『夜のカメリア』 純文学

 艶かしく白い頬を彩る赤は、彼女の幻想的な紅髪よりも生々しく、そして非現実的だった。


「ロイエ……?」


 足元に横たわるものを無表情でじっと見下ろしていた彼女は、僕に名前を呼ばれてふと顔を上げた。

 長い睫毛に縁取られた深い藍色の目が何の感情も浮かべずに僕を見つめ、そしてふっと笑むように細められる。


「こんばんは、良い夜ね」


 いつものように。

 彼女はそう言って微笑んだ。


 地下室の冷たい床に伏したさっきまで人間だったものと、鉄錆のにおいと共に広がる血の海など、そこには存在しないかのように。


「君は何を、した、んだ……?」


 引き攣る喉から絞り出した声は、自分でも笑いそうになるほど哀れっぽく震えており、僕は浅い呼吸を繰り返しながらロイエを――僕の美しい恋人を見つめていた。


 ロイエは少しだけ首を傾げ、僕の目を見つめ返す。その動きに合わせて、青白い肌に映える艶やかな紅色の髪がさやりと揺れた。紅いカメリアの様なその髪は、こんな状況でも僕の目を奪って仕方がない。


 僕が好きなその可愛らしい仕草は、彼女が何かを不思議がる時のものだったけれど、この状況でいったい何を不思議がる必要があるのだろうか?


 彼女は、その白い手に、ぬめる赤い血に濡れた大ぶりのナイフを握り締めたままだというのに。


「殺したのよ。見れば分かるでしょう?」


 そして彼女は、事も無げにそう答えた。


「ああ、大丈夫よ。よくあることだから」


 そう言ってロイエはナイフを丁寧に傍にあったテーブルに置く。動作はいつもと変わらず淑女らしい典雅さを有しており、足元の死体とのちぐはぐさに、僕は鈍い頭痛を覚えて顔を顰めた。


 血の染みで斑に彩られた白いドレスの裾を軽く引いて、彼女は僕に近づいてくる。


「私が怖い?」

「っ、それ、は……」

「素直ね。顔に出やすいのは、貴方の素敵なところよ」


 彼女はうっすりと笑む。青褪めた白皙の美貌に浮かぶその笑みは物憂げで、普段なら少し心配しただろう。

 けれど今は、足が竦んで何も言えなかった。さっき殺されたばかりの死体がそこに転がっていて、彼女の顔が、唇が触れ合いそうな距離まで近づいた時に、慣れ親しんだ甘い香水のにおいに混じって、噎せ返る様な血臭がしたからだ。


「大丈夫、貴方は殺さないから」

「ロ、ロイエ……」

「だって貴方は私の可愛い恋人ですもの」

「っ……」

「でも、しばらくは離れなければならないかもね」


 そう呟いて、悲しげに微笑みながら藍色の目を伏せた彼女に「自首しよう」と言えず、逃げることもできずにいたのは、きっとこの時すでに、僕の中の隠れた異常性が目を覚ましていたからだろう。



