九章
すべてを奪われて(1)
とうとうアネモネの退院の日がきた。
「もう大丈夫。体内に病原菌の痕跡はまったくないし、他の点も問題ない。その辺の人間よりずっと健康なぐらいだよ」
との医師のお墨付きだった。
それを聞いたトゥナの喜ぶまいことか。抱きつき、むしゃぶりつき、頬と言わず額と言わずキスの雨を降らせる。男がやっていたらまちがいなく刑務所行きというレベルのはしゃぎ振り。あまりの激しさにアネモネが窒息しそうになってしまい、まわりの看護師たちがあわててトゥナを引きはめす羽目になったほどだった。
「さあ、アネモネ! これであなたはもう自由よ。何だってやりたいことができる、なりたい自分になれるわ」
トゥナは両手を大きく広げてそう言ってから、さらに付け加えた。
「心配しなくていいのよ。世界中の人たちがあなたの味方なんだから。何かあったらきっと助けてもらえる。あなたの夢だった〝美しいヒト〟のための国だってきっと作れる。……あたしと一緒に」
「……うん」
と、アネモネはうなずいた。答えは短く、表情もほとんど動かない。それでも、いや、だからこそ、胸の奥に秘めた思いの深さが感じられた。
そして、ふたりは帰ってきた。トゥナの家、これからはトゥナとアネモネの家、そして、世界中の〝美しいヒト〟の国となるはずの農場へ。
トゥナは病院からここにくるまでの間、しっかりとアネモネの手を握って離さなかった。まるで、この手を放したら最後、アネモネはたちまち死の神に連れ去られてしまい、もう二度と会えなくなる。そう思っているかのように。実際、そう的外れな表現でもない。トゥナは例え死に神の鎌が振りおろされようとも切り離せないぐらいしっかりと、アネモネの小さな手を握りしめていた。
「あ~、久しぶりの畑だわあ。懐かしいわあ」
トゥナは畑を見るなりもう何十年も帰っていない故郷に戻ったかのように嘆息した。その言葉にアネモネは頭の上に『?』マークを浮かべた。
「わたしが入院している間、家にいたんでしょう?」
「うん、いることはいたんだけどね。でも、ずっとラボに籠もりっぱなしだったから畑は全然、見ていなかったのよ」
その言葉に――。
トゥナの手に握られたアネモネの小さな手が、ギュッと力を込めて握り返してきた。
「……ありがとう、トゥナ。また、生きてここにこられるなんて思ってなかった」
「『こられる』じゃないでしょ。『帰れる』よ。ここはあなたの家なんだから」
「……うん」
アネモネは照れたようにうなずいた。うっすらと赤く染まった顔がたまらなく可愛らしい。
「ただいま」
――ああ、かわいい! 食べちゃいたい!
トゥナは反射的にそう思った。いまこの場で押し倒し、キスの雨を降らせたい!
