神火

高麗楼*鶏林書笈

第1話

 神護景雲三(七六九)年武蔵国入間郡―


 市に集まる人々の昨今の話題は“神火”だった。

 先日、下総国の何処かで起った神火がここ入間でも発生したのである。

 神火は正倉(官衙や寺院等に設置された公設倉庫)四件を焼き、干飯及び米穀合わせて一万五百余斛を焼失。その影響で重病になった民は十名、急死した者は二人いた。

 国衙では卜占が出来る役人に神意を伺ったところ、出雲伊波比神(いずもいわいがみ)が朝廷からの幣帛が最近滞っていることを怒って雷火を落としたことが判明した。

 さっそく出雲伊波比神社の祝(ほふり、神職)である小長谷部広麻呂を呼び出し問い質したところ、実際、幣帛が滞っていた。

 事はすぐに朝廷に報告され、しかるべき処置が取られて事態は一段落した。


 さて、話は一年前に遡る。

 その日、武蔵国国衙は賑わっていた。

 国司、久良郡司を始めとして庶民の飛鳥部吉志五百国に対し叙位式が行われたためである。

 少し前、久良郡に住む五百国が偶然、白雉を発見し捕獲した。白雉は瑞鳥だったため、彼はすぐに役人に報告し、指示に応じて国衙に届けた。国司はさっそく朝廷に送った。

 時の為政者・称徳女帝は、これをたいそう喜び、武蔵国の国司や郡司に叙位を行い、五百国には従八位下を賜叙したのであった。

 式典を見物していた人々の中に、入間の有力者の一族の一人大伴部直赤男の姿もあった。彼は無官だったが野心家で、この地の郡司の座を狙っていた。

「雉一羽で庶民でも官職を得られるのか…」

 晴れ晴れしい表情で都からの使いの前に立つ五百国を見ながら赤男の脳裏にある考えが浮かんだ。彼は、それを実行すべく動き始めた。


 多くの荷を載せた馬の列が入間を発った。目的地は都にある西大寺である。

 この寺院は、現在、朝廷の実力者である道鏡が管掌している。

 宮廷の禅師だった道鏡が実力者にまでなれたのは、天皇の病気治療がきっかけだった。

 重い病で苦しんでいた称徳天皇を優れた医術で完治させた道鏡は、仏教のみならず様々なことに通じ、円満な人柄だった。それゆえ、女帝は彼に心を惹かれ、病気が治ってからも彼を側に置き、様々なことを相談するようになった。最初は、日常的な私的な事柄に限られていたが、いつしか政事についても意見を求めるようになった。そして、遂に天皇は彼を太政大臣禅師に任命し、正規に政治に参与させた。


 都から遠く離れた入間の地にいても大伴部直赤男はこうした朝廷の状況をしっかりと把握していた。彼は道鏡に取り入って自身の野望を果たそうとしたのであった。

 折よく、現在の武蔵国国衙内は道鏡派の人々が主流だった。そのため今回の寄進についても彼らの助言を得ていた。

 だが、これだけでは郡司の座は得られない。まず現任の郡司を何とかしなくてはならない。郡司にも任期はあるが、半ば世襲されているため、赤男には機会が巡ってこなかった。

 機会が来ないのなら自分から掴めばよい。

 郡司を解任する方法の一つに正倉の焼失がある。公共物を損なった責任を取らされるのである。

 ある夜、赤男は下働きに正倉の放火を命じた。

 と同時に小長谷部広麻呂を訪ね、神火の神託の偽造を依頼した。広麻呂は同族であるため頼みやすく、また“成功報酬”も約束した。

 こうして神火事件が起こされた。

 火事発生後、国衙は広麻呂の神託を得た後、大した調査も行わず、さっさと朝廷に報告し事態を収拾した。彼らは、赤男が正倉の中身を横領して放火したのではないかと思ったのだが知らぬ顔をした。中身は彼らの“領袖”のもとに運ばれたのだから。

 これで全てがうまくいくと赤男は思ったのだが、そうはいかなかった。称徳天皇が亡くなってしまったのだ。

 後ろ盾を失くした道鏡はたちまち権力も失くし、朝廷を追われてしまった。

 そして、入間の神火事件を怪しんだ中央の関係部署は改めて調べなおした。確証は出なかったが、大伴部直赤男は限りなく怪しいとされ、寺院への寄進に対する叙位はなされなかった。

 最終的に赤男には外従五位下を与えられたが、それは彼が亡くなったのちだった。

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神火 高麗楼*鶏林書笈 @keirin_syokyu

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