――――――――――



 忍び寄る戦争の気配に、仕事のため暮らしていた国を出て、久しぶりの故郷の地を踏んだのは、緑の丘に白花の揺れる麗らかな春のことだった。

 実家に顔を出したあと、新しく住むことになったアパートメントの一室に荷物を置いて、身軽になった僕は夜の街へと繰り出した。

 国を出る前はよく通っていた馴染みのパブでエールを楽しみ、ふわふわしたほろ酔いの状態で、まだ少し冷える夜道を歩いていた時、僕はロイエに出会った。


 酔いが吹き飛ぶほどの衝撃だった。


 彼女は僕の人生で、最も美しい女性と言えるだろう。長い睫毛が白い頬に影を落とす様に目を伏せて、物憂げに石畳へ視線を向けていた表情が印象的だった。


 彼女はほっそりとした体にシンプルな深緑のドレスを纏い、その華奢な肩に白いショールをふわりと掛けていた。

 陶器の様な肌は病的なまでに白く、毛先へ向かうに従って緩やかなウェーブのかかる深い紅色の髪がとても綺麗だったのを覚えている。


 多分、それは一目惚れだった。

 僕の視線に気づいてこちらに向けられた彼女の藍色の瞳が、その瞬間に僕の心を掴んで放さなくなってしまったのである。


 どうしてこんな時間に、とか、一人きりでどうしたのか、とか多分そんな気の利かない台詞を言ったのだと思う。とにかく僕はそこで彼女に声をかけた。

 僕の格好悪い言葉に、ふわりと微笑んだ彼女は何と答えたのだったか。思い出せないけれど、それがすべての始まりだったのだ。



 それから僕は、ロイエとよく会うようになった。ちょっとした買い物に付き合ったり、昼食を共にしたりして、二人の時間を重ねた。

 彼女はとても不思議な人だった。流麗で優雅な言動はまさに上流階級のもので、微かに漂う甘い香水のにおいと共に、彼女はいつも宵闇の様な華麗の気配を振り撒いていた。


 僕のような庶民を相手にしていて退屈じゃあないのか、と何度訊ねたことか。


 その度に彼女は長い睫毛に縁取られた藍色の目を細めて答えるのだ。


「そんなことないわ。貴方との時間はとても楽しいもの」


 そんな甘い言葉と共に柔らかく手を握られてしまえば、僕はいつも溢れる喜びにだらしなく笑ってしまって、彼女にくすくすと笑われるのであった。




 ロイエは時折、風を追う様に遠くを眺めていることがあった。そんな時の彼女の横顔は、常より格段に美しく、僕はその視線の先にいる見知らぬ人の存在に心を乱されたものだ。


(今は、あの時ロイエが何を思っていたのか分かるけれど)


 そう考えながら、頬に飛んだ赤を適当に拭う。返り血を浴びるようではまだまだだな、と僕は重く濡れた服を見下ろして溜め息を吐いた。

 足元には先程まで息をしていた男の体がぐんにゃりと力なく伏している。その喉は大きく裂かれ、その赤黒い傷からまだ生暖かい血が溢れ出していた。

 狭い路地の左右の煉瓦壁に血飛沫が複雑な絵を描き、流れ出ていく血は夜の湿気にしっとり濡れた石畳をゆるゆると伝っていく。


 丁度今、僕が手の中のナイフで彼を殺した。


 僕の手には、まだ、男の喉を裂いた心地のよい感触が残っている。血濡れたナイフを握った手を見下ろして、僕はフッと笑んだ。


 さて、いつもの手紙を書かなければ。


 仰向けに倒れている死体が着ている血濡れたコートの前を開き、シャツを乱雑に裂いて、もう二度と上下することのない白い胸と腹を露にした。

 手に持ったままのナイフの刃先を、その白い胸から腹へと滑らせる。何度もやったことだから慣れたものだ。僕の動きに迷いはない。


『僕の愛しい人へ』


 あの夜の後すぐに僕の前から姿を消したロイエに向けた言葉だ。これで丁度十枚目の血濡れた屍のラブレター。

 さっき僕は、今ならあの時のロイエの気持ちが分かると考えていたけれど、まさに僕はそれと同じ思いでこの哀れな男を手にかけたのだった。


 丁度良い。

 ただそれだけ。


 殺人鬼の彷徨く夜の街を一人で歩き回る無用心さ。少し草臥れたコートは持ち主がさほど裕福ではないことを物語っており、金銭が目的ではない者にとっては殺しても厳しい追手が放たれる心配のない相手にしか見えない。


 彼が死んで悲しむ者はいるだろうか?


 僕は足元に横たわる血濡れの死体を一瞥して、フッと身を翻した。長居はするべきじゃない。


 返り血を浴びたコートを脱ぎ、凶器と共に捨てて、あらかじめ退路のごみ捨て場に仕込んでおいたコートを拾って着込む。白い息を吐きつつコートの前を掻き合せてしまえば、血に濡れたベストやシャツは隠れ、僕は寒い夜に震えながら帰路につく労働者の一人に見えることだろう。


 湿気にぬめる石畳の道を歩きながら、姿を消した美しい恋人のことを考える。


 黄昏から呼び掛ける様な蠱惑を湛えた狂おしい乙女だった。玲瓏たる美貌に煌めく濃藍の双眸の幻想。紅いカメリアの髪を揺らして僕に微笑んだロイエ。


 僕が彼女の美貌に黄金色の昼でなく、濡れ羽色の夜を夢想してやまないのは、彼女がその肌に薄衣の様に纏う死の香気のせいだろう。

 だって彼女は、呼吸するように人の喉を掻き切るのだ。きっといつも死の神と共に夜の街を歩いているに違いない。


 白い頬に艶かしく返り血を散らした凄絶なまでに美しい殺人鬼は、きっと僕の隠れた異常性を見抜いていたんだろう。

 ロイエは、僕がこの衝動に目覚めても目覚めなくても、どちらでも良かったのだと思う。

 夜にしか咲かない薔薇の化身の戯れ。もしかしたら孵るかもしれない卵を、気まぐれに手の上で愛でていたに過ぎないのだ。


 そして僕は、何の偶然か、はたまた神の悪戯か。ロイエが人を殺したところを見てしまった。

 結果として僕の中の異常性は生々しく産声を上げて、衝動を喚きながら僕の思考を侵食していった。異常性の産声と共に、僕は新しい殺人鬼として、この世に産まれ直したのである。

 普通に生きてきた僕に、たったそれだけのこと――美しい恋人が人を殺す瞬間を見ただけのことで、こんな衝動が生まれるなんて信じがたいことかもしれない。


 だからこそ僕は、僕自身が元々異常性を抱えていたと思うのだった。


 嗚呼ロイエ、僕の美しい恋人。

 君はいったい何処にいる?

