49 靴職人令嬢、すがりつく


 足首を掴んだ男の荒れた手に、リルジェシカの全身が粟立あわだつ。


 喉の奥からほとばしった悲鳴に応じるように。

 びりりっ! と十字に布地が裂ける音と同時に、薄暗い荷台の中に光が差し込む。


 だが、差し込んだ光よりもまばゆくリルジェシカの目を射ったのは。


 幌の裂け目へ、疾走する馬から飛び移ったフェリクスの金の髪だ。


「なっ、なんだおま――、っ!?」


 振り返った男が驚愕の声を上げるより早く、フェリクスが右手に握っていた剣の柄を男のあごに叩きつける。


 リルジェシカの足を掴んでいた一人目の男が吹っ飛び、馬車の縁に頭を打ち付け、そのまま動かなくなる。


 一人目の男が白目をむいて倒れる間もなく、リルジェシカの足を掴んでいた二人目の男の顎を、フェリクスのブーツが容赦なく蹴り抜いた。


 もんどり打って転がった男は、気絶したのか、そのままぴくりとも動かない。


「フェリクス、様……っ?」


 夢でも見ているのだろうか。


 心の中で名を叫んだフェリクスが、助けに来てくれるなんて。


「リルジェシカ嬢! 怪我は――」


「くそがぁっ!」


 険しい表情でリルジェシカを振り返ったフェリクスの背後で、ザックの雄叫おたけびが上がる。


 隠し持っていたらしい短剣の鞘を捨て、血走った目でフェリクスに突進するザックは正気を失っているかのようだ。


 フェリクスとザックの間に挟まれた形になってしまったリルジェシカは息を吞んで身を強張らせる。


「フェリクス様っ! 逃げ――」


 フェリクスが怪我を負ったらリルジェシカのせいだ。自分のことなど放っておいて、逃げてほしい。


「大丈夫だ」


 血に濡れるフェリクスなど見たくなくて、ぎゅっと目をつむったリルジェシカの鼓膜を、力強い声が打つ。


 同時に、だんっとフェリクスのブーツが一歩踏み出す音が鳴った。


 弾かれたように目を開けたリルジェシカの視界に飛び込んできたのは、リルジェシカを庇うように身を割り込ませ、己の剣でザックの短剣を受け流すフェリクスの姿だ。


 誰もいないところに力任せに短剣を振り下ろしたザックの身体が、馬車の揺れに大きく体勢を崩す。そのまま、勢いを殺しきれずに、荷台の後ろの幌を引き裂きながら、地面へと転がり落ちていった。


「ひぃぃっ」


 振り向いて荷台の異変に気づいたのだろう。御者台の男が悲鳴を上げて荷馬車を止める。フェリクスが無言で御者に剣を向けると、男は罠から逃げ出す獣のように、御者席から飛び降りて走り去った。


