第三話 漂着
半魔シャチを全滅させ、仕留めたサメの血を啜り肉を喰らいながら漂流を続けること数日――ヤクトは時化に見舞われた。
トティアスの深い海は波高く、推進
それでも
「ぶはぁっ!」
胃袋を引きずり出して可能な限りの肉を詰め込み、サメの死骸を蹴って海上に飛び出した。深海に引き摺り込まれる危険を冒してまで肉の確保に拘った点は褒められるべきなのか否か。
死後数日が経過して体内の尿素がアンモニアに変わり、上手く調理しないと食用にならないサメ肉だが、ヤクトにとっては宝物だったらしい。
「――」
海面は大いに荒れていて水上歩法は使えず、肉の詰まった巨大な胃袋に波浪を受けて小柄なヤクトはいいように引きずられる。
それでも絶対に手を放さない。
驚くべきことに、低体温症で意識を喪失してからもサメの胃袋は掴んで放さなかった。
**********
目元を覆う温もりと後頭部の柔らかさが唐突に失せて、パチャンと水音が鳴った。
「もし! もしっ!」
あの感覚をもう一度――。
「大丈夫……――か!?」
その一心で手探りし、虚ろに彷徨う手が柔らかいものに触れた。
(ああ……これだ。この感触が欲しかった)
手の中でムニュムニュとカタチを変える感触を夢見心地で確かめる。
「痛っ!? いたた……! ちょっと!」
右手に捕まえた柔らかさをしっかりと掴み、左手に命を繋ぐための胃袋を握りしめる。額をペシペシ叩かれているが、殺意は感じないので放置した。
「やめろ!」
右腕に冷たい何かが巻き付き拘束してきた。
関節を無理やり曲げられて戻せないが、それでも掴んだものは放さない。死んでも放さない。
「痛いって! いい加減にしろ!」
額に拳骨が振り下ろされた。
呼吸、筋肉と骨の軋み、空気の揺らぎ、向けられる気当たりから軌道とタイミングを予測し、インパクトの瞬間に首振りを合わせる。
「痛ったぁ〜い! どんな石頭だ!?」
殺意が無いことはわかっていたので拳が潰れない程度に加減して受けた。痛いと言っているが怪我もしていないはずだ。
それにしても、なんと素晴らしい触り心地だろう。人肌ほどに暖かく、しっとりと手に吸い付いてくる。山羊の乳を絞る感じに似ているが、根本的に何かが違う。
「ちょっと! やめて! 本当にやめて! 無礼打ちにされたいのか!?」
腕をギリギリと絞められているが耐えて見せよう。たとえ千切れても手放さないつもりだ。
**********
ヤクトはそのまま気を失った。
半生半死で女の乳を探り当て、手放さないようキツく握りしめた状態でキープする神経に脱帽する。僕にはとても真似できないし、する気にもなれない。
ヤクトが島を出た目的の一部ではあるのだろうが、明らかにやりすぎだろう。これでも僕の教育のおかげで相当マシになっていると信じたい。
「何なんだお前!?」
こんな風に乳房を握られる女の方は堪ったものではない。愛撫されているわけでも揉みしだかれているわけでもなく、片乳をグワシと強く鷲づかみに固縛されてはただ痛いだけだ。
憐れな女は大人と呼ぶにはまだ幼い。かなり早熟な少女で年回りはよくわからない。
濃い褐色の肌に、踊り子のようなセパレートタイプの薄紫色の衣装を身に纏い、引き締まった躰つきは出るところがしっかり出ていて腰のくびれが艶かしい。
目から下を薄手の絹織物で隠しているが、少しキツめの目元と高い鼻筋から顔立ちは美しく整っているように見える。
頭髪は一見すると艶やかな黒髪だが、すこしクセのある長く伸ばした髪の根本には紫色が見え隠れしていた。
「ホントに痛いっ! 私を誰だと思ってる!?」
上等な衣装と言葉使い、発育の良さから裕福な家の子女だとわかるが、褐色の肌は僕が嫌いなドラントの人間の特徴だ。
上半身に
「私はドラント州王国の王女! アイゼンプルート・ドラントだぞ!? って――痛い! 控えろこのバカ!」
なんとドラントの王女様だった。いいぞヤクト。もっとやってしまえ。
西南五島を支配下に置く王国は非常に歴史が古い鉱山大国。
1万年の永きに渡って尽きることがない鉱脈の恩恵を受けて、王権の交代はあれど、いつの時代も大陸に座する帝国に次いで豊かな国だった。
このトティアスにおける鉱物資源は貴重だ。大小5つの島からなる西南五島で産出する鉱石が世界中の鉱物シェアの九割を担っているのだから、どこの国もドラントを無視できない。
およそ60年前にドラント王国が五島すべての覇権を握り、ドラント州王国となってから国力は増すばかり。農耕に適した平野が少なく食料自給率の低いことが弱点ではあるが、鉱山の利益を元手に帝国から輸入すれば事足りる。
これらの情報のほとんどは以前の職場で仕入れた10年以上前のものだが、この国が10年やそこらで変わるわけもない。
ドラントの気風は古風に凝り固まった閉鎖的なもので、王侯貴族から平民、果てはスラム住民に至るまで、僕のような余所者にとても冷たいのだ。
「いい加減にして! というか気絶してるんじゃないの!?」
王女様は浅葱色の瞳を怒らせながら、褐色の肌に瞳と同色の聖痕を走らせて魔法を行使し、動く羽衣でヤクトの右腕を拘束して胸から引き剥がそうと藻掻く。
それでもヤクトは乳を手放さない。しつこいほど無遠慮に握られて王女様は半泣きになっている。
彼女個人に恨みは無いが――いいぞヤクト。もっとやってしまえ。
僕の悔しい気持ちが通じたのか、ヤクトは気絶から覚めるまで王女様の胸から手を放さなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます