第40話 8頭立てのベルリン馬車
3日3晩して、グルノイユは、ぽろっと剥がれた。
ロンウィ将軍のそこから。
時を同じくして、将軍は、薬師のユンなる者から、書簡を受け取った。封筒には、「治癒証明書」が同封されていた。
「氏名:ロンウィ・ヴォルムス
病名:”言ってはいけないあの病気”
別名 ”不名誉な病”
右の者、右の病が治癒したことを証明する。
バーバリアン認定 一級薬師 ユン」
◇
ご期待に添えなくて、非常に恐縮だが、また、俺自身、密かな期待がなかったわけじゃないのだが。
俺は、カエルのままだった。
3日3晩、彼とずっと一緒にいたのに。
彼の
俺は、発情しなかった。
人の姿に、なれなかった。
この3日3晩の記憶は曖昧で、まるで、夢の世界にいるようだった。
五感は薄れ、俺は、俺を失っていた。
薄靄を透かして、世界を見ていた。
ロンウィ将軍の世界だ。
兵士を愛し、軍に居場所を見つけた男の。
勇敢で、自分を顧みず、真っ先に危険に飛び込んでいく軍人の。
何も欲しがらず、ただ、栄光のみを糧にして、営々と軍務に励む。
世の中の全てが反対しても、決して自分を折らない強さ。
その底には、親しかった者たちが自分から離れていく、身を切られるような辛さがあった。自分を否定された、心の傷が。
反面、美しいものや愛らしいもの、弱いものへの、暖かい思い。
歴史や文学、過去の戦争の勝利者への尊敬。
そして、……。
そして、なんだこれは?
薄寒く寂しい、薄墨色の世界。決して満たされることのない……
……孤独。
絶対的な、孤独。
ロンウィ将軍の中には、誰かがいた。
彼が愛を捧げた、たった一人の。
彼を決して顧みることのない、冷たい恋人。
絶望的な愛が、彼を支配していた。
疼くような寂寥感。
心を吹き抜ける乾いた風。
凍えるような寒さ。
それらが、常に、彼を苛んでいた。
にも拘らず、将軍の一番奥深い場所には、愛があった。
じれったいほど優しく、かつ激しく、将軍はその人を愛していた。
3日3晩経って、俺は、知った。
……ロンウィ将軍と、ずっと一緒にいることはできない。
……だって、彼には、誰よりも愛している人がいるのだから。
その人と幸せになれるよう応援してあげるのが、彼を愛した俺の、最後の使命だと思う。
◇
カエルが、ロンウィ将軍の局所から離れた日。
キフル要塞に、一台の馬車が乗り入れた。
8頭立てのベルリン馬車には、妙齢の女性が乗っていた……。
◇
「おい、聞いたか?」
「ああ、聞いた聞いた」
中央軍要塞で、兵士たちが話している。
「まさかな。まさか、あのロンウィ将軍が」
「いや、俺にはわかってた。彼には絶対、コレがいるって」
赤毛の兵士が小指を立てる。
「だって、いなきゃおかしいだろ。俺らの将軍だぞ? リュティスの女どもは、男を見る目がない、ってことになる」
「おいっ! 我が国の女性を侮辱するなよ……」
「わかった。訂正する。リュティスの女には、見る目がある。だからお前は、独り身なんだ」
乱闘が始まった。
別の兵士達も、噂話に夢中だ。
「見たか? あの黒塗りの、立派な馬車」
「見た見た見た。紋が入っていたぞ。ハヤブサとカブトムシだった」
「強そうだな」
別の兵士がやってきて、呆れたように首を振る。
「お前ら、知らないのか? あれは、新しい皇室の紋章だよ! フォンツェル家の!」
最初の兵士は、のけぞった。
「ええっ! じゃ、中に乗ってた女の子って……」
「女の子なんて、気安く言うな! オルフィーヌ内親王だよ。ナタナエレ皇帝の姪の」
「皇帝の、姪!」
「ああ。皇帝には子どもがいないからな。オルフィーヌ姫を、養女にしたんだ」
「へえ。それでその、オルフィーヌ姫? 彼女は、何しに来たんだ?」
「お前ら、本当に馬鹿だなあ」
後から来た兵士は、集まっていた仲間たちに、哀れみの目を向ける。
「婚儀だよ! 恋仲だったロンウィ将軍と、とうとう、結婚するんだ!」
要塞の中は、オルフィーヌ姫の噂でもちきりだった。
皇帝の養女、オルフィーヌ。
ロンウィ将軍の恋人で、でも、皇帝の許可が得られなかった。
ついに彼女は、将軍の元へ押しかけた。
積極的な彼女に根負けして、とうとう、皇帝も、二人の仲を認めたらしい……。
◇
「お受けなさるべきです」
応接室へ向かいながら、副官のレイは、上官に詰め寄った。
「このお話、なんとしても、お受けになるべきです」
「……」
上官は答えない。
胸の隠しから、書類を出して眺めている。
向こうから来た当番兵に、危うくぶつかりそうになった。
「ちょっと将軍、聞いてます?」
「あ? ああ」
「ゴドウィ河東岸に、王国を下さると言うんです。リュティスの国境の、すぐ外側に! 新しくできる国の、あなたは、王だ」