 僕の言葉は、届いているのだろうか?



――――――――――



 古びたアパートメントの階段は、こちらがいくら気を付けてもギィギィと耳障りな音を立てる。

 別に他の住人にこの音が聞こえても構わなかった。どうせ皆昼間からの酒浸りか重労働に疲れきって熟睡している。


 重く垂れ込める様な埃のにおいと染み付いて消えない酒のにおいは、今までにこのアパートメントに部屋を借りてきた者が僕を含めて皆碌でなしだったということを示していた。


 自室の鍵を開け、ギィィと軋む蝶番に顔を顰めながら部屋に入る。直後鼻孔をくすぐった場違いな甘いにおい。


「っ!!」

「こんばんは、良い夜ね」


 あの夜と全く同じ挨拶を口にして、彼女はそこで微笑んでいた。


「ロ、イエ……」


 夜の女神より美しい僕の恋人。


「どうしたの? 幽霊でも見たような顔をして。ふふ、相変わらず、可愛い人ね」


 僕は思わず膝を折り、呆然と彼女を見つめていた。言葉が出てこない。会えたら言おうと思っていたこと、その全てが彼女の纏う昏い夜の気配に呑まれてしまう。

 そんな僕の様子に苦笑して、ロイエは椅子から立ち上がってこちらへやって来た。


「開けっ放しは駄目よ。誰かに見られてしまうでしょう?」


 彼女はそう言って扉を閉める。煩かった蝶番はやけに静かだ。彼女がこの世の全てを静寂の支配下に置いているかの様な錯覚は、こうした何でもない動作から生まれるのだったと、呆然としながら思い出した。


「貴方の素敵な手紙はきちんと受け取ったわ」

「ぁ……ロイエ、僕は……」

「まだ未熟なところも多いけれど、随分上手になったわね」


 そう言われて、意識が、脳が、彼女に褒められたのだと認識した瞬間、僕はわっと泣き出して、彼女に縋りついた。


「僕っ……君が、一緒にいられないというから、僕は、ずっと独りで、君に、君に会いたくてっ……」

「ええ、ええ。分かっているわ。貴方がとても頑張ったこと、私を想ってくれていること、全部、ちゃんと分かっている」

「ロイエ、もう、どこにも行かないで……僕のそばにいて、おねがい、おねがいだよ……」


 無様に泣きながら縋りつく僕の肩を撫でるため、ロイエはそっとその場に腰を下ろしてくれた。ああ、ここの床は固くて汚いから君には似合わない、そんなことを頭の片隅で思いながら、僕は彼女を抱き締めて泣き続けた。

 ロイエはまるで母親みたいな優しい手つきで僕の頭を、背中を撫でてくれる。僕のような孤独な人殺しを生んだ夜の母神。とても慈しみに満ちている。


 彼女の華奢な肩にうずめた鼻先をくすぐる深い紅色の髪。蕩けて、そのまま眠るように死の淵に堕ちてしまいそうになる甘い香り。

 触れ合っている確かな体温に、彼女が夜霧の見せた甘い蠱惑の夢ではなく、間違いなくそこに存在しているのだと安堵する。


 嗚呼、僕のロイエ。


 どうしたら君は、ずっと僕のそばにいてくれるんだろう。


 どうしたら僕は、君のそばにいることを赦されるんだろう。







「勿論そばにいてあげたいわ、私の可愛い恋人。けれど、それは少し難しいの」




「夜に肉を喰らう生き物は、同じ場所に長く、共にとどまることができないのよ」




「それに、簡単では面白くないわ」




「だからね、私の愛しい人」




「私を捕まえてごらんなさい」





――――――――――




 それから、ロイエは再び、冷たい霧に満ちた夜闇に溶ける様にして姿を消した。


 黄昏のさえずりの様な言葉だけを残して、孤高の弦月の様に無慈悲に。


 だから僕は、必死に彼女を探した。


 決して足跡を残してはくれない彼女の痕跡を、死に物狂いで探し、視界の端に揺れるカメリアの色に迷いながら。



 その間に僕は様々なことを学んだ。


 国々を渡り歩きながらいくつもの言語を習得し、様々な状況に柔軟に対応するすべを身につけた。

 日常のなんでもない仕草に、生まれ育ちや生活水準がそこはかとなく滲むことを知り、それを完璧に隠して擬態することを覚えた。


 やがて僕はどんな場所にも、どんな人々の間にも溶け込めるようになり、ある昼は工場労働者と過ごし、ある夜は顔を隠した貴族たちの夜会に紛れ込む、なんてこともできるようになったのである。


