鶺鴒がいた部屋
福基紺
世界は広がる
おばあちゃんが寝ているかもしれないから、音を立てないようにそうっとドアを開けた。大量の本があるおばあちゃんの部屋の中は背の高い本棚が壁のようになっているから見通しが利かないが、入り口から見える部屋の隅には、背もたれの無い木製椅子がチョンと置いてある。私がまだ小学生だった頃は、おばあちゃんはいつもそこに座っていた。
私は本棚の裏に回り、そこにおばあちゃんの姿を認めた。部屋の隅に置いてあるのとは違って、背もたれがあるフカフカのソファに座って、ぼうっと窓を眺めていた。私はおばあちゃんの横に静かにしゃがみ、肘掛けに置かれた右腕に触れた。
「おばあちゃん、ごはん食べよう」
部屋を満たす静寂を破る私の声を責めるように、部屋には再び静寂が訪れる。おばあちゃんは緩慢な動きで私を見下ろして、少し不思議そうな顔をする。
「ヘルパーさん、今日はお昼からいるのね」
穏やかな声色で言ったおばあちゃんに、私は我慢できずに顔を歪めた。
「ヘルパーじゃ、ないよ」
おばあちゃんが私を忘れてから半年が経つ。
豆や鮭の身をポロポロとこぼすおばあちゃんをその横で補助する母は、脈絡の無いおばあちゃんの言葉を適当に流している。おばあちゃんは認知症がかなり進行している状態で、実の娘である母さんのことは認識しているみたいだけど、孫である私はさっきみたいにヘルパーさんだと思われることが多くて、エアコンの掃除をした時は掃除の業者だと思われた。思い出話をしてみても、「素敵なお話ね」と返された。
最初は私のことを思い出させようとしていた母さんは、もう諦めてしまったようだった。疲れたんだろう。
おばあちゃんの口に慎重にご飯を運びながら、母さんは「アキ」と私を呼んだ。
「なに。」
「アキ、熊野さんのとこに行ってくれる?4時くらいに」
「なんで。」
「先週のお裾分けのお礼。アキも食べたでしょ、あの甘いりんご」
「…ああ、あれ。椎茸でいい?」
「キッチンにある袋に入れて持ってけばいいから。椎茸は玄関の段ボールね」
話している間、母さんは一度も私の方を見なかった。おばあちゃんの補助をしているから仕方ないけど、一瞥くらいくれてもよかったと思う。
母さんは、社交的でない私が、ご近所さんにお礼をしに行くのを好きではないと分かっているだろうに、私に頼むのだ。来週には大学の寮から帰省する、私よりよっぽど明るくてお喋り好きの兄にでも頼めばいいのに。ため息を飲み込んで、早々に食事を終えた。
玄関に鎮座する段ボールには、母が言った通り干し椎茸が入っていた。
毎月中旬、父さんの実家から椎茸が届く。きのこといえば秋、というイメージに反して、生の椎茸が届くのは春だけで、あとは干し椎茸。春に収穫できる菌から育てた椎茸らしく、本当は秋より春に収穫できる椎茸の方が美味しいらしい。椎茸ひとつとっても、農家をやっている父方のおじいちゃんの話には私の知らないことがたくさんあった。
父さんの実家は山の中にあって、スーパーに月2回くらいしか行かない生活は不便そうだとばかり思っていたけれど、最近は、利便性ばかり追求したコンクリート造りの生活に嫌気が差していた。見渡す景色の中に山も川もあるのに、自然と隔絶されている気がしてならない。それはまるで、窮屈な世界に生きているようだった。
ビニール袋に適当に椎茸を詰め、4時までまだ時間があるのを確認してそれを玄関に置いた。
私には自室があるけど、私はおばあちゃんと少しでも一緒にいたいから、時間があればおばあちゃんの部屋に行く。距離をとってしまえば、思い出してくれる可能性がゼロになる気がするから。
