第3話 つばさくんパパ

 ふらりと立ち寄ったバーの片隅で、不機嫌にジントニックをチビチビやっていると、隣で飲んでいたおっさんが声をかけてきた。

「お姉さん、一人?一緒に飲まない?」

 ストライクゾーンが広めの私でもさすがにこのおっさんはパス、普段であれば無視するところだが、あいにくこの日は黒い私が顔を出してしまった。

「一杯おごってくれたらいいわよ」

「もちろん、何を飲む」

「下心満載の男が飲ませる定番って、やっぱりスクリュードライバーだよね」

 私は大きな声でバーテンさんにオーダーをした。

「スクリュードライバー一丁、濃い目で」

「お待たせしました」と置かれたグラスを掴むと、私はそれを一気飲みし、バーテンさんに空のグラスを差し出した。

「お代わり」


 酔いも手伝って歯止めが利かなくなっていた私は、立て続けに出されたお酒を一気飲みした。私が五杯目をオーダーしたところで、ヤバい相手と係わってしまった気の毒なおじさんは、お勘定を済ませるとそそくさと店を出ていった。


 バーテンさんに閉店を告げられ店を出ると、世界がぐるぐると回っていた。

 こみあげてくる不快感に、これは駅のトイレまで我慢できないと悟った私は、駅前広場の隅っこにひざまずいて、二本の指を口の中に入れた。

 途端に胃がひっくり返ったように痙攣し、私は自分でもびっくりするくらい延々と吐きつけた。広角に飛び出した吐しゃ物は容赦なく私の衣服を汚し、地面に大きなゲロだまりを作った。酔った時特有のアルコールまじりのツンとした匂いが鼻に着く。


 広場は学生と思しき集団でにぎわっていたが、皆遠巻きに私を見るだけだ。「あーあ、やっちゃたねー」「きったねー」という声も聞こえてくる。

 私は軽率な自分の行動を心の底から後悔した。だが、しかし、後の祭り、後悔先に立たずだ。


 どうしたらよいのだろうと途方に暮れていると、背後で

「真由先生ですよね、大丈夫ですか」と声がした。

 振り返ると、見たことがあるような気もするおじさんだった。今、真由先生って言ったよね。この人。

 

 胃の中のものを全部吐いたおかげでとりあえず吐き気は治まったが、ゲロまみれの私が電車やタクシーに乗れるはずもない。加えて尿意も強くなってきた。

 相変わらず世界はぐるぐると回っており、一人でトイレに行くこともままならなそうだ。このままではここでおもらしまでしてしまうかもしれない。この大ピンチに、このおじさんは、私にとって決して放してはならない救いの神だ。

 私はおじさんの服にゲロが付くのもかまわず、しがみついてお願いした。

「全然大丈夫じゃありません。どうかラブホまで連れて行ってください」

 

 主要駅のラブホの場所はすべて把握している私は、今にも落ちそうな意識の下、おじさんの肩を借りながら、一番近いラブホまでの道案内をした。

 ホテルに着いたら、まずはお風呂で身体を洗って、おしっこもして、それから生乾きで異臭を放っている衣服のゲロ落としだ。

 普通に歩けば数分のラブホに、転びそうになる身体を何度も支えられながらようやくたどり着くことができた。部屋に入るなりまた胃が痙攣を始め、洗面台に追いゲロを吐いたところで、私の記憶は途切れた。


 目を開けるとそこには見知らぬ天井、私はベットに寝かされていた。

着ているのはゲロまみれの服ではなくホテル備えつけのパジャマ、下着は上も下も付けていない。身体からはほのかな石鹸の匂い、私は入浴の介助を受けたようだ。

 そういえば尿意もなくなっている。トイレに連れていってもらったのか、風呂場でしてしまったのか、いずれにしても排せつの介助までされてしまったようだ。

 幼児が嘔吐や粗相をした時の沐浴とお着換えは私の仕事だ。その私がまさかそれをされる立場になるとは。


「ああ、目を覚まされましたか」

「はい、どこのどなたか存じませんが、ご親切にありがとうございます。」

「え、もしかして私のことわかっていません? 保育園でお世話になっているつばさの父です。」

「ああ、つばさくんパパ」

 私は一歳児の担当なので、酔った頭では三歳児のつばさくんパパまではとっさに思い出せなかったようだ。

 見知らぬおじさんの正体が判明し、ほっとしたとたんに、私は深い眠りに落ちた。


 






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