「リルジェシカ嬢!」


 当面の脅威は去ったと判断したのだろう。素早く剣を鞘にしまったフェリクスが膝をつく。


 たくましい腕が、抱えている木箱ごと、床にへたり込んでいるリルジェシカをぎゅっと抱きしめる。


「フェリ……っ」


 名前を呼びたいのに、声が震えてうまく言葉にならない。


 いまになって、凍りついていた涙が瞳の奥からあふれてくる。


「怖かっただろう。遅くなってすまない。もう大丈夫だ。わたしがもう、指一本ふれさせないから」


 リルジェシカの震えをかすかのようにぎゅっと抱きしめたフェリクスが、大きな手のひらで背中を撫でる。


 あたたかくたのもしい手のひらが背中をすべるたび、雪が融けてゆくようにこわばりがほどけてゆく。


「大丈夫。もう大丈夫だ。すまない、わたしが遅くなったせいで……。もっと注意しておくべきだったのに……っ!」


「ちが……っ、フェリクス様のせいじゃ……っ」


 我が身を刺し貫くかのような泥よりも苦い声に、ふるふるとかぶりを振る。


「わ、私が品評会に……っ」


 違う。言いたいことはそうではないのに。


 リルジェシカの言葉に、フェリクスがはっとしたように身を離す。


「そうだな。急がねば……っ!」


 落としたはずの右の靴がフェリクスのポケットから出てきて驚く。


 もしかして、これを見てリルジェシカの身に何か起こったのかもしれないと駆けつけて来てくれたのだろうか。


 フェリクスが足を見ないように気を遣いながら、まだ恐怖でうまく体が動かないリルジェシカにそっと靴を履かせてくれる。


 立ち上がらねばと、リルジェシカがまだ震える足に力を入れるより早く。


 身を屈めたフェリクスが、リルジェシカを横抱きに抱き上げる。


「ひゃっ!? あの……っ!?」


「王城へ急ごう」


 危なげない足取りで歩を進めたフェリクスが、肩で馬車の後ろの幌を押しのけ、地面に降り立つ。


 荷馬車から少し離れたところでは、荷馬車から転げ落ちたザックが横倒しになり、うめき声を上げていた。


 ザックの姿を見た瞬間、先ほどの恐怖が甦り反射的に身を強張らせたリルジェシカを、フェリクスの力強い腕が抱き寄せる。


「くそっ、てめぇ……っ!」


 落ちた拍子に骨を折ったのだろうか。左足を押さえ、苦悶くもんの声を洩らしながら、ザックがなおも憎しみに満ちた視線を向けてくる。


「覚えてやが――」


「ならば、後顧の憂いとならぬように斬っておくか」


「っ!?」


 言葉ごと、叩き斬るように告げられた冷ややかな声音にザックが息を吞む。


 リルジェシカも腕の中から、驚愕に息を吞んでフェリクスを見上げた。


 いつも穏やかな表情をたたえている凛々しい面輪は、リルジェシカが見たことがないほど厳しく張りつめている。碧い瞳は抜き身の刃のように鋭い。


「お前は、最も傷つけてはならぬものをけがそうとした。警備兵に引き渡すことはたやすいが……。まだ逆恨みするようなら、いまここで斬り捨てておこう」


「ひぃぃぃっ!」


 炎のように燃え立つフェリクスの激昂をまともにぶつけられたザックが悲鳴を上げる。


 たとえザックであっても、フェリクスが人に手をかけるなんて嫌だ。止めなくてはと思うのに、リルジェシカも恐怖に喉が詰まって声が出ない。


 フェリクスは本気だ。本気でザックを斬る気でいる。


「や、やめ……っ」


 一歩一歩、ゆっくりと歩み寄るフェリクスに、顔を蒼白にしたザックが動かぬ足を引きずって逃げようとする。


 だが、恐怖に強張る身体はいつくばるだけでろくに動かない。


「わ、わかった! 俺の逆恨みだった! 王都を出る! もう二度と姿を見せたりしねぇ! だから、い、命だけは……っ!」


 恐怖にひび割れた声を張り上げるザックの前まで来たフェリクスが、冷ややかに見下ろす。


「ひぃぃっ、た、助け……っ!」


 悲鳴を上げたザックの顎をブーツを履いたフェリクスの爪先が蹴り抜く。


「っ!」 


 鈍い音にリルジェシカは反射的に目を閉じ、フェリクスの腕の中で身を強張らせる。


「すまない。怖がらせてしまったね」


 優しくリルジェシカを抱き寄せたフェリクスの声に、おずおずと目を開けると、ザックは白目をむき、気絶して地面に横たわっていた。


「い、いえ……っ!」


 まだ恐怖に強張る関節を必死に動かし、首を横に振る。


 フェリクスが、今後リルジェシカにふたたび害が及ばぬために、ザックをらしめてくれたということは、ちゃんとわかっている。


「あ、ありがとうございます……っ! フェリクス様が助けてくれなかったら、私……っ!」


 もしフェリクスが駆けつけてくれなかったら、今頃どうなっていたことか。


 震え、潤んだ声でようやく礼を言うと、ぎゅっと強く抱きしめられた。


「本当に、無事でよかった……っ!」


 聞いているリルジェシカの胸まできゅぅっと痛くなるような真摯しんしな声。


「……本当に、これから品評会へ行けるかい?」


「は、はい……っ」


 気遣わしげな声にこくんと頷くと、そばでおとなしく主を待っていたフェリクスの馬の背に、そっと降ろされた。次いで、ひらりとフェリクスがくらにまたがる。


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