本棚の裏に回ると、私が椎茸を詰めている間に食事を終えていたのか、おばあちゃんはソファに座っていた。ただ、お昼の前とは違って植物図鑑らしき本を眺めている。おばあちゃんは読書好きな人だけど、認知症が進行するにつれ活字本より図鑑や写真集を眺めるようになった。そんなおばあちゃんのそばで、私は黙っておばあちゃんの本を読むけど、今日は、いつもは見ない部屋の奥の本棚で本を探すことにした。部屋にある本は数える気も起きないほど多いけど、おばあちゃんは全部読んだらしい。夏目漱石や太宰治といった文豪の本もあれば、数年前に芥川賞を獲っていた新鋭の作家の本もある。他にも、難しいタイトルの論文、図鑑、写真集、伝記などがある。気になった本をパラパラとめくり、いつか読もうと思いつつ部屋を進んでいくと、一番奥の本棚に行き当たった。おばあちゃんの部屋は思っていたより広かった。写真集が並ぶその棚を眺めていると、上に何か置いてあるのが見えた。背伸びして、というか少しジャンプしてなんとか手にとったそれは、カメラだった。赤色のレトロな雰囲気で、写真が出てくるであろう部分がある。インスタントカメラか。開けてみると、中には未使用のフィルムが入っていた。何を撮っていたのか尋ねようと思っておばあちゃんのソファまで戻ると、おばあちゃんは図鑑を膝に置いて眠っていた。気持ちいい昼寝の邪魔をするのは申し訳ないが、勝手に持ち出すのは如何なものか。持ち出したら怒るかな。いや、おばあちゃんに怒られたことはないから大丈夫かもしれない。
どうしようかな、と思って視線を上げて目に入った時計は、4時前を示していた。
しばらく悩んで、私は無許可でカメラを首から提げて家を出た。悪いことをしているような__実際に悪いことだけど__気になりながらも、おばあちゃんが持っていたものを自分も持ちたいと思ったのだ。そこまでおばあちゃん子なつもりはないけど、大好きなのは違いないから。
先々週くらいまでは長袖シャツ一枚で十分な暖かさだったけど、今日は羽織るものが無いと少し寒い。歩いて5分ほどのところにある熊野さんの家は「ハイツ熊野」というアパートの横にある。最近建て替えられたばかりのハイツ熊野は満室で、新婚と思われる若い男女が出入りしているのをよく見る。建て替えの前は敷地内に小さな公園があって、住人でもないのにおばあちゃんと遊びに行ったことがある。その時、おばあちゃんは熊野さんと楽しそうに喋っていたから、仲が良かったんだろう。あれ以来、ハイツ熊野を訪れたことはないから、私が一人で熊野さんを訪ねるのはこれが初めてだ。
インターホンを押すと、少し間があってから女性の声がした。
「はーい?」
「こんにちは、菅原です。先週いただいたリンゴのお礼をしにきました」
「ああ、菅原さん!今出ますね」
ピ、という機械音がして、すぐに玄関ドアが開けられた。私が頭を下げると、母と同い年くらいに見える女性は驚いたように「あら」と言った。
「もしかして、アキちゃん?」
「あ、はい」
「大きくなったのねぇ…。何歳になったの?」
「17です」
「じゃあ、10年ぶりくらいになるのかしらね…。キレイになったのねえ、立ち話もなんだから、上がってって」
家の中まで招かれるとは思っていなかったので少し戸惑ったが、上手く断る方法がわからないので上がらせてもらうことにした。
席を勧められて、忘れてはいけないと思って干し椎茸を渡せば、クッキーと紅茶が出された。こんなにもてなされては、干し椎茸がお礼で良かったのか不安になってしまう。少し居心地の悪さを感じて顔が強張る私に対して、熊野さんはにこやかだった。私の向かいの席に座ると、紅茶を一口飲んだ。
「椎茸、ありがとうね。前にもいただいたことあるんだけど、美味しかったから嬉しいわ。」
「それはよかったです」
言ってから、素っ気ない返事になってしまったと思って熊野さんの表情を窺うと、熊野さんは変わらずにこやかだった。安堵して小さく息をつくと、熊野さんは心配するような声色で言った。
「アキちゃん、元気?」
「エ、えーっと…。」
至って健康だとは思う。毎日学校に行って、ご飯を食べて勉強しているし。ただ、元気かと言われると、ちょっと悩む。
