32帖のアカデメイア

宮本晴樹

プロローグ 15年後の僕たちへ

――人生において本当に大事なことは、たった一年の間に矢継ぎ早に起こったりする。



その"一年"から七年後。



早瀬はやせさんは柔道をやってたんですか」

「はい」


面接官は履歴書を見ながら言う。


「どのくらい?」

「十五年ほど」

「そんなにですか」

「はい」


感心したように面接官が頷いている。

結果的に長く続けてしまっただけだったが、やはり継続はそれだけで美点とされるのだ。


「柔道の何が好きだったんですか?」

「……え」

「これだけ長く続けられたってことは、好きだったんでしょう。何か、こういうところが魅力で~、というのがあれば聞かせてくれませんか」

「ああ、それは……」



***



さらに、それから七年後。



「早瀬さん、オリンピックに出てた蒔田まいたと戦ったことあるってホントですか!」


ここが社内で、今が勤務中であることも忘れた新人社員が興奮気味にそう言った。


「本当だよ」


早瀬は自席でキーボードを叩き、コンピュータのディスプレイから目を離さないままそう答えた。技術部社内研究課課長代理と書かれた社員証を首から下げている。


「何の話?」

「早瀬さんが柔道でオリンピックに出てた蒔田選手と戦ったことがあるって話!」

「え、じゃあ早瀬さんも黒帯持ってるんすか?」

「持ってるよ」


会議終わりの他の若手社員が合流し、話題に参加する人間が増えはじめた。

昼休み直前だ。皆そろそろ集中力が切れてきたのだろう。


「結果はどうだったんすか」

「何の?」

「蒔田と戦った試合の」

「うーん、それは……」

「あ、いや、言いたくなければ」

「っていうか黒帯とかガチでやってたんじゃないですか! どうして言ってくれないんですか」

「……ガチ、か」



その、十五年前。



***



春は間近に迫り、白雪に代わって梅の花が散る頃。

ある者は合格掲示板の前で受験番号を探しており――


「あ、もしもし母さん? わたるだけど。うん、合格したよ。ありがとう。じゃあ、これから書類貰って帰るね。うん、またあとでね」


――またある者は静かに教室で自習を続けていた。


「知ってる? 石島さん、高等部上がったらダンス辞めちゃうんだって」

「そうなの? もったいない。文化祭で観た時すごく格好よかったのに」

「ねえ、とっても綺麗な人なのにもう観れないなんてねえ」

「それにあんなに背も高くて――って、何? ちょっとトランペット! 和田くん! 自習だからって教室で吹かないでよ!」

「このあと定演のソロのオーディションなんだよ。指鳴らしさせてくれ。……俺はこれで最後なんだから」


そして、ある者は学年末試験の答案を握り締めて生徒指導室を訪れ――


旭日あさひ祥太郎しょうたろうくんね……学籍番号が……はいはい、そうね。書類一式と期末の答案ね。問題ないです」

「はい」

「まあ、成績は申し分ないから奨学金と学生寮の更新はできるんだけどねえ……」

「成績以外に問題があるんですか?」

「言ってしまえば、あるよ。問題だ。君と、君のご家族についてだけど」

「それは問題ではなく災厄ですよ」

「え、どういうこと?」

「問題なら解決策があるってうちの部長が言ってました。だから、解決できないものは災厄です」

「あー……部長は清沢くんだっけ? 彼らしい理屈です」


――またある者は畳の上に素足を曝け出してぼやいていた。


「一段と寒いな今日は! 冬は終わったんじゃないのか!」

「真冬に逆戻りですって天気予報で言ってたよ」

「雨が降るか降らないかしか見ねーよ」

「ねえねえそれより今日祥太郎遅くない?」

「あー、あれだよ。奨学金の更新手続き。毎年この時期だからな」

「え、じゃあすみはどうしてここにいるのさ」

「二年生の手続きは昨日だったんだよ……お前、今『こいつ今年は審査落ちたのか』って思っただろ」

「思ってないよ!」

「はは、冗談だっての。稽古始めようぜ」


澄――清沢澄きよさわすみの一言で畳の上に座り込んでいた部員が立ち上がる。

その数、二名。一人は澄自身。もう一人は今しがた澄と話をしていた男だ。


「なあ、ひかり


タイマーを引っ張り出したのち、ウォーミングアップで格技場を円く走りはじめた二人は並んで会話する。

景と呼ばれた澄ではないほうの男は「何?」と返事をした。


「寒いの、人が少ないからかもしれん」

「少ない、っていうか」

「いない」

「そう」


それよ、と言って澄が頷いた。その拍子に、彼の長い髪を耳より上でハーフアップにした部分が尻尾のように揺れた。ゴーグルのような眼鏡をかけており、到底柔道選手には見えなかった。


「分かってたことだけど」


下を向いて走る景の表情は前髪に隠れて見えない。柔らかい黒髪に線の細い身体で、こちらもまた柔道選手だとは信じてもらえなさそうな風貌であった。


「今年こそ新入部員、頑張って入れないとやばいなあ」


景――家根やねたにひかりはそう呟いた。


「おう、頼むぞ。お前が主将なんだからさ」

「部長は澄じゃん」

「俺は雑務やるために部長引き受けたんだ。部員を引っ張ってくリーダーじゃなくてな」

「僕だって別にリーダー向きじゃないよ」

「でも強いだろ。少なくとも県では一番だ」


強い奴が主将リーダーであるべきだ、と言うと澄は残り三十秒でダッシュの姿勢に入り、景を置き去りにした。

十五年前の二月、縦浜たてはま学院高等学校柔道部が早瀬わたるに出会う前のことだった。

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