ほとんど発作とも言うべき強い衝動に駆られていた。
――いまだにこんな衝動に襲われるのは困ったものだけど……。
正直、この調子では襲ってしまわないという自信はない。
――でもまあ、『美人は三日見ると飽きる』って言うし、そのうちに慣れるでしょう。
トゥナはそう思って気にしないことにした。
――もちろん、アネモネを見飽きるなんてあるわけないけどね。
畑を見て回ると数日間、放りっぱなしにしていたとは思えない状況だった。作物の世話はきちんとされていてどれも元気だったし、動物たちも健康で痩せている様子もなかった。急なことだったので頼む余裕もなかったけれど、キオがきちんと農場の世話をしていてくれたのだ。
――キオか。
その名を思い出すと、さすがに苦い思いがする。
『やっぱり、あなたは人間じゃないわ』
あのとき、ついそう言ってしまった。さすがに言いすぎだったと思う。でも、やっぱり、あのときのキオの態度は許せない。相手がアネモネだからではない。小さな子供が悪人の手にさらわれ、売り飛ばされようとしている。それを放っておくような存在を『人間』と認めることはトゥナにはできなかった。
「どうしたの、トゥナ?」
突然、アネモネが尋ねてきた。不思議そうな顔でトゥナを見上げている。
「えっ、何が?」
「何だか急に怖い顔になってるけど……」
「え、そ、そう……?」
内心の思いがつい表情にまで出てしまったらしい。おかげでアネモネを怖がらせてしまった。いけない、いけない。これじゃ『お姉ちゃん』失格だわ。トゥナはそう思い、両手で頬をピシャピシャ叩いた。健康そのものの白い歯を見せてニッと笑う。
「だいじょうぶ。何でもないから気にしないで」
アネモネは相変わらず不思議そうに見つめていたが、口に出しては何も言わなかった。
――とりあえず、キオとはきちんと話をしないとダメかな。
複雑な思いを笑顔の下に押し隠し、そう思った。そう考えると何とも憂鬱な気分だった。
ところで、農場の周りには何人かの騎士が巡回していた。一度、襲われたと言うことで警備を強化していたのだ。
警備のリーダーを務めているのは一馬だった。本人が熱烈に希望してチームを組んだにちがいない。何しろ、一馬ときたら、トゥナを見るなり土下座せんばかりの勢いで謝罪したものだった。
「すまん!」
「ちょ、ちょっと、一馬。やめてよ、あなたが頭をさげることないでしょ」
きょうだい同然に育った相手にこんな態度をとられて、トゥナはあわてた。一馬の方はそれでは気がすまないらしい。地面に額をこすりつけんばかりの勢いで謝りつづけた。
「いや、今回のことはおれの責任だ。市民を守る騎士でありながら危険にさらしてしまった。まして、お前を。危険なことはわかっていたのに。あんなことはおれが事前に防がなければならないことだった」
「仕方ないわよ。あいつらのところに人質がいる恐れがあったから、あんまりおおっぴらに捜査もできなかったんでしょ?」
「それはそうだけど……」
「だったら、気にしないでいいわよ。それに、結局はちゃんと助けてくれたんだし……」
そこまで言ってから、トゥナの表情がふいに曇った。胸の前でギュッと手を握りしめた。かの人にしてはめずらしく歯切れの悪い尋ね方をした。
「それより……他の騎士の人たちはだいじょうぶだったの?」
言われて一馬も唇を噛みしめた。悔しさと恐怖と安堵。いくつもの表情がそこに混じり合って浮いていた。敏感な者なら気がついただろう。そこにはわずかながらも確かに感嘆の表情もあったことを。
一馬は答えた。
「……ああ、何とかな。全員、首をはね飛ばされるわ、体を真っ二つにされているわで大変だったけど、脳は生きていたからな。すぐに凍結保存してスペアの体を作って移植したから元通りだ。でも、いまの時代でなかったら完全に死んでいた」
「そう……」
トゥナの声に安堵がもれた。とは言え、自分のために多くの騎士をそんな目に遭わせてしまったことを思うとやはり、気がとがめる。
一馬は苦々しい口調でつづけた。
「あいつ……むさ犬と言ったか? あんな化け物だとは思わなかった。まさか、最新の防護ジャケットに身を包んだ騎士一〇人以上を相手に一蹴してのけるなんてな。あいつ、ただの〝強いヒト〟じゃないぞ。気が狂うほどの鍛練を積んだ正真正銘の武芸者だ」
正真正銘の武芸者だ。
