二つのはじまり(3)
突然、屋敷のなかで騒ぎがもちあがった。悲鳴が響き、物の壊れる音がした。すでに夜。屋敷の周りを包む森が暗闇に閉ざされている時間のことだった。
何事かとアネモネは部屋のドアに耳を押しつけた。よく聞き取れないがかなりの怒号が飛び交っている。あれはグリムの声だ。何を言っているのかはわからないけど、それだけはわかった。
一体、何が起きたのだろう。相当に怒っている声だ。そんなことがあるはずはなかった。今夜はアネモネ以外で唯一残っていた『商品』であるニジュウゴのお披露目が行われている。世界中から目の玉の飛び出るぐらいの金を払っても美少女ペットがほしいという金持ちたちが集まり、オークションが開かれている。その席でグリムがあんな風に怒鳴り散らすはずがなかった。自分のものにはいくらでも残酷になるが、客相手ならいくらでも媚びへつらう。客が相手なら、例え頭から水をかけられても揉み手をして愛想笑いを浮かべる男だ。その男が客を前にしたオークションの席上で怒りをあらわにするはずがなかった。では、何が起きたのか。
――こっそり、のぞきに行ってみようか?
そう思ったそのときだ。すごい勢いでドアが開けられた。おかげでドアにピッタリくっついて様子をうかがっていたアネモネは廊下に倒れてしまった。そこにいたのは母だった。
サンは血相を変えて娘に叫んだ。
「逃げるわよ、アネモネ!」
「えっ?」
アネモネは意味がわからず聞き返した。逃げる? 逃げるって言ったの? そんなことできるわけがないのに。できたとしても意味ないのに。
屋敷はいつだってグリムの手下たちに警備されている。いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた暴力の専門家たちだ。普通の人間以上にひ弱で華奢な〝美しいヒト〟が、たったふたりでそんな連中を出し抜いて逃げられるはずがなかった。
万一、逃げられたところで自分たちには病原菌が打ち込まれている。一週間、緩和剤を打たずにいれば体内の病原菌が休眠状態から目覚め、死に至ることになる。そうである以上、逃げても無駄だ……。
「ニジュウゴが客のひとりにかみついたの! おかげで会場は大騒ぎよ。みんな、そっちに気を取られている。逃げるのはいましかないわ!」
「そんなことしたらニジュウゴが……」
「ニジュウゴはあなたを逃がすために犠牲になってくれたのよ! その思いを無駄にしちゃダメ!」
言いながらサンは娘の手を引っ張り、部屋を出た。窓から逃げる、と言うわけにはいかない。脱走防止用に窓は開かない作りになっている。ガラスは強化ガラス。銃で撃っても割れたりしない。
グリムはそのことを知らしめるためによくアネモネに銃で撃たせて見せたものだ。強化ガラスに弾かれた銃弾が床にバラバラと落ちるのを見ながらグリムは笑ったものだ。
『わかったか! お前たちはこの屋敷からは逃げられん。一生、おれ様の思いのままだ!』
逃げられるとすれば正面玄関しかない。普段ならば正面玄関こそ逃げることはできない。セレブ向けの別荘にふさわしい豪奢な作りで、分厚い木材で作られたドアは大の男がハンマーで殴りかかっても容易に壊れはしない。まして、非力な〝美しいヒト〟では傷も付けられない。錠はグリム自慢の電子ロック。鍵もなしに開けようと思えば専門家が特別な道具を使って一時間以上はゆうにかかると言う代物だ。これもまた、グリム自身が事ある毎に懇切丁寧に解説してくれた。いかにこの屋敷が堅牢か、いかに逃げ出すことが不可能か、いかに自分の思い通りになるしかないか。それらを滔々と述べるグリムの態度は本当に楽しそうだった……。
しかし、今夜はオークション。客たちの出入りのためにロックはされていないはずだった。それだけが一縷の望みだった。
サンは娘の手を引いて玄関に向けて走った。会場からはまだ騒ぎが聞こえてくる。ニジュウゴが必死にがんばっているのだ。アネモネはニジュウゴが気になって仕方がなかった。助けに行きたい。できることなら一緒に逃げたい。でも、そんなことは口にする余裕もなかった。母に無理やり引っ張られ、転ばないように付いていくのが精一杯だった。
玄関は……。
開いた!
