てをしてやる」
ギルク伯爵が、フィアへ手を差し伸べた。
「要りません。鞭を受けたのは、あたしが望んだことですから!」
フィアが言い放った。
ギルク伯爵が、呆れたようにため息をついて見せた。
「フィア、意地を張るな。おまえは、そこの獣人ほど頑丈にはできていない」
それでもフィアの紺碧の瞳は、ギルク伯爵を見据えている。
「変わったな、フィア。ただ怯えるだけの小娘だったのが、どうだ。無様に倒れている獣人よりも、よほど気丈だ。何が、おまえを変えた? 恋か?」
「なっ……!?」
フィアが、赤らんだ頬を両手で被った。
「ギルク、きさまっ!」
俺は吠えたが、ギルクは大笑いした。
「フィア、手当てをするから城館へ来い。そんな格好でいつまでもいる気か?」
ギルク伯爵が苦笑いする。
「あっ……」
フィアは、胸元がはだけていることに気づいて、慌てて両手を胸元に合わせた。
「手荒な真似をしてすまなかった。そこの若輩者を奮起させるには、おまえを使うのが、ちょうど良いと思っただけだ」
「それなら、もう、鞭は使わないと約束してください」
フィアは、背後に俺を庇うように立ち、ギルク伯爵と対峙している。
「ダメだ。その獣人を鍛えるためには、鞭が必要だ」
言うなり、鞭を床に走らせた。
鋭い破裂音に、フィアの背中が一瞬、竦む。
フィアは、一瞬でも鞭の音だけで身体が竦んでしまった。
フィアの悔しそうな一瞬の表情も、ギルク伯爵は見逃さなかった。
「言葉では気丈になれても、鞭は怖いだろう。だからだ。鞭はまだおまえたちを鍛えることに使える」
ギルク伯爵は、フィアへ手を伸ばした。
「
小さい声がつぶやいた。
フィアは、仕方なくギルク伯爵の手を取り、地下牢から出された。
◇ ◇
なぜ、この世界は理不尽にできているのか?
鞭打たれて、ブタ野郎に支配される。
唯一、俺を受け入れてくれたフィアを守ることもできない。
だが、フィアが願ったチャンスは、その夜、意外にも早く訪れた。
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