当番兵の持った箒の先で肩を小突かれ、将軍は顔を顰めた。
「この辺りは、辺境伯達の領土だろう? それをくれると言われてもなあ」
「彼らは、戦に負けたんです! リュティス帝国との戦争に! あなたとの戦いに! あなたにはその権利がある。あなたは、ゴドウィ河東岸の王だ」
「違うよ」
「違いません! さんざん苦労してきたじゃないですか! 正直、兵士や物資の補給はしないわ、給料は払わないわで、皇帝を、恨んだ日々もありました。でも、つまり、そういうことだったんですね! あなたに一国を与える、と……」
感動に副官は打ち震えた。
「ナタナエレ・フォンツェル皇帝! なんと寛大な皇帝だろう!」
「だが、その為には、彼女と結婚しなければならないのだろう?」
つぶやくように将軍が口にすると、副官は、猛り立った。
「しなければならない? 何言ってんですか! オルフィーヌ姫は、皇帝の、養女じゃないですか! その上、血の繋がった、最愛の姪でもあります。彼女はあなたへの
オルフィーヌは、皇帝の弟の娘だった。
皇帝自身は、結婚はしているが、子どもはいない。
姪であるオルフィーヌと、その兄ユジェンを、皇帝ナタナエレは、養子にした。このまま皇帝夫妻に子ができなければ、いずれ帝国は、ユジェンが継ぐことになる。
自分に忠実なユジェンとオルフィーヌを、皇帝は心から愛していると言われている。
さらに、レイは、言い募る。
「年齢だって、オルフィーヌ内親王は、あなたより15歳も若い。犯罪だ! じゃなくて、私はあなたが妬ましいです、ロンウィ将軍! あ、これも違う、いや、違わない。あれ?」
副官は、何を言いたいのかわからなくなっている。ロンウィ将軍は、肩を竦めた。
「前にバーバリアン公が、娘をくれると言った時、君は反対したじゃないか。ブラブル辺境伯が妹を嫁に、って言ってきた時も」
そういえば、そんなこともあったと、レイは思い出した。速攻で断ったのは、将軍の方だったのだが。
憤然と、彼は否定した。
「全然話が違います! リュティス帝国皇帝の、養女で姪ですよ? わかってるんですか?」
「わかってるよ。私の将軍の、血縁だ」
暗く揺らいだ声だった。
「私の、将軍?」
そういえば、二人は戦友だったと、レイは思い出した。ゴドウィ河中央軍のロンウィ将軍と、南軍、アウリシア半島を征服したナタナエレ将軍。共に、良き戦友同士だった。
「まあ、戦友が岳父になるってのも複雑かもしれませんが、今や、皇帝ですからね! 皇帝と親戚になった上に、ゴドウィ河岸の王として君臨する。素晴らしいお話じゃないですか!」
将軍は答えなかった。相変わらず、書類を見ている。
「さっきから、何を見ていらっしゃるのですか?」
思わず副官は尋ねた。
「治癒証明書」
「治癒……?」
「やり放題を許可する、って証明だ。なあ、レイ。親戚になどならなくても、俺は、ナタナエレ皇帝に、忠誠であり続けただろうよ」
語尾が、おかしかった。「あり続ける」と、言うべきところだつた。
だが、レイは気づかない。
「そうでしょうとも。あなたの、皇帝への忠誠を、疑う者など誰もいません」
レイは、応接室で待ちかねているであろうオルフィーヌ姫のことで、頭がいっぱいだった。ロンウィ将軍は、何をぐずぐず言っているのだろう。
早くこのわからず屋を、彼女の所へ連れて行かねばならなかった。
ひと目、姫の美しさを見れば、ロンウィ将軍だって……。
「皇帝おひとりに我が身を捧げるために、俺は、不名誉な病さえ、この身に引き受けた」
「不名誉な病ですって」
いい加減に聞き流してたレイは、ぎょっとした。
不名誉な病……。
それは、不治の病だ。
「将軍、まさか……」
「だから、やり放題の許可が出たって言ったろ? 俺の体は健康だ」
なんだかわからないけど、良かったと、レイは思った。
もちろん彼は、ロンウィ将軍が、「言ってはいけないあの病気」だったとは、毛の先ほども疑わなかった。繰り返すが、高潔な英雄は、下の病になど、罹らないものだ。
しげしげと彼は、上官を眺めた。
そして、気がついてしまった。
今頃。
「ああっ! ズボンに泥はねが! げ、ブーツで来ちゃったんですか? 川からあがったばかりで泥だらけの……。これからオルフィーヌ姫に会うんですよ? なぜ、履き替えて来ないんです! ちょっと、そのシャツ、破れてます……」
「塹壕掘りをしてたからな。お前が急に呼び出したんだろう? 文句を言うな」
「大事なお客さんでしょ! 何度も言いますが、皇帝の姪で養女で、若い美人なんですよ?」
憮然としている副官を廊下に残し、ロンウィ将軍は、応接室へ入っていった。
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