アネモネの人生を閉ざす壁に穴が開き、未来を示す光が見えたかのように外の風景が目に飛び込んできた。アネモネにとって、窓から見下ろす以外で外の光景を見るのははじめだった。
――これが外の空気……。
夜の森の空気が体を包む。涙が出た。一生、ふれることはないと思っていた外の世界。その外の世界の空気に自分はいま包まれている。それだけでもう満足だった。
サンは娘の手を引いて一目散に森のなかへと駆け込んだ。庭には空陸両用のフライングカーが何台も置かれている。グリムたちの使うフライングカーもあれば、今宵の賓客たちが乗ってきたものもある。それを使うことができればずっと楽に逃げられる。
あいにく、そうはいかない。フライングカーのドアは自動ロック式だ。車内に誰もいなくなれば自動的にロックされる。開けるには脳波認証が必要だ。指紋認証などと言う時代遅れなシステムは使われていない。バイオ3Dプリンタを使ってスペアの肉体を簡単に作れるこの時代、指紋などあてにはならない。本人確認として有益なのはただひとつ、これだけは取り替えるわけにはいかない脳の波長だけだ。
つまり、フライングカーのロックを解除できるのはあらかじめ脳波を登録してある本人だけだと言うことだ。もちろん、外部から車載コンピュータにハッキングして操作すれば、開けられないこともない。しかし、サンにもアネモネにもそんな技術があるはずもない。走って逃げるしかなかった。
逃げる?
どこへ?
わからない。
何しろ、アネモネはもちろん、サンだって屋敷の外に出たことはなかった。屋敷のなかだけで過ごすことを強制された道具。この屋敷が地球上のどの場所にあるのかさえ知らない。まして、どの方向にどれだけ行けば人の住む町にたどり着けるのかなど見当も付かない。考えられるのは犯罪集団のアジトである以上、人間の町からは離れた場所にあると言うことぐらい。そして、一週間以内にたどり着いて治療してもらえなければ、ふたりとも死ぬことになると言うこと。
一か八かの賭けだった。それも、勝つ確率は限りなくゼロに近い無謀な賭け。それでも、やらなければならなかった。やらなければ大切な娘が自分の味合わされたのと同じ、あるいはそれ以上に辛い思いをすることになる。
――神さま!
サンは生まれてはじめて神に祈った。
――わたしは機械で作られた道具に過ぎない。でも、アネモネはちがう。アネモネはわたしがお腹を痛めて生んだ人間です! どうか、アネモネだけは助けてください!
その祈りを捧げながら娘の手を引いて必死に走る。すぐにあえいだ。屋敷のなかだけで使われていた道具。生まれてこの方、走ったことなどないし、屋敷のなかの固い廊下しか歩いたことはない。柔らかい腐葉土に足を取られ、何度も転んだ。
転ぶたびに起きあがり、また走った。休んでいる暇などなかった。ニジュウゴがいくら暴れたところで華奢でか弱い少女。取り押さえられるのは時間の問題。そうなれば、ふたりが逃げ出したこともバレてしまう。すぐに追手がかけられる。
まともに競争して逃げられるわけがなかった。追手は自分たちよりずっとたくましくて力のある犯罪のプロたち。しかも、フライングカーもある。そして、あの男、死を見据えた視線をもつあの男。
――むさ犬。あの男に追われたら逃げるなんてできない。
サンはそのことを知っていた。すべては騒ぎが収まるまでのわずかな時間に距離を稼ぎ、行方をくらませることができるかどうかにかかっていた。
その必死の思いがサンに限界以上の力を出させていた。屋敷のなかを歩いたことしかないとは信じられない速度で駆けていた。足はすでに靴擦れを起こして血にまみれていたが、そんなことには気付きもしなかった。
「お母さん、苦しい……」
アネモネがあえいだ。息を切らしている。顔色が青い。いまにも泣きそうだ。
体力の限界だった。いくら毎日まいにち稽古を積まされているとは言え、生まれたときから厳格な栄養制限を受け、腹いっぱい食べたことなどない身。体力は貧弱であり、持久力には乏しい。長い時間、森を走るなど無理な相談だった。それでもサンは娘の手を引っ張り、走らせた。
「ダメよ! いまのうちに逃げないと一生、男たちのオモチャよ……!」
それがどんな暮らしか、サンは骨身に染みて知っていた。彼女自身、一度は売られ、性奴隷として生きることを強いられたのだから。
「だいじょうぶよ、アネモネ」
美しい顔を泥で汚し、体は擦り傷だらけ。息は絶え絶えでゼイゼイとあえいでいる。それでも、母は娘の手を力強く握りしめたまま、語りかけた。
