第4話 違えた道、国王の思うところ

 たった一週間の間に、エドヴァルドと聖女ヘレーナの噂は更に広がっていった。

 中にはお似合いの二人だと、本当に結ばれているのは二人なのではないかと囁く声もある。

 アクセリナは自室で一人、報告書に目を通しながら唇を噛んでいた。

 聖女の護衛となるまでは、彼は一週間に一度必ず挨拶に来てくれた。それが約半年前、新しい聖女の護衛騎士に選ばれてからその頻度は大きく減った。

 まず、自分の意思では来ない。フリッグ国第二王子にしてアクセリナの弟であるスヴェンと共に、聖女に関しての報告だけを上げに来る。けれどそれは護衛騎士に選ばれたのだから仕方のないことだと思えた。選んだのは自身の父親、現国王である。アクセリナの婚約者として更なる力をつけよという意図で決まったものだ。

 アクセリナもまた、王女としての役割がある。逢瀬の時間はほとんどないに等しかった。

 だから先日エドヴァルドが、「あなたの好きなものを持って訪ねてきます」と言ってくれたときは本当に嬉しかった。

 仕事を理由にではなく、あなたに会いに行きます、と言ってくれているような気がして。

 エドヴァルドを信じている。聖女とのことなど噂に過ぎない。確かに親しいのかもしれないが、それは聖女と護衛騎士という関係だからであって、やましい意味ではないはずだ。彼が愛しているのは自分であって、ヘレーナではない。

 スヴェンも、聖女側に感情はあるかもしれないが、エドヴァルドにそういった雰囲気はないと言っていた。弟が気を遣ってくれている可能性もあるが、彼も王族だ。無意味な嘘はつかないだろう。

(そうであってくれ……)

 アクセリナは報告書をくしゃりと握りしめ、目を瞑る。

 彼女にとってエドヴァルドは、初恋の人だった。初めは見た目に、そしてその誠実な心と優しさに惹かれた。婚約を受け入れてくれたと報告を受けたときは、夜眠れぬほどに嬉しくてヴィルフェルムに笑われた。彼が自分を想ってくれているのだと知って、これまでにない胸の疼きを感じたのを覚えている。

『お慕いしています、アクセリナ様。あなただけを、ずっと』

 そんな言葉を聞いたのは、いつが最後だっただろうか。最近は業務的な言葉しか聞いていない。

『あなたの婚約者になるべく、オレはもっと努力を重ねなければ』

『アクセリナ様、あなたに相応しい男になりたい』

 聖女がどうであったか。瘴気の具合がどうであったか。護衛騎士としての報告しか、聞いていなかった。

 エドヴァルドが自分のために、自分に相応しい男になるために修行を積むことに問題はない。けれどその「修行」は、いつになれば終わるのだろうか。彼はどうなることが、「相応しい」と思っているのだろうか。


 あと何日? 何週間? 何ヶ月? ……何年?


 本当は、結婚したくないために言い訳をしているのではないのか。聖女との噂は本当で、心変わりをしてしまったのではないか。

 そんな考えが過ぎってしまうほど、アクセリナの心には余裕がなくなっていた。

 ずきずきと心が痛む。息が詰まって、呼吸が上手く出来なかった。目頭が熱くなって、眉間を指でぎゅっと摘む。この程度で泣くわけにはいかない。王たるもの、恋愛にうつつを抜かしている場合ではない。

 大丈夫。エドヴァルドは真面目な男だ。少し時間がかかっているだけで、必ず成果を見せてくれる。

 自分を支えたいと言ってくれた。隣に立って、相応しい男になると言ってくれた。

 だから疑う必要はない。彼の想いを、ずっと信じ続けて……――。

 トントン、と静かに扉を叩く音が聞こえて、アクセリナは顔を上げる。振り返らず、「何だ」と尋ねた。

「アクセリナ様。オレです。エドヴァルドです」

 鼓動が強く鳴って、堪えたものがまた込み上げてくる。慌ててそれを飲み込み首を振ると、ゆっくりと深呼吸をした。

「入っていいぞ」

「――失礼いたします」

 求めていた男の姿に、アクセリナの表情は自然と緩んだ。その顔に一瞬驚いた様子を見せたエドヴァルドは、うろうろと視線を泳がせて部屋の中へ入ってくる。扉が閉まる音が聞こえて、直後に静寂。切り出したのは、アクセリナだった。

