美希と榛弥~蜻蛉のカゴと神隠しの夜~

小野寺かける

一章――①

 六畳の居間にキャリーケースとボストンバッグを広げ、美希みきはスマホを片手に唸っていた。鳶色の丸い瞳は画面に表示したメモと、自身を中心に四方へ散らばる大小さまざまな袋やポーチの間を行き来する。

「ホテルやないし寝巻き持ってかなあかんよな。高校ん時の体操服でええか。あ、ヘアバンド忘れるとこやった」

 他に洗顔フォームや化粧落としなど、必要なものはまだある。歯ブラシと歯磨き粉も用意しなければならないが、母はよく旅行先のホテルから余ったアメニティなどを持ち帰ってくるため、まだ未開封のそれが家のどこかにあるはずだ。

 あるとしたら浴室横の洗面所だが、現在兄が入浴中だ。うっかり立ち入って全裸の兄と鉢合わせしたくない。出てくるまで待つしかなかった。

「猫ちゃん柄の袋が二日目用で、ペンギン柄の袋が三日目にしたんやっけ。まあどっちでも変わらんでええやろ。えーっと他に入れなあかんのは……」

 激しく動いているわけでもないのに汗ばんで、首筋にかかる髪が鬱陶しく感じる。一応ヘアゴムも持って行くか、と思いながら、うなじのあたりで後ろ髪を結んだ。

 袋の中には着替えの服が詰めこんである。冬と違って厚着をしないぶん衣類の量は少ないが、嵩張るのは避けられない。

 いかに空気を抜いて再び膨らむまでの間にバッグへ納められるか、最終的にファスナーがちゃんと閉まるか悩みながら、どうにか全て詰めこんだ。アメニティは押しこめばなんとかなるだろう。

「お先」背後から声がかかり、振り返れば兄が上半身裸で立っていた。肩にバスタオルを羽織り、美希と同じ栗色の髪はまだしっとり濡れている。「うわ、部屋きったな」

「やっと出てきた。お兄ちゃん長風呂し過ぎや」

「湯船浸かっとるうちに寝とったんや」

「いつか溺れ死んでも知らんで。てかなんで服着てへんの。露出狂やん」

「誰が露出狂や」

 とにかくこれでようやく洗面所に入れる。兄を押しのけて目的の物を探しに向かうと、予想通り母がこつこつ溜めこんだアメニティが大量に見つかった。一つや二つ勝手に持って行ってもバレなさそうだが、念のため声をかけておくべきか。無断で拝借したのでは窃盗と変わらない。

 母にアメニティ拝借の許可を得てから居間に戻ると、兄がスマホをひたすらタップしていた。ゲームでもしているのか、髪はまだ乾かしていない。

よ乾かさんと髪痛むで」

「あー、せやな」

 いまいち忠告が耳に入っていなさそうな返事の仕方だ。む、と唇を尖らせつつ、ファスナーの隙間からアメニティを詰める。

「てかなに、お前どっか行くん」

 スマホから目を離さないまま兄が問いかけてくる。「あたし昨日もうたやん」と美希は眉間にしわを寄せ、限界まで膨らんだバッグの側面を叩いた。

「明日の土曜から月曜までちょっと泊まりに行ってくるって」

「そうやったっけ」

 人の話をまるで聞いていなかったらしい。さすがに少しばかり腹が立ち、兄の脚に拳骨を落としてやる。

 きっかけは専門学校の友人だった。

 教室脇の共有スペースで昼食を摂っていた時、入学してからの仲である女友だちにこんな提案をされたのだ。

『九月の半ばくらいに三連休あるじゃん。せっかくだし一緒に撮影しない?』

 友人の口調を真似つつ言うと、兄が不思議そうに首を傾げる。

「撮影ってなんの」

「〝コス〟に決まっとるやん」

 美希の趣味はコスプレだ。初めは既製品を着るだけの簡単なものだったが、いつの間にか衣装を自作するほど熱中していた。カメラ技術の向上を目指し、学校でも写真専攻に進んだ。

「提案してくれた友だち――仙嘉せんかちゃんって言うんやけど、その子もコスプレ趣味やってさ。やから仲良うなってんけど」

 ちなみにこんな子、と写真を見せたところ、兄が面白いほど目を見開く。

「……これなんのキャラのかっこうしてんの」

「なんのコスプレもしてへんよ」

「は? 私服? カツラも被ってへんの?」

 驚くのも無理はない。

 写真は一年前、学校に入学した頃に撮ったものだ。美希の隣でピースサインする彼女はいわゆるゴスロリを身に纏い、日本人離れした銀髪は腰まで届いている。

「髪は染めとるて言うとったかな。あとほら、目ぇもカラコン入っとる」

「ふうん、充血しとるで赤いんかと思た」

「そんなわけあらへんわ」

 喋っている場合ではない。準備はまだ完了していないのだ。

 美希は慌ただしく二階の自室に戻り、クローゼットから複数の衣装を取り出した。

 いずれもコスプレで着用するものだ。他のウィッグや小物もクローゼット内に設けた専用の保管場所から見つくろい、着替えと同じように、しかしいくらか丁寧に袋に詰める。コスプレで使う一式はまだ空っぽのキャリーケースに収めればいい。

