第48話 抱き締められました

「エレノア」


 静かで硬い声音で、そう呼び掛けられる。

 私の身体はびくりと震えてしまって、思わず目をぎゅっと閉じる。


 もしかして、叩かれたりするのかしら。彼は、それほどまでに怒っている。

 けれどシルヴィスさまは私の肩に手を置いたまま、ため息とともにこう告げた。


「もう二度と、こんなことはしないでくれ」

「あ、ご、ごめんなさい」


 私はゆっくりと目を開ける。目の前にシルヴィスさまのつむじが見えた。私の肩を持ったまま、うなだれているのだ。


 なんだかとても怒らせてしまった。どうしよう。

 こんなに怒るだなんて、思わなかったの。

 だって、毒を飲んだからって怒られたことなんてないんだもの。


 そんなことを考えていると、シルヴィスさまはふいに身体を起こして肩から手を浮かせる。

 それから目の前で腕を広げ、そしてその中に私をすっぽりと包んだ。


「あの」


 シルヴィスさまの腕の中に、私がいる。早く脈打つ心臓の音が聞こえる。

 それを打ち消すように、はーっと、私の耳元で息を吐くのが聞こえた。

 そして、囁くような低い声。


「余を助けてくれたことには感謝する」

「……はい」

「けれど、そなたの身を危険に晒してまで生き残ろうとは思わない」

「……はい」

「本当に、二度としないな?」

「……はい。……はい……」


 私はシルヴィスさまの背中に腕を回して、そしてぎゅっと抱きついた。

 頼もしくて広くて温かい。いつまでもそうしていたいほど心地よい。


 毒に慣れる、と一言では言っても、それは簡単ではなく、とても苦しい日々だった。

 無事でいられる一線を見極めながら、徐々に徐々に毒の量を増やしていく。

 熱を出したり吐いたりなどは日常茶飯事。

 それでも、毒に慣れたほうが生き残れる確率が高いという歴史を持つオルラーフ王家では、必ずそれは行われた。

 たった一人の王女でも、容赦はなかった。

 寝込むたび、「よくやった」「がんばったな」と褒められはしても、怒られることなどなかった。


 なのに。シルヴィスさまは。

 心配されたのだ。心配をかけさせてしまったのだ。

 なんだか涙が溢れてきそうになる。

 私は素直に謝った。


「ごめんなさい。もうしません」

「よし」


 そう応えると、シルヴィスさまは私の背中をぽんぽんと軽く叩いたあと、腕を解いて私を放した。

 こんなときだけれど、ちょっとだけ、寂しい気持ちになる。もう少し、その腕の中で身体を委ねていたかった。


「医師を呼ぼう」

「あ、いえ、ひとまず口をゆすいできます」


 たぶん医師を呼んだとしても、できることは何もない。


「そうだな、そうするといい」


 そのことはわかったのか、シルヴィスさまは私の言葉にうなずいた。


「ローザ、今、廊下に控えている者をすべて中に入れてくれ。それからそなたはエレノアについてやってくれ」

「かしこまりました」


 落ち着きを取り戻したのか、ローザは冷静な声音でそう了承した。


          ◇


 口をゆすいで戻ってくると、廊下には二名の衛兵がいて、食堂の扉を守っていた。

 彼らが扉を開いたので、私とローザは中に入る。


 中には、フローラと二名の侍女、衛兵が四人、そして白い調理服を着た料理人がいた。

 侍女も衛兵も落ち着かない様子で、そわそわとしている。


 料理人がシルヴィスさまに何事かを説明していた。

 なにを語っているのかまでは聞こえないが、暑くもないのに汗をかいているのが見える。

 シルヴィスさまは料理人の説明を、頬杖をついて足を組み、眉根を寄せて聞いていた。


 落ち着いた様子ではあるけれど、自分が殺されようとしたのだから、なにも感じていないなんてことはないはずだ。

 怒っているのか。悲しんでいるのか。

 私には、シルヴィスさまの表情から、その感情を推し量ることはできなかった。


「帰ってきたか」


 顔を上げて私たちを見ると、シルヴィスさまは確認するように口にする。


「エレノアは座ってくれ。もし少しでも気分が悪くなったら、すぐに言うこと。いいな?」

「はい」


 私はうなずく。

 私が着席したのを見ると、シルヴィスさまは対して立ち上がった。


「今から、この部屋の出入りは余の許可が必要となる」


 そのよく通る声に、皆の気が引き締まったのがわかった。食堂内になんともいえない静寂が訪れる。


「そして今日のことを、決して口外しないよう。これは王命である」


 シルヴィスさまの言葉に、皆が息を呑んだ。

 王命。

