第3話、王太子殿下は三歳児
――という天使とのやり取りを思い出したのは、五歳になった夏のこと。
ヴァンガルド公爵家の大きな屋敷内にある魔術図書室の中。冷たい大理石の床の上、チョークで書いた魔法陣の真ん中に、小さな私は足を投げ出して座っていた。もみじのようにかわいらしい両手のひらをパンパンとたたいて、
「マリー」
と侍女の名を呼ぶ。
「はい、リーザエッテ様」
すぐに扉があいて、廊下から若い女性が姿をあらわした。集中したいから、とかなんとか理由をつけて廊下に下がらせてあったのだ。
「私は将来、どなたと結婚するのかしら」
「もちろんエリック王太子殿下でございます」
「そうだったわね」
やはり今回も、そもそも婚約しないルートは選べないようだ。前回はここから暗殺を練ったんだっけ。いけないわ。もういちど罪を犯せば私の魂は消されてしまうのだから。
「マリー、もうしばらく本を読んでいたいわ。私が声をかけるまで入ってこないように。あなた以外の使用人も図書館に入れないよう、お願いするわ」
「かしこまりました、リーザエッテ様」
マリーはうやうやしく礼をすると、見事な木彫りの細工がほどこされた分厚い木の扉をゆっくりと閉めた。
私が魔術書を読み始めてしばらくすると、
「お嬢様はまた図書室にこもられているのか?」
「なんと知識欲旺盛で聡明な方だ」
「しかしマリー、お昼寝の時間はとっているかい? お嬢様はご病気がちなのだから気を付けてさしあげねば」
などという使用人たちの会話が廊下から聞こえてきた。マリーが冷たく、
「しっしっ」
と彼らを追い払っているようだ。さすが悪役令嬢の侍女。私は木の扉に片耳をくっつけて、外の会話を盗み聞きする。
「聡明なのはよいが、あの方は子供らしさに欠けるとは思わんかね」
「お嬢様の悪口は公爵様に言いつけますよ? リーザエッテ様は将来の王妃殿下であることをお忘れなく」
マリーがぴしゃりと言い放つ。
「これは手ごわいな。わしが言いたかったのは、そうじゃな…… お嬢様はお小さいうちにご両親から引き離され難しい本ばかり読んでおられる。これではやさしいお心も育ちにくいのではと」
「なにをおっしゃりたいのです? 身分の高い方々がご両親と過ごされないのは普通のことと存じますが?」
マリーの口調は変わらない。
「そ、それはそうじゃな。まあほら、あれだ。将来の王妃様なら愛情深い性質も必要かなと思っただけじゃよ」
初老の男はそそくさと去って行った。彼の取り巻きの足音もいっしょに廊下を遠ざかって行く。
なるほど、一理あるわね。私はひとりうなずきながら、扉から離れる。
何度人生をやり直しても、毎回婚約者以外の女性にうつつを抜かす王太子エリック。あの男もどんな幼少期を過ごしたのやら。ちょっとのぞいてみても面白いかもね?