そう言うときの一馬の表情と声には隠しきれない感嘆と賞賛の色があった。一馬自身、騎士として格闘技を学んでいる身。武芸者として鍛練を積むことがどれほど厳しく、苦しいものかは骨身に染みてわかっている。それだけに、生まれもった素質に頼らず、あそこまで自分の技を磨いたむさ犬に対し、感嘆と賞賛の念を禁じ得なかった。それは同じ自分を鍛えることを知るものとして『憧れ』と言ってもいいほどの感情だった。
「だか、安心してくれ。もう二度とお前をあんな危険な目には遭わせはしない。もちろん、アネモネにもな」
一馬はいったん、言葉を切ってからハッキリと言い切った。
「お前たちはおれが守る」
きょうだい同然に育った相手でなければその一言で恋に落ちていたにちがいない。それほどに、高潔な思いに貫かれた宣言だった。
「うん。お願いね、一馬」
トゥナは信頼しきった笑顔で返した。
「ああ、任せてくれ。アネモネからも色々聞けたしな。やつらのアジトを見つけるのも時間の問題さ」
一馬は自信ありげに力瘤を作って見せた。
以前はトゥナを巻き込みたくない一心で何も話さなかったアネモネだが、事ここにいたってトゥナと暮らすことに覚悟を決めたのだろう。騎士団の尋問に答えていた。
と言っても、人間の男が〝美しいヒト〟と対面するのは危険すぎる。いつ〝美しいヒト〟の魔性に囚われ、襲ってしまうかわからない。誠実な男であれば、〝美しいヒト〟と対面しようなどとは決してしない。
と言って、女性騎士たちも〝美しいヒト〟を尋問などしたがらなかった。その気持ちはトゥナにも何となくわかる。〝美しいヒト〟を前にすると天然ものである自分がどんなに醜く、どんなに不完全な存在か思い知らされる。一目見るごとに女としてのプライドを傷つけられ、ズタズタにされるわけで、とてもではないが職務に徹した尋問などできはしない。ついつい感情が交じって残忍な態度に出てしまう。女性騎士たちはいずれも誠実で真面目な人柄だったので、そんな態度を取りたがる者はいなかった。
――ん? それじゃ、何であたしはアネモネに対して意地悪ひとつしないわけ?
トゥナはふと、そう思ったが、答えはすぐにわかった。
――ああ、そうか。あたしはアネモネに一目で恋しちゃったものね。意地悪なんてするわけないか。
そう納得し、上機嫌に鼻歌など歌うトゥナだった。
とにかく、アネモネには聞かなくてはならないことがたくさんあった。しかし、誰ひとりとして対面したがらない。と言うわけで、別室に控えた騎士相手に音声だけでやりとりすることになった。アネモネはきわめて協力的だったので、それで問題はなかった。
「アジトの場所はわからない」
最初にまずその点を問われ、アネモネはそう答えた。
「わたしはアジトで生まれて、ずっとそこに閉じ込められていたから。そこがどこかなんて教えられたこともないし」
『商品』として扱われていた身となれば当然のことだ。その点でアネモネを責めるわけには行かなかった。
「アジトを逃げ出した後も、とにかく森のなかをさ迷っただけだから、どこをどう通ったのかなんて覚えてないし。トゥナに拾われたときは完全に気を失っていたから倒れていた場所から農場までの道もわからないわ」
アネモネが倒れていた場所に関してはキオのメモリに記録されていたけれど、そこまでどこをどうやってきたのかわからなければどうしようもない。
「でも、アジトは大きな立派な建物で、畑も付いていた。だから、廃棄された古い農場だと思う」
それさえわかればもう判明したも同然だった。農場を作る際には当然、建設者の身分と氏名、農場の位置に規模、目的などを申告しなくてはならないので、建設された場所はすべて記録に残っている。廃棄された農場はこの辺りの森のなかにいくつかあるが、場所はすべてわかっている。あとはしらみつぶしに探せばいいだけだ。
大した手間ではないはずだった。アネモネの体力と森をさ迷っていたと推測される日数。それらを考えればトゥナの農場からさほど離れた場所にあるはずがなかった。