でも、ただのご近所さんに「心が元気じゃないです」なんて言えない。言い淀まずに元気だと言い切ってしまえばよかった。言葉を濁した私に、熊野さんは少し悲しそうな顔をした。
「おばあちゃん、痴呆症が進んじゃったのね」
そうなんです、とか、ご存知だったんですね、の一言も言えずに、私は俯くことしかできなかった。
「おばあちゃんね、アキちゃんが小さかった頃、よくうちの前を通ったのよ。うちのアパート、建て替える前は敷地の中に公園があったでしょ?そこに来る鳥が可愛いんだって言ってね。」
「鳥…ですか」
可愛い鳥ってなんだろう。雀かな。おばあちゃんの部屋には野鳥図鑑が置いてあったような気がするし、もしかすると私が知らないような鳥かもしれない。
そういえば、私、鳥なんて全然知らない。街中にいる鳥で、見てすぐ分かるのは雀、鳩、烏…。日本にはいろんなの鳥がいるはずなのに、どうしてこんなに少ししか知らないんだろう。
出してもらった紅茶がぬるくなっているのに気づいて、慌てて口に含んだ。少しだけ甘かった。紅茶はノンシュガーが好みだけど、甘い香りのこの紅茶は少しの甘味がある方が美味しいかもしれない。いただきます、と断ってからクッキーも食べた。茶色と白色の市松模様のクッキーは口の中でホロホロと崩れた。美味しいですと言えば、熊野さんは嬉しそうに微笑んだ。
その後は私の母のこととか、熊野さんとおばあちゃんの昔話とかを話して、間もなく5時になろうかという頃にお暇することになった。
席を立って、カメラを首から下げた時、熊野さんが「あらっ」と声をあげた。
「そのカメラ、おばあちゃんが使ってたものでしょう。覚えてるわ、時々そのカメラを使ってたのよ」
熊野さんは少し感動したような様子で、私に「ちょっと待っててね」と言って家の奥に行った。戻ってきた熊野さんは、手に薄い冊子を持っていた。それを私に渡して、開くよう言った。表紙をめくると、かわいい小鳥の写真が1ページにつき上下に二枚貼ってある。
「全部、アキちゃんのおばあちゃんが撮ってくれたものなの」
全部、と言われてページをめくっていくと、いろんな鳥の写真が貼ってある。どれも名前がわからないけど、写真のことなんてちっとも知らない私でも分かるくらい良い写真ばかりだった。
「おばあちゃん、こんなに写真撮ってたんですね…。全然、知らなかったです」
「良い写真よね。ほら、この鶺鴒なんてすごくかわいい」
熊野さんが指さしたのは、頭が黒くてお腹が白い、背中はグレーの、あまり見たことのない鳥の写真だった。
「セキレイ、って言うんですか」
「そう。おばあちゃんに教えてもらったのよ」
おばあちゃんは、どこでこの写真を撮ったんだろう。ああ、もしかして、
「アパートにあった公園で、撮ったんですか?」
懐かしむように写真を眺めながら、熊野さんは頷いた。あの公園に来るような鳥なら、生まれた時からこの街に住んでいる私が見たことがないはずはない。きっとどこかで見ているのに、名前が分からないし奇抜でもないから覚えていないんだろう。こんなにかわいいのに、忘れていた…というか、認識していなかったんだ。
「熊野さん、この…セキレイって、どこにでもいますか?」
「もちろんよ!そんなに臆病でもないから、駅にいることがあるくらいだし。そうだ、アキちゃんも鳥の写真を撮ってみたら?それはインスタントカメラだからいきなり撮るのはドキドキしちゃうかもしれないけど、おばあちゃんが普段使ってたデジカメがあるはずだから、それを使ってみると良いんじゃない?」
鳥の写真。今も、おばあちゃんは時々野鳥図鑑を眺めていることがあるし、鳥の話をすれば今よりは良い反応をしてくれるようになるかもしれない。
「…デジカメ、探してみます。」
また来てね、と笑顔で送り出してくれた熊野さんに深く頭を下げて、帰り道をゆっくり歩く。電線に雀が止まっていて、その下の電線には違う鳥がいた。名前は分からない。少し視線を下ろしたところ、家の屋根の上に止まっている鳥。あの鳥も知らない。