「わたしたちは生き延びられる。そして、一緒に農場を開きましょう」
「農場?」
「ええ、そうよ。自分たちの農場をもてば自給自足の生活ができる。自分たちの望む暮らしを作りあげ、自分たちの国を手作りすることができるのよ。世界中の〝美しいヒト〟を集めて、わたしたちの国を作りましょう。もう誰も、〝美しいヒト〟に生まれたという理由だけで辛い思いをしたり、奴隷として扱われたりしない、そんな国を作るの。わたしたち母娘でね。そして、わたしたちはずっと幸せに暮らすの。『めでたし、めでたし』ってね」
「……うん」
母の言葉にアネモネはうなずいた。
「わたし、がんばって働く。きっと、農場の仕事ができるようになる。だから、お母さんもきっと生き延びて……」
「もちろんよ」
サンは泥にまみれた顔でそう微笑んだ。優しく、はかなげで、それでもその笑みには確かに『産む性』としての力強さがあった。
――この笑顔があれば、わたしはなんだってできる。
アネモネはごく自然にそう思えた。だが――。
神はこの母娘の願いを聞く気はないようだった。
後方からローターの音が聞こえた。フライングカーだ。グリムの配下たちがフライングカーに乗って追いかけてきたにちがいない。見渡す限り暗い森。どちらを見ても、町の明かりはおろか、ランプの明かりひとつない。助けを求められるものはいない。隠れられそうな洞窟や穴のひとつも見当たらない。音はどんどん近づいてくる。
――逃げられない。
サンはそう悟った。
もう残された方法はひとつしかなかった。サンは立ち止まった。膝を曲げ、娘と視線を合わせた。両肩にそっと手を置いた。じっと顔を見つめた。
このときはじめて、サンは娘がどんなに苦しそうな顔をしているか、どんなに青い顔をしているか、どんなに息を切らしているかに気がついた。ありったけの力を込めて抱きしめた。そして、言った。
「いい、アネモネ? わたしが囮になって連中を引きつける。だから、あなたはその間に逃げて」
「お母さん⁉」
「何とかして人間の町に着くの。そうすればきっと助けてくれる人はいるわ。さあ、これをもって……」
「これは……」
「緩和剤よ。あなたの分だけは何とか持ち出せたわ。これをもって逃げなさい」
「いや! お母さんも一緒じゃなきゃいや! 一緒に農場を開こうって言ったじゃない! わたしたちの国を作ろうって言ったじゃない! お母さんもきっと生き延びるって約束してくれたじゃない!」
娘の必死の叫びには母はさびしく微笑んだ。
「……ごめんなさい、アネモネ。約束を破ることになってしまったわね。でも、仕方がないの。一緒にいたらあなたまで捕まってしまうもの」
「それでもいい! お母さんと別れるぐらいなら一緒に捕まる!」
「アネモネ……。どうせ、連中に捕まったら、あなたは売られていく。引き離されて一生、会えなくされるのよ」
「お母さん……」
アネモネは母の顔をじっと見つめた。
「いいわね、アネモネ。何としても逃げて。あなただけはわたしや、わたしの姉妹たちが味合わされた辛さを知らずに生きて」
ローターの音が止まった。着陸したようだ。それにかわって男たちの声が聞こえた。ふたりの足音を見つけたにちがいない。この近くにいることを確信して地上からの捜索に切り替えたのだ。
このままではすぐに捕まってしまう。もう一刻の猶予もなかった。サンはしがみつく娘の体を強引に引きはがした。
「さあ、行って! 何としても逃げるのよ!」
サンは娘に向かって叫ぶと、わざと大きな足音を立てて走り出した。その背に向かってアネモネは叫んだ。
「カーネーションお母さん!」
サン、いや、カーネーションは振り返った。この上ない慈愛に満ちた笑みを浮かべた。その一言だけですべて報われた。その笑みがハッキリとそう告げていた。そして、カーネーションは森の奥に消えた。
「いたぞ、逃がすな!」
「捕まえろ、ただし、傷つけるなよ! 大事な商品なんだからな!」
男たちの声が聞こえる。アネモネは反対方向を向いた。走り出した。もう振り返らなかった。唇を噛みしめて涙をこらえた。
――泣くもんか……!
そう誓った。
――わたしが泣くのはお母さんの願いを叶えたときなんだ……!
ただひとり、商品として作られた少女は森のなかを駆けていった。
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