 それから、殺しの腕も磨いた。

 やっぱりロイエの隣にいるには、彼女に認められる様な素晴らしい殺人鬼ひとにならなきゃと思ったから。


 刃を届かせるためには、相手の懐の深くまで入り込まなければならない。そのためには、相手と同じように話し、その心に理解を示して共感することが重要だ。

 心底つまらないし億劫だけれど、その苦労も、完璧に研がれたナイフが肌を裂く気持ちのよい感覚によって、その一瞬だけは報われる。



 でも結局は満たされないから、僕はいつも夜の気配に君の姿を夢想する。



――――――――――



 あれから一年。少しずつ広がり始めた戦火を避けながらこの大陸を歩き回って、結局僕は全ての始まりの、僕の故郷に戻ってきた。

 僕は誰が見ても無害そうな顔で、労働者が集まる小汚ないパブに入り、片隅で安くて不味いエールを煽りながら、酔って大声で騒ぐ労働者たちの声を聞く。


「それでよぉ、俺はあいつの顔に一発入れてやったわけよ!」

「がはははっ! そいつぁ傑作だな!」

「ところでよ、アレ見たか?」

「ああ見たとも! あの怖ぇくらい綺麗なねえちゃんだろう!!」

「そうそう! 一瞬流行りの人形かと思ったぜ! 特にあの紅い髪!!」


 ほら来た。元々、彼女がこの街に戻っているという情報は掴んでいた。そうと決まればあとは聞き耳を立てるだけでいい。


 風のように気紛れな彼女の足取りは普通には掴みにくかったが、その美しさ故にこうして人々の話に上がることがよくあるのだ。

 その話の内容に腹立たしさを覚えることも多かったが仕方がない。彼女の美しさの本質を知らない哀れな人々は多すぎる。苛立ちのまま、否定して、殺して回っていては彼女が遠退くだけだ。


「でも、女一人でこんな夜遅くに何してたんだろうなぁ?」

「上客でも待ってたんじゃねぇのか?」

「あんな綺麗な女、一回でもいいから抱いてみてぇよなぁっ!」


 下卑た笑い声。顔は顰めず、無口な店主に苦笑して見せる。


 間違いない。彼女は近くにいる。そして僕のことには気づいていない。僕はそう確信してパブを出た。足跡をなるべく残さないように歩き回ってきて良かった。



 これでやっと君を捕まえられる。




――――――――――




「こんばんは、良い夜ね」


 暗い路地裏で、夜に紛れた僕らは一年ぶりに再会した。


「少し寂しくなってこの街へ来てしまったの」


 変わらず美しい夜の獣。寂しくなったなんて、似合わないことを言って微笑んでいる。


「捕まってしまったわね。貴方ならできると思っていたわ」


 細い肩に触れて、夜霧に濡れた煉瓦の壁に押し付ける。僕の右手に光る刃物に少しも驚かない、きっとこの答えすら読まれていた。


「そうしようと思うのね。昔の私と同じだわ。そうすれば・・・・・、もう逃げられなくて済むものね」


 血濡れた様に鮮やかな唇が、愉しげに言葉を紡いでいく。甘い吐息の触れ合う距離で、長い睫毛に縁取られた藍色の瞳が僕を見つめていた。

 逃げないの、と掠れた声で訊いた僕に、ロイエはくすくすと笑う。指の背で頬に触れれば、彼女は愛しげに目を細めた。


 こんな彼女にも、その美しく青褪めた白磁の肌の下、僕と変わらぬ赤い血が流れているのだろうかと考える。

 それを確かめるのが怖いような、楽しみなような。人ならざる者だと思っていた彼女をただの人であると認識するのは少し不安だった。


「さあどうぞ、私の愛しい恋人」


 そう言う君の、柔らかな紅の髪はやはり夜に咲いたカメリアの色で。幻想を宿した藍の双眸はどんな夜空より綺麗だ。



 僕は夜のカメリアにキスをした。

 赤く紅く、どこまでも美しい君に。

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