田んぼには足が長い鳥がいたし、広い川には大きな白い鳥がいた。知らない鳥が、私のよく知る景色の中に当たり前に存在していた。
まるで、今まで自分が知らなかった世界を発見したようだった。
家に帰ると、夕飯の支度を始めていた母さんが少し驚いたような顔をした。
「いつも疲れた顔して帰ってくるのに、今日は機嫌がいいのね…?」
少し気分がいい自覚はあったけれど、人から見て分かるほど上機嫌になっているとは思わなくて笑ってしまった。すると、母さんはますます驚いたような顔になった。というか、人様にお礼に行っておいて疲れた顔して帰ってくるなんて、私って失礼なやつ。
「うん、確かに、機嫌いいよ」
私がそう言うと、母さんは表情を柔らかなものにした。少し嬉しそうな、そんな顔。
「母さんの嬉しそうな顔、久しぶりに見たかも」
母さんはおかしそうに笑った。
「母さんだって、アキの楽しそうな顔は久しぶり」
オープンキッチンのカウンター越しに交わす会話は、懐かしくなってしまっていた温かさを持っていた。
少しだけ母さんの手伝いをしてから、おばあちゃんの部屋でインスタントカメラがあった棚の辺りを探してみると、隣の棚の上にデジカメが置いてあった。直方体みたいな小さいもので、小豆色みたいな赤だった。知らなかったけど、おばあちゃんは赤色が好きなのかもしれない。
インスタントカメラならカメラに写真のデータが残らないけど、デジカメなら残ってるかもしれない。いくら家族とは言え写真を勝手に見るのは憚られたから、リスの写真集を見ているおばあちゃんに声をかけた。
「ねえおばあちゃん、写真見てもいい?」
ホコリを拭き取ったカメラを見せながら聞くと、おばあちゃんは不思議そうにしながらも「どうぞ」と答えてくれた。
自分の部屋のノートパソコンを取ってきて、おばあちゃんのソファの側で床に座り込み、デジカメのSDカードをパソコンに入れた。データ量が多いのか、読み込みに少し時間がかかるようだ。私のパソコンが古いのもあるかも、と思ってパソコンを軽くトントンと叩くと、制止の声がかかった。
「そんなふうに叩いちゃ、パソコンさんが可哀想じゃない」
写真集を見ていたはずのおばあちゃんが、パソコンを見ていた。私を家族だと認識できていないおばあちゃんが私の行動に興味を示すことはこの半年は無かったから、驚きのあまり何も返事ができずパソコンに視線を逃すと、読み込みが終わった写真のデータが表示されていた。表示サイズを大きくするように設定して、再び読み込みを待つ。数秒後、表示された写真の数々は、鳥でいっぱいだった。きのこや花の写真も混ざっているけど、ほとんどが鳥の写真。大きそうな鳥もいれば、雀くらい小さいのもいる。鳩もいるし、烏もいる。
そして、セキレイ。何枚か連続して撮られていた。
「セキレイだ。おばあちゃん、セキレイ好きなの?」
「それはハクセキレイちゃんねぇ。隣の写真もセキレイよ」
「えっ」
少し噛み合ってないけど、おばあちゃんが普通に受け答えをしてくれたことに驚きを隠せないし、私がセキレイだと思った鳥の写真の隣に表示されている写真の、背中が真っ黒で目のあたりが白い小鳥もセキレイだという事実にも驚きを隠せない。オスとメスとかそういうことなんだろうか。
「それはね、セグロセキレイちゃん。目元の色で分かるでしょ」
「あ、種類が違うんだ…。」
性別とかそういうことではないんだ。確かに、目元が白か黒かですぐに見分けられるかもしれない。セキレイって一種類じゃないんだ。実は雀も一種類じゃなかったりするのかな。セグロセキレイの写真の次の写真を表示した。今度はお腹の黄色が可愛らしい鳥だ。なんていうんだろう。私が心の中で呟いた疑問に答えるように、おばあちゃんが「ああ」と言った。
「その子もセキレイちゃんねぇ」
「えっ」
確かにさっきの2種類とちょっと似てるかもしれないけど、黄色だ。こんなに派手な色が入ってもセキレイなの?