「今日は報告の日だったな。兄上は別件で不在のため、私が聞こう」

 エドヴァルドに対し、アクセリナ、ヴィルフェルム兄妹に報告を上げろと言ったのは国王だった。国王のもとへは弟スヴェンと、別の従者から報告が上げられる。これも彼の成長を見るための判断だった。

「はい、では……」

 いつものように、事務的な報告。アクセリナは落ち着いた表情でその声に耳を傾け、時折相槌を打った。

 特に進展のない報告に、ふ、と息が漏れる。

「……以上で報告は終了です。……それで、あの、アクセリナ様。お話したいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

 アクセリナはゆっくりと瞬きをする。いつものように笑って、首を傾けて答えた。

「何だ? 言ってみろ」

 エドヴァルドは少し戸惑った様子で口ごもると、数秒間を置いて、小さな声で言った。

「こ、……婚約の、解消は……可能でしょうか」

 一瞬、アクセリナの呼吸が止まった。

 なに、と紡いだ声が聞こえたのかはわからない。エドヴァルドは言葉を続けた。

「オレはまだ、あなたの隣に並び立つに相応しい男になれていません。まだまだ様々な力が足りないのです。戦闘の経験も、この街以外の国のこと、他国のこと、まだまだ学ぶべきことが沢山あります。……あなたから結婚の申し入れがあったときは本当に嬉しかった、お慕いするあなたに選ばれたのだと浮かれていました。けれどあなたを知るうちに、自分の未熟さを嫌というほど思い知りました。このままではオレは、あなたを支えることが出来ない」

 アクセリナは呆然と、エドヴァルドを見つめていた。エドヴァルドの言葉を理解することを、頭が拒んでいた。

「だから、……オレは聖女様と共に、もっと広い範囲で街を、国を守りたいと思います。きっとあなたは、オレがあなたの婚約者だからこの街を離れることを望んでいないのだと思います、だから一度、婚約を解消して……それに婚約者のままでずっとあなたをお待たせするのも、どうかと……」

 一気に語り、顔を上げたエドヴァルドは思わず言葉を止めた。

 アクセリナの顔から、表情が消えていたのだ。

「回りくどい、ことを」

 彼女の口から漏れたのは、酷く低い声だった。今まで聞いたことのないような、……柔らかさの欠片もない、鋭い声。エドヴァルドは慌てふためいた。

「え、……あ、アクセリナ様……」

「はっきり言えば良かろう。聖女ヘレーナに心変わりしたのだと。私と婚約を続けることは出来ないと」

 告げられた言葉にエドヴァルドは目を見開き、慌てて首を振った。

「違います、そんなことは!」

「お前とヘレーナの噂、私が知らないと思っていたか。街の見回りと称して、二人でカフェに入ることもあったそうだな。他の護衛騎士は外に置いて、二人きりで」

「それは、聖女様が大人数は迷惑だと……」

「ヘレーナはお前の腕に手を絡ませて歩いているそうじゃないか。まるで恋人同士だと、平民の中では評判だぞ」

「あ、あの方は長時間歩くと疲れてしまうと仰るので、支えが必要だと……」

「ははっ」

 乾いた笑いが漏れた。

 信じていようと思っていた。信じていたかった。ヴィルフェルムに何を言われようと、スヴェンからどんな報告を受けようと――エドヴァルド自身の言葉を聞くまでは。

 聖女といたいがために婚約解消する?