 ――こうやって準備しとる時間て、なにげに楽しかったりするんやよなぁ。

 現場に行ったらどんな表情で、どんなポーズで撮ろう。屋外での撮影なら天気が良い方がいい。雨や曇りなら、それはそれで雰囲気のある画になるだろう。

 念のためスマホで気候を確認すると、予定日はいずれも快晴、しかし真夏日という、屋外での長時間の撮影は避けた方が良さそうな状況だった。楽しすぎるあまり熱中症になったのでは洒落にならない。

「水分補給すんのに水筒……はさすがに持ってかれへんか。近くに自販機とかあったらそこでお茶とか買お」

 汗拭きシートや冷感スプレーも準備しておいて損は無さそうだ。使う機会が無くて「無駄な準備だったな」と感じるより、「なんで持ってこなかったんだろう」と後悔する方が怖い。

 衣装が入った袋を重ねて持ち上げようとしたが、あれこれ入れ過ぎてずっしり重くなっている。美希は自室から大声で「お兄ちゃん、ちょっと!」と躊躇いなく呼び、兄はうんざりしたような表情ながらも部屋に来てくれた。

「ちょっとこれ下の部屋まで持ってってくれへん? 重たいねん」

「一個ずつ順番に持ってったらええやんけ。いっぺんに持ってこうとするから重なるんやろ」

「何べんも階段上り下りすんのめんどくさいもん。しかも疲れるし」

 呆れたようにため息をつきつつ、兄はしっかり居間まで荷物を持って行ってくれた。逆らうだけ時間の無駄だと思ったのかも知れない。

 無事に一通り準備を終えてひと段落したところで、母から「美希、あんた風呂は?」と訊ねられた。母はサービス業に勤めているため、土曜日だろうが朝から仕事である。つまり早朝に起きる必要があり、早寝できるよう先に入浴を済ませてもらった方がいい。

 美希がそう答えると予想していたのだろう。母は胸に寝巻きを抱えていた。

「お母さん出たら次お父さん入ってもろうて。あたし最後でええわ」

「分かった。じゃあ伝えとくね」

 いそいそと浴室に向かう母を見送って、美希は居間の座布団に腰を下ろす。夕食を終えてから忙しなく動いたおかげで全身が汗ばんでいた。扇風機が空気をかき回すだけでは涼しさが足りず、手のひらでも顔を仰ぐ。

「お前っていっつも出かける直前になってから準備するよな」

 兄がガラスのコップを片手に座椅子へもたれかかる。裸のままうろつくのを母にも咎められたらしく、いつの間にか寝巻き代わりのTシャツを着ていた。

 小言に「うるさいわ」と反抗して、兄の手からコップをひったくり、奪った勢いのまま入っていた麦茶で喉を潤す。兄が唖然と口を開ける前で、美希は麦茶の香ばしさと冷たさにようやく生き返った心地がした。

「俺が飲もと思て持ってきたのに! なんで勝手に飲むねん!」

「だって喉渇いとったんやもん。ええやん、また入れたら」

「俺が言いたいんは『人のもん引ったくるな』ってことや! お前余所でもそんなことしとるんちゃうやろな」

「当たり前や、お兄ちゃんにしかやってへん」

 ふふん、と胸を張って答えれば、兄はがっくり肩を落とした。

 からかうのは面白いが、度が過ぎると仕返しされかねない。美希はもう一杯飲むついでにコップを新たに用意し、兄のぶんも注いで渡してやった。

 休憩がてら録画したアニメを再生する。大正時代を舞台にした和風ファンタジーかつバトルもので、明日からの撮影で美希が扮するキャラも出てくる。ストーリーを楽しみつつキャラの仕草を観察していれば、兄も一緒になって観賞していた。

 原作の漫画は美希が購入しているが、冊数がそれなりに多いゆえに場所をとる。そういった長期連載になりそうなタイトルは全て居間の本棚に並べてあり、兄も何度か読んだのだろう。

「めっちゃ作画ええな。曲もかっこええし」

「せやろ。バトルシーンとか映画みたいなクオリティやしテンション上がるで。あ、ここのシーン撮ってみたいわ。メモっとこ」

「そういや今まで撮影で泊りがけってあらへんだよな。どっか遠いスタジオでも借りたん」

「ううん、県内。なんならうちから車で三十分くらいのとこ」

「はあ?」と兄が思いきり首を傾げた。「なんやそれ。そんだけ近いんやったら別に日帰りでええやんけ」

「だって泊まらせてくれるて言うんやもん」

「さっき言うとった友だちん家にでも泊まんの」

「ううん。友だちの彼氏ん家」

 困惑が深まるばかりだったのか、兄は眉を寄せたまま固まった。

 とはいえ美希ももし兄から似たようなことを言われたら混乱していただろう。立場を置き換えて言えば「友だちの彼女の家に泊まりに行く」である。場合によっては良からぬことを考えている可能性を疑いかねない。

