村人VS勇者~村人転生から始める魔王討伐。勇者が魔王を斃すと滅びる世界だとボクだけが知っている~

いづみ上総

第1話 死と少年と勇者

「えっ、うそ」


 呆けたような一言が出たときには、目の前に空が広がっていた。

 どこまでも続く蒼穹と、眼下に広がる深緑の森にボクは息を飲み込む。


 踏み出した足を支えるはずの地面はなく、走り抜けてきた森は途切れている。

 息を切らして逃げてきた先にあったのは、絶望的なまでの高低差がある断崖絶壁。


 どんな魔物も命を落とすであろう崖を、ボクは気付かず踏み越えていたのだ。

(しまった)


 そこから落下することを悟った瞬間、全身の血の気が引いた。

 地面との距離は、生き残る可能性を考えるのも馬鹿らしいほど致命的だ。


 しかも、滑落しようとしている壁面には鋭利な岩が無数に飛び出している。

 痛い、で済まないことなんて子供でも分かるほどの光景に頭が真っ白になり――


(あ、死んだ!)


 瞬きするよりも早く、その未来を悟った。

 母の病気を癒やすために薬草を取りに行った森の奥。


 そこで狼の群れに襲われて、ガムシャラに森を逃げ回ったボクを待っていたのが、崖からの転落という結末だ。崖であることを知ってか、腹を空かせた狼たちが追ってきてないことにもボクは気付けなかった。


(こんなところで死ぬのか)

 目当ての薬草も入手できず、狼の胃袋を満たせるわけでもない無為な死が、大きくあぎとを開けてボクを手招きしている。


 魔法使いのように神秘の技などなく、神官のように奇跡も持たない十歳の子供には、落下死という未来を避けるなど不可能だ。

 だから諦めようとした。


(だめだ。母さんとアイツが待っているのに)


 そのとき粗末なベッドで咳き込む母の姿が脳裏をよぎった。

 そして、摘んだ花でヘタクソな冠を作ってくれる幼馴染の顔が浮かんだ。


 ボクは子供の頃から一緒だった女の子が、メソメソと泣く姿を幻視して――いや、しまった。


(死ねない――死ねるものか。ボクは薬草を持って帰ると約束したんだ。母さんのシチューを、アイツと食べるんだ)


 そんな感情に突き動かされ、落下していく体をひねり必死に崖の方へと手を伸ばす。


 崖の縁に伸ばした手は――届かない。

 だけど諦めず、たまたま目についた枯れツタを掴む。


 それは一瞬だけボクの体を支え、すぐに耐えきれずブツッという音を残して千切れた。


「っっ!」

 その奈落に堕ちる浮遊感は――何かに腕を掴まれたことで消失した。


「え? なにが?」

 体を空中にブラブラさせながら、周りを見回す。だが、なぜ宙吊りなっているか分からない。


「大丈夫か!」

 状況が理解できないボクに強い意志を宿した声が、崖の上から投げかけられた。

 声に頭を上げると、誰かが腕を掴んでいる。大きくて力強い手だった。


(誰? 知らない声だ)

 男の人の声だ。だけど顔は逆光でよく見えない。


「いいか。引き上げるぞ、せいっ!」

 命を飲み込もうとしていた崖から、ボクを引き上げる手。

 崖に向かっていた重力が一気に反転し、有無を言わせない力がボクの体を空へと投げ飛ばす。


「うわっ、つっ……痛たた」

 青すぎる空が目に飛び込んできた次の瞬間、ボクの体が地面に転がり、なす術なく茂みに突っ込んだ。思いっきり投げられたので全身が痛い。


「ああ、すまない。でも危ないところだった。ギリギリだったけど、平気かい?」

 ホコリまみれになり、痛みに悶絶するボクに明るい声がかかる。


 きっと声の主がボクを投げ飛ばして《たすけて》くれたのだろう。


「へ、平気。助けてくれてありがとう」

 地面に這いつくばったまま、返事をして助けてくれた人物を見る。


(この人、だれ?)

 その人は例えるなら、星明り一つない夜でも光を感じさせるような黒髪の青年だった。


 青空よりも明るい瞳に、キリッと流線を描く眉。端正な顔で細身だが、総身にはしっかりと筋肉が付いているのが一見するだけで分かる。

 青を基調とした服を着込み、革鎧で身を固め、簡素だが美しい首飾りをつけている。質素な生活をしている村人にはとても見えない。


「あなたは?」

「君はレンだね」


 誰何に答えず、逆に名前を問われてギョッとする。レンはボクの名前だ。

「あの……どうして、ボクの名前を?」


「君の友人に頼まれたのさ――女の子だよ。えっと、名前は」

「それって、もしかして、ミリー……ミリアムですか?」


 幼馴染を愛称でなく、久しぶりに本名で呼ぶと彼が破顔する。

「ああ、そうそう。その子に帰りが遅いから、レンを迎えに言って欲しいって頼まれたんだよ」


 青年は大袈裟に手を叩き、事情を説明する。

 曰く、『友達のレンが薬草を取りに行くと出ていったきり、戻ってこない。どうか探してきてほしい』


 どうやら一昨日から帰らなかったことで、幼馴染に大きな心配をかけてしまったようだ。

「そう……ですか。わざわざ、ありがとうございます」


「いやいや、気にしなくていい。困っている人を助け、悪を成敗するのは俺の使命だからね」

 しっかりと頭を下げるも、彼は誇らしげに胸を張ってみせる。なんとも爽やかな笑顔で、村のどんな人間とも違うタイプであることがすぐ分かる。


「遍歴の騎士さまでしょうか?」

「いやいや、俺は勇者さ。女神に選ばれた本物だよ」

 

「勇者?」

 背負った剣に目を向けて推測するも、青年は想像と異なる職業を口にする。


「ああ、俺は勇者ルーク。まだ使命を与えられたばかりの駆け出し勇者だけどな」

 少しだけ照れくさそうに髪に触れるルーク。だが、その目には強い意志の光が宿っていた。


「あの……その勇者が、こんなところで行方不明の子供一人に構っていて良いんですか?」

 指名がある勇者がこんなところで何をしているのだろう、と訝しむ。


「まあ、あまり良くはないな。でも……さ。何事も経験だからね」

 ルークはボクの言葉に苦笑し、長い鍛錬を想像させる節くれだった手を背中に伸ばす。


 そこには一振りの剣。飾り気のない、だけど重厚さを感じさせる剣の柄をルークは掴んだ。

 そして、ボクに鋭いきっさきを突きつける。


「え……あの、ルーク……さん?」

 彼のまとっていた優しげな空気が霧散し、ゾッとするほど鋭い眼光がボクを射抜く。


 静かに鯉口を切られた刃は、陽光すら裂くほどに鋭利な輝きを宿していた。

「なにを、するんですか? どうして剣なんか握るんです」


「レン、動くな。動けば死ぬぞ」

「っっっっっ!!」


 猛烈な殺気に、思わず両の足が竦んだ。

 その言葉が冗談ではないことが、本能で感じ取れて息が詰まる。


 動けば本当に死ぬ。そのことがハッキリわかり、頭の中が真っ白になる。

 蛇に睨まれたカエル、という『聞いたこともない』言葉が脳裏に浮かんだが、それを疑問に思う余裕すらない。


 そして、ルークの手が刹那の刃を抜き放った。

「っっ‼」


 呼吸をする暇もないほどの抜き打ちに、鮮血が散った。

 おびただしい血が、空の青色を穢して、赤い雨となって降り注ぐ。

 猛烈な血の匂い。命の散華を知らしめる紅色が、地面に池のように広がった。


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