第40話 8頭立てのベルリン馬車


 3日3晩して、グルノイユは、ぽろっと剥がれた。

 ロンウィ将軍のそこから。


 時を同じくして、将軍は、薬師のユンなる者から、書簡を受け取った。封筒には、「治癒証明書」が同封されていた。


「氏名:ロンウィ・ヴォルムス

 病名:”言ってはいけないあの病気”

    別名 ”不名誉な病”

 右の者、右の病が治癒したことを証明する。

 バーバリアン認定 一級薬師 ユン」





 ご期待に添えなくて、非常に恐縮だが、また、俺自身、密かな期待がなかったわけじゃないのだが。

 俺は、カエルのままだった。


 3日3晩、彼とずっと一緒にいたのに。

 彼のそこ・・に、貼り付いていたのに!

 俺は、発情しなかった。

 人の姿に、なれなかった。


 この3日3晩の記憶は曖昧で、まるで、夢の世界にいるようだった。

 五感は薄れ、俺は、俺を失っていた。


 薄靄を透かして、世界を見ていた。

 ロンウィ将軍の世界だ。

 兵士を愛し、軍に居場所を見つけた男の。

 勇敢で、自分を顧みず、真っ先に危険に飛び込んでいく軍人の。


 何も欲しがらず、ただ、栄光のみを糧にして、営々と軍務に励む。

 世の中の全てが反対しても、決して自分を折らない強さ。


 その底には、親しかった者たちが自分から離れていく、身を切られるような辛さがあった。自分を否定された、心の傷が。


 反面、美しいものや愛らしいもの、弱いものへの、暖かい思い。

 歴史や文学、過去の戦争の勝利者への尊敬。


 そして、……。

 そして、なんだこれは?