 どう説明したものか。美希は腕を組んで頭を左右に揺らす。

「仙嘉の話やと、彼氏ん家がめっちゃ広くて撮影スポットだらけなんやって。スタジオとか建物貸し切るんやと結構お金かかるやん。けど彼氏ん家ならさっき見とったシーンに使えそうな部屋もあったりしてちょうどええらしくて」

「……それ彼氏は『えよ』て言うてくれとるんか?」

「あんま気ぃ強い子やないから、多分やけど仙嘉に押し切られたんやろなぁ」

「なんなん、お前彼氏の方とも知り合いなん」

「だって同じクラスやし」

 ついでに言えば仙嘉の彼氏とは出席番号が隣り合っている。出席番号順に座ったりする際に必然的によく顔を合わせるけれど、会話の量は多くない。好きでも嫌いでもない無害な同級生、といった印象だ。

「まあさすがに最初はあたしも遠慮したんやで」

 交際相手でもない男の家に泊まりに行くなんて厚かましすぎる。仙嘉の彼氏も「それはちょっと」と首を横に振っていた。

 自宅からも近いし、泊まるのは仙嘉だけにして美希はその都度足を運べばいい。そこで話がまとまると思ったのだが。

「『いちいち車で来てたらガソリン代かかるでしょ』って言われたら『ごもっとも』って感じやん。しかも明日が仙嘉の誕生日でさあ」

 美希が脳内でガソリン代を換算している隙に、仙嘉は「特別な日なんだから自分のやりたいことやって、友だちとも彼氏とも過ごしたい」だのなんだのと彼氏を言いくるめたようだ。気がついた時には美希も宿泊することになっていたのである。

「なんか我がまま女王さまって感じの子やな」と兄が呟いた。あながち間違っていないので美希も否定はしない。

 幸い彼氏の両親は撮影も宿泊もすんなり快諾してくれた。ずいぶん心の広い家庭だなと感心したものだ。

「ほんで家の場所聞いてびっくりしてん。お父さんがよう行く床屋さんあるやん。あそこまで行く通り道にずーっと塀で囲まれとる家あんの覚えとる?」

 美希も兄も、子どもの頃は父の散髪についていく事があった。床屋の主人の子どもが兄と歳が近かくて遊んでいたのもあるが、その時に出してもらえる菓子やジュースが主な目当てだった。

 兄は道中の光景を思い出しているのか、天井を見上げてから「あー……うん……」と渋い表情でうなずく。

「ついこないだ車で通りかかったわ……。馬鹿みたいに広いとこやろ」

「そうそう。『どこに門あるんか分からへんなあ』って、お父さんがいっつも言うとこ」

「……あそこ人住んどったんか……。俺はてっきり……」

「?」

 ひょこん、となにやら可愛らしい音が兄の言葉を遮る。メッセージアプリの通知音だ。しかし美希のスマホにそれらしい表示は無い。音の出所は兄のスマホか。先ほどからやたらスマホをタップしていたのはゲームではなく、誰かとやり取りしていたからか。

 兄はメッセージを確認するなり「ハル兄だけが来るん違うんか」と呟く。

「えっ、榛弥はるや兄ちゃん?」

 久しぶりに聞く名前に、美希は素早く反応した。

 榛弥は十歳年上の従兄いとこだ。去年の夏に顔を合わせてから長らく会っていない。すかさず兄に近寄れば、そのぶんだけ距離を取られた。諦めずにじりじり迫るのをくり返し、しっかり部屋のすみまで追い詰める。

「来るってどういうこと。榛弥兄ちゃんうち来んの?」

「ハル兄んとこ子ども生まれたやろ。祖母ちゃんとこに顔見せに行くついでに、うちにも寄るんやと」

「ほんま!」と思わず声が上ずる。興奮のあまり頬も赤くなっているかも知れない。「めっちゃ会いたい! いつ来んの!」

「明後日の日曜日」

「会えへんやん!」

 テンションが上がった直後に急落した。畳に伏して嘆く美希の脇を抜けて、兄は「残念やったな」と鼻で笑う。

「予定入れてもたんやでしゃーないな。諦めろ」

「えー会いたかったー……」

 しかし仙嘉との約束を反故にするわけにはいかない。仙嘉の彼氏や、その両親の厚意も無駄にするのは失礼だ。従兄とは正月なり盆なり、母の実家に帰省すれば会えるのだから我慢しよう。

 榛弥とのやり取りが終わったのだろう。兄はあくびをして立ち上がり、居間から出て行こうとする。

「……あのさ」その間際、振り返りながら呟いた声はやけに暗かった。「お前って怖いんあんま得意違うよな」

「子どもの頃よりは平気やけど」

 昔は常夜灯を付けておかなければ眠れなかったが、今は真っ暗の方が落ち着くくらいだ。ホラー映画もお化け屋敷も仕掛けがあると思えば怖くない。

 なぜいきなりそんなことを聞くのだろう。訝しむ美希に対して、兄は何度か言いにくそうにためらってから口を開いた。

「……そこの家、幽霊出るで」

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