もちろん、廃棄された農場跡を利用したのではなく、悪党どもが自分でこっそり建設したという可能性も理屈の上ではありうる。その場合、場所が記録されているはずはない。しかし、それは現実的ではない。二~三人用のキャンプだと言うならともかく、何十人という人間が暮らせるほどの規模の建物を森のなかにこっそり建てるなど無理な話だ。大がかりな機械を導入して森を切り開かなくてはならないし、建物を作るための設備も運び込まなくてはならない。そんなことを誰にも知られずひっそりととできるものではない。何しろ、自家用飛行船が世界中至るところを飛行している時代なのだ。途中で必ず見つかってしまう。
それを思えばやはり、廃棄された農場跡を利用していると思うのが合理的だ。だったら、見つけるのは造作もない。
「アジトには他にも〝美しいヒト〟がいるのか? やつらに人質にされそうな……」
「グリムの屋敷にはわたしとお母さんともうひとり、合わせて三人の〝美しいヒト〟がいた。わたしとお母さんが逃げ出したのはそのもうひとり、ニジュウゴのお披露目の日。かの人がお披露目の席上で暴れて隙を作ってくれたんだけど、その後、どうなったのかはわからない。もしかしたら、グリムに捕まったままかも……」
「すると、その……かの人が人質にされる可能性はあるわけだ」
「それから……」
それまで淡々と、表情ひとつ変えずに答えていたアネモネの表情が急に曇った。たちまちのうちに不安と心細さに包まれた。
「お母さんが……わたしを逃がすために囮になって……多分、捕まったと思う」
アネモネがそう言う間、トゥナは隣に座ってギュッとアネモネの手を握りしめていた。もし、捕まっていないとしたらその場で殺されているはずだった。
「では、君のお母さんも人質にされている可能性があるわけだ」
そう答えたのはアネモネに希望を抱かせるための優しさだったろうか。
「グリムは他人を苦しめることに喜びを見出す人間。わたしが逆らうたび、お母さんをひどい目に遭わせて、わたしにそれを見せつけた。もし、同じことをしようとしているなら、いまも生きて囚われているかも……」
「よし、わかった。連中のアジトは必ず見つけ出す。君のお母さんも助け出す。我々を信頼して任せてくれ」
その言葉を最後にアネモネへの事情聴取は終わった。
「アジトを見つけるのは時間の問題さ」
一馬はトゥナにそう言った。
「今度はこの間のようなわけには行かない。むさ犬対策に戦闘用重甲冑に身を包んだ重装騎士団が駆り出された。あの甲冑相手ならいくら化け物でも簡単に斬れやしないさ。それに、フライングベースと強襲用弾丸バイクも出動した。バイク全体がひとつの攻城槌みたいな作りで、どんな頑丈な建物でも正面から突っ込んでぶち壊し、ばかでかいタイヤで踏みつぶすって言う豪快な代物だ。やつらがどんな装備をしていても敵じゃないさ」
「ちょっと! そんな派手な真似をしてアネモネのお母さんが捕まってたらどうする気なのよ⁉」
どさくさ紛れに殺されちゃうかも知れないじゃない!
そう叫ぶトゥナに向かい、一馬は闊達に笑って見せた。こうして見るとなかなかのいい男だ。騎士団のなかでも町娘たちの人気が高いのもうなずける。
「心配するなって。いくら何でもいきなり突入するような無茶はしないよ。あくまでも、圧倒的な戦力差を見せつけて降伏させるのが目的だ。アジトを見つけたら取り囲んで投降を呼びかけるだけさ」
「投降って……あんな悪党が自分から降伏したりするものなの?」
「するさ。いや、させる」
そう言ったときの一馬の表情は、トゥナでさえ思わずゾッとするほどの凄みがあった。いつも優しくて快活だった一馬のこんな表情、トゥナは見たことがなかった。
――やっぱり、一馬はもう騎士なんだ。もう『何でも知ってる幼なじみ』じゃないんだ。
トゥナはそう悟った。
一馬は真剣な表情のままつづけた。
「投降すれば生命は保証される。だが、突入となればそうはいかない。問答無用で殺すだけだ。利に聡い商人なら選ぶ道は決まっている。それに、ボスが拒んだところで手下連中はちがう。
『大目に見てもらいたかったらボスを差し出せ!』
こいつがよく効くんだ。グリムとやらが拒めば、手下連中を追い詰めて寝首をかかせるだけさ」
ともあれ、連中のことやアネモネの母親のことは騎士団に任せるしかない。家と農場は一馬率いるチームが警備してくれている。もう、何の心配もない。トゥナとしてはアネモネとの楽しい日々を作りあげていくことが最優先だった。
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