 薄寒く寂しい、薄墨色の世界。決して満たされることのない……

 ……孤独。

 絶対的な、孤独。


 ロンウィ将軍の中には、誰かがいた。

 彼が愛を捧げた、たった一人の。

 彼を決して顧みることのない、冷たい恋人。

 絶望的な愛が、彼を支配していた。


 疼くような寂寥感。

 心を吹き抜ける乾いた風。

 凍えるような寒さ。

 それらが、常に、彼を苛んでいた。


 にも拘らず、将軍の一番奥深い場所には、愛があった。

 じれったいほど優しく、かつ激しく、将軍はその人を愛していた。



 3日3晩経って、俺は、知った。


 ……ロンウィ将軍と、ずっと一緒にいることはできない。

 ……だって、彼には、誰よりも愛している人がいるのだから。


 その人と幸せになれるよう応援してあげるのが、彼を愛した俺の、最後の使命だと思う。





 カエルが、ロンウィ将軍の局所から離れた日。

 キフル要塞に、一台の馬車が乗り入れた。

 8頭立てのベルリン馬車には、妙齢の女性が乗っていた……。





「おい、聞いたか?」

「ああ、聞いた聞いた」

 中央軍要塞で、兵士たちが話している。

「まさかな。まさか、あのロンウィ将軍が」


「いや、俺にはわかってた。彼には絶対、コレがいるって」

 赤毛の兵士が小指を立てる。

「だって、いなきゃおかしいだろ。俺らの将軍だぞ? リュティスの女どもは、男を見る目がない、ってことになる」


「おいっ! 我が国の女性を侮辱するなよ……」

「わかった。訂正する。リュティスの女には、見る目がある。だからお前は、独り身なんだ」


 乱闘が始まった。


 別の兵士達も、噂話に夢中だ。

「見たか? あの黒塗りの、立派な馬車」

「見た見た見た。紋が入っていたぞ。ハヤブサとカブトムシだった」

「強そうだな」


別の兵士がやってきて、呆れたように首を振る。

「お前ら、知らないのか? あれは、新しい皇室の紋章だよ! フォンツェル家の!」


 最初の兵士は、のけぞった。

「ええっ! じゃ、中に乗ってた女の子って……」


「女の子なんて、気安く言うな! オルフィーヌ内親王だよ。ナタナエレ皇帝の姪の」

「皇帝の、姪!」

「ああ。皇帝には子どもがいないからな。オルフィーヌ姫を、養女にしたんだ」

「へえ。それでその、オルフィーヌ姫? 彼女は、何しに来たんだ?」


「お前ら、本当に馬鹿だなあ」

後から来た兵士は、集まっていた仲間たちに、哀れみの目を向ける。

「婚儀だよ! 恋仲だったロンウィ将軍と、とうとう、結婚するんだ!」



 要塞の中は、オルフィーヌ姫の噂でもちきりだった。

 皇帝の養女、オルフィーヌ。

 ロンウィ将軍の恋人で、でも、皇帝の許可が得られなかった。

 ついに彼女は、将軍の元へ押しかけた。

 積極的な彼女に根負けして、とうとう、皇帝も、二人の仲を認めたらしい……。





 「お受けなさるべきです」

応接室へ向かいながら、副官のレイは、上官に詰め寄った。

「このお話、なんとしても、お受けになるべきです」


「……」


 上官は答えない。

 胸の隠しから、書類を出して眺めている。

 向こうから来た当番兵に、危うくぶつかりそうになった。


「ちょっと将軍、聞いてます?」

「あ? ああ」

「ゴドウィ河東岸に、王国を下さると言うんです。リュティスの国境の、すぐ外側に! 新しくできる国の、あなたは、王だ」


 当番兵の持った箒の先で肩を小突かれ、将軍は顔を顰めた。


「この辺りは、辺境伯達の領土だろう? それをくれると言われてもなあ」

「彼らは、戦に負けたんです! リュティス帝国との戦争に! あなたとの戦いに! あなたにはその権利がある。あなたは、ゴドウィ河東岸の王だ」

「違うよ」

「違いません! さんざん苦労してきたじゃないですか! 正直、兵士や物資の補給はしないわ、給料は払わないわで、皇帝を、恨んだ日々もありました。でも、つまり、そういうことだったんですね! あなたに一国を与える、と……」


感動に副官は打ち震えた。

「ナタナエレ・フォンツェル皇帝! なんと寛大な皇帝だろう!」


「だが、その為には、彼女と結婚しなければならないのだろう?」


つぶやくように将軍が口にすると、副官は、猛り立った。


「しなければならない? 何言ってんですか! オルフィーヌ姫は、皇帝の、養女じゃないですか! その上、血の繋がった、最愛の姪でもあります。彼女はあなたへのご褒美トロフィーなんですよ!」


 オルフィーヌは、皇帝の弟の娘だった。

 皇帝自身は、結婚はしているが、子どもはいない。

 姪であるオルフィーヌと、その兄ユジェンを、皇帝ナタナエレは、養子にした。このまま皇帝夫妻に子ができなければ、いずれ帝国は、ユジェンが継ぐことになる。

 自分に忠実なユジェンとオルフィーヌを、皇帝は心から愛していると言われている。


 さらに、レイは、言い募る。

「年齢だって、オルフィーヌ内親王は、あなたより15歳も若い。犯罪だ! じゃなくて、私はあなたが妬ましいです、ロンウィ将軍! あ、これも違う、いや、違わない。あれ?」


 副官は、何を言いたいのかわからなくなっている。ロンウィ将軍は、肩を竦めた。


「前にバーバリアン公が、娘をくれると言った時、君は反対したじゃないか。ブラブル辺境伯が妹を嫁に、って言ってきた時も」


 そういえば、そんなこともあったと、レイは思い出した。速攻で断ったのは、将軍の方だったのだが。

 憤然と、彼は否定した。


「全然話が違います! リュティス帝国皇帝の、養女で姪ですよ? わかってるんですか?」


「わかってるよ。の、血縁だ」

暗く揺らいだ声だった。


「私の、将軍?」


 そういえば、二人は戦友だったと、レイは思い出した。ゴドウィ河中央軍のロンウィ将軍と、南軍、アウリシア半島を征服したナタナエレ将軍。共に、良き戦友同士だった。


「まあ、戦友が岳父になるってのも複雑かもしれませんが、今や、皇帝ですからね! 皇帝と親戚になった上に、ゴドウィ河岸の王として君臨する。素晴らしいお話じゃないですか!」


 将軍は答えなかった。相変わらず、書類を見ている。

「さっきから、何を見ていらっしゃるのですか?」

思わず副官は尋ねた。


「治癒証明書」

「治癒……?」

「やり放題を許可する、って証明だ。なあ、レイ。親戚になどならなくても、俺は、ナタナエレ皇帝に、忠誠であり続けただろうよ」


 語尾が、おかしかった。「あり続ける」と、言うべきところだつた。

 だが、レイは気づかない。


「そうでしょうとも。あなたの、皇帝への忠誠を、疑う者など誰もいません」


 レイは、応接室で待ちかねているであろうオルフィーヌ姫のことで、頭がいっぱいだった。ロンウィ将軍は、何をぐずぐず言っているのだろう。

 早くこのわからず屋を、彼女の所へ連れて行かねばならなかった。

 ひと目、姫の美しさを見れば、ロンウィ将軍だって……。


、俺は、不名誉な病さえ、この身に引き受けた」

「不名誉な病ですって」


 いい加減に聞き流してたレイは、ぎょっとした。

 不名誉な病……。

 それは、不治の病だ。


「将軍、まさか……」

「だから、やり放題の許可が出たって言ったろ? 俺の体は健康だ」


 なんだかわからないけど、良かったと、レイは思った。


 もちろん彼は、ロンウィ将軍が、「言ってはいけないあの病気」だったとは、毛の先ほども疑わなかった。繰り返すが、高潔な英雄は、下の病になど、罹らないものだ。


 しげしげと彼は、上官を眺めた。

 そして、気がついてしまった。

 今頃。


「ああっ! ズボンに泥はねが! げ、ブーツで来ちゃったんですか? 川からあがったばかりで泥だらけの……。これからオルフィーヌ姫に会うんですよ? なぜ、履き替えて来ないんです! ちょっと、そのシャツ、破れてます……」

「塹壕掘りをしてたからな。お前が急に呼び出したんだろう? 文句を言うな」

「大事なお客さんでしょ! 何度も言いますが、皇帝の姪で養女で、若い美人なんですよ?」


 憮然としている副官を廊下に残し、ロンウィ将軍は、応接室へ入っていった。








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