 よくもそんなことが言えたものだ。婚約者に対して。それとももう彼の中ではすでに、婚約者ではないのかもしれない。

 アクセリナは深く息を吸い、静かな声で言った。

「今まですまなかったな。王女との婚約は、さぞ窮屈だったことだろう」

「! ち、ちがっ、違います、アクセリナ様!」

「何が違うと言うのだ!!」

 報告された状況に、全て相違がないことを認めている。それだけでもう充分だった。

 充分、アクセリナの心を傷つけていた。

 疑心が確信に変わるほどに。

「お前が私のために時間を求めるのなら、いつまでも待っていようと思った。お前が自分に自信を持てるようになるまで、待っていようと……だがもう良い、よくわかった。婚約はすぐに解消しよう。それで良いな」

 もう、待てない。アクセリナは暗に、そう言ったつもりだった。

「アクセリナ様、オレはただ……!」

「良いな?」

 今のアクセリナには何を言っても信じてもらえない――エドヴァルドはそう察して、口を閉じた。相変わらずアクセリナの表情はなく、ただ怒っているのだろうということしかわからない。

 こく、と小さく頷いたエドヴァルドは改めて胸元に手を当ててアクセリナに礼をすると、切なげに眉を寄せて告げた。

「アクセリナ様、オレはあなたをお慕いしております。その心に変わりはありません。……ですが今は少し、あなたから離れようと思います」

 あなたに本当に相応しい男になるために。

 その想いだけは信じて欲しいと、エドヴァルドは切に願った。

「好きにするがいい。私に止める権利はない」

「……はい。失礼します」

 再度深く頭を下げて、エドヴァルドは静かに部屋を後にした。

 アクセリナはその場に座り込み、ぼんやりと宙を見つめる。


 彼は理解したのだろうか。もう待たないという意味だと、わかっているのだろうか。

 否、もはやどうでもいいのだ。

 彼となら共に国を支えて行けると思っていた。そうでありたかった。だがきっと実際は、そうではなかったのだ。ただ無意味に彼を縛り付けて、自由を奪っていただけ。

 確かに想い合っていた。恋心はあった。だけれどそれはもう、過去の話なのだろう。

 王女であるから、王となるのだから、こんなことで心を壊していられない。たった一人に心を動かされてはならない。

 だが涙は勝手に溢れてきた。ぼろぼろと大粒の涙が溢れて、喉が引きつった音を漏らす。

「うっ……うぅ、……っ」

 エドヴァルドの笑顔が、遠くなる。眉を下げて笑う顔、嬉しそうに瞳を細める様、愛しげに見つめてくる眼差しーー何もかもが。

 慕っているのならなぜ婚約を解消しなければならない? 慕っているのならなぜ離れて行く?

 それは本当の想いなのか。だったらそれは、自分とは違う感情なのではないか。

 ならばもう、よい。


 道は、違えた。

 

 アクセリナはしばらく泣き続け、ぐい、と目元を拭う。目元は腫れて鼻は赤くなってしまったが、気にしている心の余裕はなかった。

 部屋を出ると背筋を伸ばし、大股で目的の場所へと急いだ。

 兵士や侍女たちが頭を下げ、中には心配そうに様子を伺う眼差しもあった。

 大きな扉の前で足を止めたアクセリナは大きく深呼吸をして、護衛の兵士へ目配せする。兵士はすぐに礼をして、扉の向こうへ声をかけた。

「国王陛下。王女殿下がお越しです」

「アクセリナか。入るが良い」

 返事がすぐにあって、兵士が扉を開く。執務机の上はきちんと整頓されており、ティーカップが置かれていた。その手前にあるテーブルの上には、ティーカップといくつかのお菓子。執務机に座る国王――シーギスムンド・ベールヴァルトよりも先に目に入ってきたのは、アクセリナの妹であるアンネッテだった。