「キセキレイっていうのよ。鶺鴒は11種類くらいいるんだけど、日本で普通に会えるのはこの3種類の子だけなの」
セキレイの豆知識が入ってきて感心する気持ちもあるけど、おばあちゃんがこんなにハッキリと喋ってるのはいつぶりだろうか。私のことを覚えてなくて、セキレイのことをこれだけ覚えてるのはちょっと複雑だけど。
ゆっくりと写真を次に送っていくと、おばあちゃんは鳥の名前を教えてくれた。田んぼで見た足の長い子は「ケリ」、翼のところが明るい茶色なのは「ツグミ」、赤い頭に黄緑の背中がかわいい「アオゲラ」、1メートル近い体長に長い嘴の「ダイサギ」。ちょっと散歩すれば会えるらしい。
「ねえおばあちゃん、なんでこんなにたくさん鳥を知ってるの?」
答えてもらえるか微妙だと思いつつも問い掛ければ、おばあちゃんは少し考えるように視線を上にやった。そして、私の目を見て微笑んだ。
「鳥のことを知るだけで、世界がちょっと広がって綺麗に見えるでしょう」
綺麗。その響きは、熊野さんが私に向けて言った「キレイ」とは違っていた。
世界が広がって、綺麗に見える。熊野さんの家からの帰り道、私は鳥たちの姿を認めるたびに「新しい世界を発見した」と感じた。おばあちゃんはその感覚を自分で見つけていたんだ。
私は、自分が自然と隔絶されてるとばかり思い込んで、鳥の世界を見ていなかった。世界が窮屈に思えるのも当然のことだ。
ふと、鳥の鳴き声がして、おばあちゃんは窓を見た。
「…鶺鴒の声ね」
おばあちゃんの呟きにつられるように私も窓を見ると、ベランダの手すりにハクセキレイがいた。図鑑に載っている子とは違って、尾の先が少し白くなっている。その尾がぴこぴこと上下していて、「チチ、チチチ」と可愛らしい鳴き声が窓ガラス越しに聞こえる。
おばあちゃんは、ゆっくりと窓から視線を戻して目を閉じた。ソファにちんまりと収まって、穏やかな顔をしている。
「あの子だわ。尾っぽがかわいいわねぇ」
セキレイはどこかを向いて鳴いている。鳥の鳴き声には、どんな意味があるんだろうか。仲間を呼んでいるのか、パートナーを探しているのか、威嚇をしているのか。ああ、知らないことばかりだ。
「綺麗な世界ねえ。綺麗な世界にいられて、幸せだわ。」
ふう、とおばあちゃんが息をつくのがよく聞こえた。心の底から安心しているような、満ち足りているような、そんな穏やかさのある声だった。
チチチ、と鶺鴒の声が部屋に満ちる。
なんだか、時が止まったような感覚がした。
夕方のチャイムが鳴っているその間、ずっと沈黙が降りていた。長くなった向かいの家の影が、ベランダを覆おうとしている。もう、日が5時半まで上がっていない時期になっている。
チチチ、とまた声がして、窓に目をやると、さっきはどこかを向いていた鶺鴒がこちらをジッと見つめていた。一瞬目があったような気がして、意味はないのに声をかけたくなった。
「どうしたの」
セキレイは手すりからベランダの床に下りると、窓をくちばしでコンコンと突いた。入れてくれ、という意味だろうか。熊野さんはセキレイについて、あくまで「そんなに臆病でもない」としか言わなかったし、おばあちゃんも人懐こいとは言っていなかった。危害を加えるつもりなんて無いけれど、飼っているわけでもない人間がいるところに自ら入ってくる鳥がいるなんて、と驚きながら窓を開けてみると、セキレイは私の肩に飛び乗った。どうして良いか分からず固まっていると、セキレイはおばあちゃんの方を向いた。私の方の上でしばらく鳴くと、満足したように窓から羽ばたいていった。こんなことあるんだね、とおばあちゃんに言おうと振り返って、少しの違和感を感じた。
「おばあちゃん?」
返事がない。このわずかな時間で眠ってしまったのだろうか。歩み寄って、おばあちゃんの手に手を重ねた。温かくて皺だらけの手は、今までどれだけの鳥を写真に収めてきたのだろう。きっと、今見ていたSDカードのデータが全てではないだろう。
「おばあちゃん、もうすぐご飯だから寝ちゃダメだよ」
少し体を揺すっても、起きる気配がない。ひゅ、と自分が息を吸う奇妙な音が聞こえた。
まさか、と思って耳を澄ませてみると、なんの音もしない。思わず、温かいその手を握った。
息が、止まっていた。手首に指を添えても、脈が感じられなかった。
