誰が為の家族

ピチャ

誰が為の家族


 知っているか。

 君の家族は、仕事を円滑にするために集まった「小規模会社」だ。


 突然、上司からそのようなことを言われた。

たしかに、私の家族は本当に家族なのかわからない。

家族団らんという苦痛。そこは微妙な関係の人が集まってしまったエレベータ内のよう。

身動きの取れない、空気が閉じられた小さな箱。

上司の言うことが尤もだ。特に意見もなく、あ、そうだろうな、と受け入れてしまう状態。

家の外にいるほうが自由にしていられる。一人のほうが安心していられる。

家族ではないのだろうと思いつつ、家族がどういうべきものなのかわからない。もしかしたらこれも“家族”の一形態として許されるのかもしれない。

 隣にいる人を蝕むのが、家族と言えるのだろうか。

 しかし、理想の家族などそう簡単に出会えるはずもない。何しろ選べないのだから。誰しも苦痛を抱えて生きている、私もその一人であるのだろう。そういうことは、そこそこ起こることだと思う。

 私の感覚に合う名称をくれた上司に、感謝さえしているかもしれない。


 私はなぜあの家に生まれたのか。どこかから拾ってきたというほうがしっくりくる。しかし血の似た部分がある。そんな自分がもどかしいというか、自分がよく捉えられないというか。誰が私をそこに入れた。なぜ私はそこでそうして生きている。私は誰に縛られているのだろうか。縛られていると思い込んでいるだけじゃないのか。人が私に何をしてくれているのだろうか。生きていれば良いことも悪いこともあるだろう。それは通常の範囲内だろうか。

 おかしいとき、どうしたらおかしいことがわかるのだろうか。

 何かされているとき、どうしたら何かされていることがわかるのだろうか。

何が嫌なのか、誰が嫌なのか、私は認識できるのだろうか。誰かに助けてもらっているとき、助けてくれる人の間違いを、私は指摘できるのだろうか。

誰もが言い分をもち、絶対に間違っていることなんてないのに、自分の観点から間違っていると、人を責めることができるのだろうか。

そもそもその人は、本物のその人だろうか。誰かに成り代わっていることはないだろうか。その事情がある世界を、私は想像することができるのだろうか。

 なぜ私は生きているのだろうか。


 家族、それは難しい存在である。結婚と同じ、紙切れ一枚で完成される関係。現代日本ではそれは同じ家に住むことが多いから、一つの箱の中に複数人が収まっていることになる。家族でなく、会社を作ろうと思っても可能なのである。

だが一つの箱の中にいるだけで、家族とは呼べない。残業の多い会社で同じフロアにいる人は家族だろうか。ある程度プライベートを共にした相手は家族だろうか。

ぐるぐる思考は回って、抜け出すことが最善なのに、どうしたら抜け出すことができるのか、わからない。それが家族という、生まれながらにもった一つの病なのである。

誰のために私はこの家族に属しているのだろうか。家族が私のことをどう考えているのか。その家族はなぜ家族なのだろうか。私がいないこの家族は、どうだろうか。

不思議な共同体である。まだ社員の連携がとれていない会社みたいで、いったいなぜそれが今の形で存在しているか、理解できない。

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誰が為の家族 ピチャ @yuhanagiya

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