 もしこの話が漏れるようなことがあれば。

 命の保障もしない。一族郎党にも累が及ぶ。そう言外に告げている。

 その部屋にいる者たちは、頭を下げ、それを了承する姿勢をとった。


「エレノア姫」


 シルヴィスさまは私のほうに振り返り、そう呼ぶ。


「申し訳ないが、姫にもそのように」

「かしこまりました」


 私はうなずき、それからローザのほうに視線を移す。


「承知いたしました」


 私の視線を受け、ローザもそう言って、頭を下げた。


 シルヴィスさまは、室内にいた者、全員を見渡すと、椅子にどかりと座り込んだ。

 しばらくの静寂。

 誰も、言葉を発しない。

 ただ、国王の次の動きを待つだけだ。

 シルヴィスさまは額に手を当て、そして口を開いた。


「……心当たりは、あるのだ」


 苦悶の表情で、彼はつぶやくように零す。


「シルヴィスさま……」

「馬鹿なことを……」


 そうつぶやくと彼は、テーブルに肘をつき、両手で顔を覆った。


 私もたぶん、見当はついている。

 単純に考えればいい。

 シルヴィスさまを弑したあと、一番得をするのは誰か。


「ケヴィンを呼べ。エルマ夫人も」


 彼は、証拠もなにもなく、いきなり王弟殿下を名指しした。


「それから、クロヴィスは部屋から一歩も出さぬよう」

「御意」


 衛兵が四人とも、食堂を出て行く。

 私は慌ててシルヴィスさまに声を掛けた。


「シルヴィスさま、クロヴィスさまは」


 まさかそんな、クロヴィスさまは。

 確かに八歳にしては、しっかりしているし大人びてもいる。

 けれど、この件に関わっているだなんて、そんなこと。


「わかっている。……余はとにかく、話を大きくしたくないのだ」


 それだけ口にして、シルヴィスさまは黙り込んだ。


          ◇


 しばらくして、食堂の扉が開いた。

 誰もがなにも言葉を発さないまま、その扉を見つめている。


 入室してきたのは、王弟殿下一人だった。あとから衛兵が二名ついてきて、扉を閉めた。

 彼は落ち着かなく部屋を見渡し、そしてシルヴィスさまに視線を止める。


 わずかに、眉根を寄せたのがわかった。

 それで、わかった。間違いなく、この人が仕組んだことなのだと。

 なぜ生きているのか、とその瞳が語っている。

 けれどそれも一瞬で、彼は部屋の中に数歩入ると、いつもの胡散臭い笑みを浮かべて頭を下げた。


「陛下、お呼びでしょうか」

「ああ」

「なんでございましょう。王女殿下とお食事の時間と聞いておりましたが」


 その言葉を用意していたのだろうか。するすると引っ掛かることなく、王弟殿下はそう述べた。


「どうしてこんなことをした?」


 けれどシルヴィスさまは、彼の言動をすべて無視したかのように、問う。


「こんなこと? なんのことでしょうか」


 王弟殿下は、首を傾げてそんなことを問い返した。

 それには答えず、シルヴィスさまは続ける。


「夫人も呼んだはずなのだが」

「今、向かっております」


 衛兵が代わりにそう答えた。


「では彼女には後ほど答えてもらおう」

「いや陛下、なにがなにやら」


 王弟殿下は肩をすくめる。


「なぜ私は急に呼び出されたのです? 私も食事中なのですが。それも、アレッシ侯爵と。陛下のお呼びと聞きましたので、中断して……」

「毒が盛られた」


 簡潔に、シルヴィスさまはそう返した。


「毒?」


 王弟殿下はわざとらしく目を見開いてみせた。


「なんということでしょう!」


 口に手を当て、わなわなと震えてみせる。

 その三文芝居に、この部屋の中にいる誰もが眉をひそめた。


「ああ陛下、ご無事で良うございました」


 胸に手を当て、ほうっと安堵のため息らしきものを吐いている。


「本当に、そう思うか?」


 シルヴィスさまのその低い声音に、王弟殿下は眉根を寄せた。


「陛下。まさか、私を疑っておられるので?」

「違うと言うのか?」


 王弟殿下は、ふっと鼻で笑う。


「まあ、私は第一位の王位継承権を持っておりますからね。疑うのも無理からぬことかもしれません。情けないし悲しくはありますが」


 彼はそう語りながら、肩をすくめ、両の手のひらを天に向け、首を何度も小さく横に振った。


 そして。


「けれど毒物であるなら、私を疑う前に、疑うべき者がいるのでは?」


 ケヴィン殿下は、私たちのほうを振り返り、そう口にした。

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