「お姉さま! 今お父さまとお茶をしていたの、お姉さまもいかが?」

「アンネッテ。あぁ、あとでいただこう。――父上、少しお時間をいただいてもよろしいでしょうか」

「うむ、構わん。……なにか、あったようだな」

 アクセリナの顔を見つめて、シーギスムンドが呟く。アクセリナは瞳を細めて笑みを浮かべると、一拍間を置いて口を開いた。

「エドヴァルド・フェムシェーナと婚約解消します」

 アンネッテは驚いた顔をして、口元に手を当てた。シーギスムンドはゆっくりと目を閉じて、それから深く息をついた。

「やはり、そうなったか……」

 娘の言葉は決して、予想外のことではなかった。結婚の延期、スヴェンの報告と、懸念材料はいくつもあったためだ。それでも彼の騎士としての能力や、公爵子息としての振る舞いは評価していた。決して無能な男ではなかった。

「本当は……結婚を延期されたときに、決断をすべきだったのかもしれません。ですが私の甘さから、エドヴァルドを手放せなかった」

 拳をぎゅっと握りしめ、アクセリナは表情を歪ませる。

「先程彼から、聖女との活動範囲を広げるために婚約解消の申し出がありました。それを受け入れます。……いえ、そうでなくても、これ以上待つことは出来ないと判断しました」

 シーギスムンドはこめかみを押さえて、また深く深くため息をついた。

 最後の機会のつもりで与えた聖女の護衛騎士という立場が、最悪の結果を生み出してしまった。もっとも国を思えば、決して悪い結果ではない。

 エドヴァルドは王配に相応しい男ではなかった。

「わかった。その旨公爵夫妻へ届けよう。卿には護衛騎士を続けてもらうが、……それで、構わぬか」

「はい。彼もきっとそれを望んでいることでしょう。王配となって私の隣に縛り付けられるより、聖女の騎士として自由であるほうがいいのだと思います」

「そんな、お姉さま。二人は両想いなのではなかったの?」

 アンネッテが悲しげな表情を浮かべて、姉の手を握る。アクセリナはふっと笑って、首を振った。

「それだけでは国を守れないのだよ、アンネッテ。私は父上の後を継ぎたくて、それをエドヴァルドに支えて欲しいと思っていた。だけどエドヴァルドにその器はなく、私もまた彼のことで時間を割きすぎてしまった。……今まで王になるために努力を重ねてきたけれど、どうやら私にもその器はないらしい」

 アンネッテにはまだ理解が出来ない。

 国王夫妻は互いを想い合い、支え合っている。姉とその婚約者もそうなるものだと思っていた。

 アクセリナはシーギスムンドに向き直り、胸に手を当てる。

「父上。私はこれより父上と次期国王である兄上を支えるために生きたいと思っています。国を守る力を支える位置になります」

「……ふむ。ならば、どうとする」

「力を持つ国との繋がり。それをさらに強固なものに」

 シーギスムンドはすぐにアクセリナの言葉の意図を理解した。

「左様であるか」

 婚約者であった男の、裏切りにも近い行為。それを受けて尚アクセリナは王族だった。

 その心は酷く傷ついていることだろう。国のためとは言え聖女を利用したハニートラップは、アクセリナの知るところではない。伝え聞く言葉に、どれほど泣いたのか。

 それでも彼女は、王女としての心を崩さなかった。

「ヴィルフェルムをここに。……アクセリナ、今は休め。アンネッテと共に甘いものを食べて行くと良い」

「……はい。ありがとうございます、父上。それから、エドヴァルドについても……ご迷惑をおかけしました」

 深く頭を下げて、アンネッテに促されるまま椅子に腰を落ち着ける。

 そのアクセリナの姿を見てシーギスムンドは、父親としての心を痛めていた。

 好意を抱いた相手との結婚が叶っていたら、娘はどれほど幸せだっただろうか。否、あのエドヴァルド相手では、その幸せも長くは続かなかったかもしれない。

 アクセリナを想う気持ちだけは本物だった。

 ただ、それだけだった。

 それだけではどうにもならないことを、彼はわかっていなかったのだろうか。

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