私は目を閉じると、『千里眼』と心に念じた。
まぶたの裏にゆっくりと浮かび上がってきたのは、むだに大きな天蓋付きのベッド。私の寝室も相当豪華だが、さすが第一王位継承者の寝室。公爵令嬢のベッドなど軽くしのいでいる。
その大きすぎるベッドの真ん中で、三歳くらいの男の子が泣きべそをかいていた。
私の記憶にある憎たらしいエリックは、ライトブラウンの髪にくすんだ灰色の瞳なのだが、浮かび上がった映像の中の少年はやわらかい金髪だ。大人になるにつれて髪質がしっかりとしてライトブラウンになったのだろう。知らなかったわ。まあエリックの子供時代なんて興味なかったしね。
ながめていても泣いているだけで面白くないので私は目をあけた。
「そうだ。ちょっといじめに行ってやろうかしら?」
退屈な毎日のよいスパイスになるかもしれない。日々数時間、王妃教育と称して基礎学問を学んでいるが、さすがに人生五周目となるとなにも目新しいことがない。
「子供の姿で行ってもつまらないわね。冷たいマリーの姿なんかよろしいかしら」
体内に魔力を集めて『
「さて、瞬間移動で王宮の王太子寝室へ――」
と立ち上がったものの、私はへなへなと座り込んだ。
「だめだわ。いっぺんに発動するには魔力量が足りないわね」
「そうだ、すでに過去四回も経験している大人のリーザエッテの姿なら――」
再度『
さすが魂に刻まれたお気に入りのリーザエッテ嬢の姿。私はだいたい十年後――十五歳くらいの少女の姿になって、エリック王太子の寝室へ移動した。
「殿下、なにを泣いていらっしゃるの?」
ベッド脇に立って声をかけると、小さなエリックはびくっと体をふるわせた。一人きりの部屋に突然、知らない人間があらわれたのだから当然の反応だろう。それでも気丈に私を見上げる。その愛らしい顔立ちは絵画に描かれるキューピッドそのものだ。
――あれっ? 金色の目をしていらっしゃるわ。
私は物珍しいものでもながめるように、幼児の両眼をまじまじとみつめた。記憶の中の彼と、違う……。
「おねえさんが僕の新しい
か細い声でたずねるエリック。
「とんでもないわ、わたくしはあなたの――」
婚約者、などと言いそうになってあわてて口を閉ざす私。かわりに、
「まさか乳母が交代することになって泣いていたのかしら?」
とさげすむように尋ねると、彼はまたぽろぽろと涙を流した。「僕、なにか悪いことしたの?」
将来たっぷりしてくれますけどね。
「だからスザンナはいなくなっちゃったの?」
乳母はスザンナって言うんですね。
「病気だって言ってたけどうそでしょ?」
エリックはしゃっくりをはさみながら、とつとつと話した。「だってきのうまで元気だったもの」
きのうまで元気だったとしても突然病に伏せることはあるだろう。それにたとえ軽い風邪でも大事な世継ぎの世話はさせられない。私には事情など分からないし興味もないが。だってこの幼児いっけんかわいく見えるけれど、私を何度も処刑台に送ったあの王太子なのよ?
「泣いたってスザンナは戻って来ないわ」
私はいつまでも泣きやまない幼児にうんざりしながら、しかたなくエリックの金髪をなでてやった。それはとてもやわらかくて、手のひらに丸い小さな頭の形を感じた。幼児の高い体温が私の手をあたためる。
「生きるっていうのは思うようにならないことだらけよ」
人生五回目の私が言うんだから間違いない。
「殿下は将来この国の王様になるけれど、だからってすべてが思い通りになるなんて思わないことね」
三歳児相手に
エリックは私の言った言葉の意味が分かっているのかいないのか、泣き晴らして赤くなった目で見上げている。
「殿下、お昼寝の時間ではないのですか?」
昼寝を必要としない私は図書館にいたけれど。
エリックは、
「そうだけど――」
と口ごもり、
「――スザンナがいないから」
と、不満そうな顔をした。
「殿下はもう三歳でしょう? 一人で寝られるようにならなくては」
私は彼の体にシーツをかけ、あやすように寝かしつける。いじめてやろうと思って来たのに、なんだか変なことになっちゃったじゃない。
やがてあどけない唇のあいだから寝息が聞こえ始め、私の指をにぎっていた小さな手からは力が抜けていた。私はそっとベッドから立ち上がる。スキルを使おうと壁側に近づき目を閉じたとき、
「また来てね?」
というかすかな声が聞こえた。あわてて振り返ると、閉じたまぶたをふちどるまつ毛が濡れている。なにがそんなに寂しいのだろう。
私は振り切るように、『瞬間移動』と唱えた。
屋敷の図書室に戻るまでの一瞬、なぜか冥界の入り口で聞いた天使の言葉が脳裏によみがえった。
――罪を犯すのは魂に問題があるのではなく、環境のせいだというわけです――
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