死んだ人の体は冷たいものだと思っていたけれど、死んだばかりの人の体が温かいのは当然だ。自分のズボンが濡れて、涙が流れていることに気がついた。
自分の孫のことが分からないほど認知症が進行した中で、おばあちゃんは幸せなのだろうかと考えたことがある。しかし、いつもこんなに穏やかな表情でいて、そして眠りについた人が不幸せなはずがあるだろうか。あの最期の言葉を聞かずとも、おばあちゃんが幸せかどうかなんて分かりきっていたのだ。
おばあちゃんが苦しまなくてよかった、と心から思う。でも、私は悲しいし、寂しいし、苦しい。涙が落ちると分かっているけど、俯かずにはいられなかった。そうして視線を落とした先、ソファの近くに小さな野鳥図鑑が置かれていた。たった一枚だけ貼ってある付箋が気になって手にとり、付箋のページを開く。
それは、セキレイの項目だった。
大きな正方形の付箋には、「よくベランダにくる」とおばあちゃんの字で書いてあった。紙製の付箋は本からはみ出た部分が日焼けして変色している。
あんなに可愛いお客さんなのに、セキレイの漢字はあまり可愛くない。セキレイ。鶺鴒。
おばあちゃんの部屋にあったのは、野鳥図鑑だけではない。木の図鑑、花の図鑑、雑草の図鑑、魚の図鑑、虫の図鑑、両生類の図鑑、きのこの図鑑。おばあちゃんは、幼い頃から私が何を聞いても答えてくれた。自然のことを知っていたおばあちゃんは、自然と隔離された生き物らしくない生き方に悶々とするばかりだった私とは違って、私が見ようともしなかった、綺麗で、広い世界の中にいたのだ。
お葬式が終わった週末、私は母さんがくれた新しいデジカメと、おばあちゃんの野鳥図鑑を持って散歩に出掛けた。
あの日、野鳥図鑑を持ったまま声を上げずに涙を流しながらフラフラとキッチンにやってきた私に、母さんは酷く慌てた。けれど、すぐに察したのか黙って抱きしめてくれた。私より背の低い母さんが「そっか、そっか…。」と言う声は震えていた。来週に帰ってくるはずだった兄はすぐに帰省し、単身赴任中だった父も帰ってきた。お通夜には熊野さんもいて、何も言わずに手を握ってくれた。
喪失感の中にいた私は、母さんがデジカメをくれた昨日の朝、ようやく目が覚めるようにハッとした。小豆色の可愛らしいそれは、おばあちゃんが「アキが18歳になったときにカメラをあげたい」と言っていたのを1年だけフライングで叶えるために買ったらしい。なんでも、おばあちゃんが初めて写真を撮ったのが18歳の時だったとかで。
雀でも鳩でも烏でも、知らない鳥でも見つけた鳥はとにかく写真に収めた。町内をぐるりと回って家に着いた時、チチチ、という声が聞こえた。ハッとしてあたりを見渡すと、うちのお隣さんの家の塀に鶺鴒がいた。目元が黒いから、ハクセキレイ。ほとんど無心でシャッターを切って、ぴこぴこと上下している尾を見つめていた。「待ってー!」と少し遠くから響いた子供の大声に、鶺鴒は飛んで行った。同じ種類のはずだけど、私の肩に飛び乗ったあの子とは少し違うような気がした。
野鳥図鑑が何冊かあるおばあちゃんの部屋で、デジカメのSDカードをノートパソコンに入れた。始めたばかりだから仕方ないのかもしれないけど、私の写真はピントがボケていたりブレていたりして素人っぽくて、おばあちゃんの写真と比べ物にならないほど拙い。それでも図鑑と見比べながら、一羽ずつ種類を突き止めていく。見つけた鳥のページには細い付箋を貼った。ときどき、写真の中に鳥と一緒に写っている花の名前も一緒に調べて花の図鑑にも付箋を貼っていく。
ふと窓を見ると、電線で雀が群れていた。冬になると雀は夏よりふっくらとして可愛くなるらしい。
声が聞こえるかな、と思ってベランダに出ると、先週よりも少し寒くなったように感じた。雀の声に混ざって、どこからかハシブトガラスの声もした。鳥のことも花のことも、おばあちゃんに教えてもらえたらもっとよかったけど、自分で知っていくのも悪くないと思う。きっと、おばあちゃんも図鑑をめくりながら世界を知っていったのだろうから。
どんどん広がっていくだろう世界に胸を膨らませ、私は暫し秋の自然の中に浸った。
鶺鴒がいた部屋 福基紺 @Naybe_Lemon
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