打ち上げ2

田んぼひとつ向こうのあぜ道を老男性が歩いている。

深い焦茶色の泥で濁った田んぼの水には稲の身体が半分浸かってしまい、上辺しか見えない。

まっすぐ上へうえへと伸びていく稲たちがおもたい泥につかまれて、澱んだ底から抜け出せないんじゃないか。

泥水に溺れた身体が必死に手を伸ばしてもがくように、ぼさぼさと無秩序に稲の葉が生え広がる。

田んぼの底を見ようと覗き込んだら水面に自分の顔が映った。



ザッザッザッ


誰かの足音がして振り向く。


「寺木君なにしてるの」


白いTシャツにベージュ色のプリーツスカートをはいた加藤が立っていた。

腰前に両手を合わせ短い歩幅で近づいてきて、あごを引き遠慮気味に——そちらのほうが視線が高いのに——上目遣いに訊ねる。


「食べ過ぎて休憩してた」

「ふーん。……さっきの壁ドン嬉しそうだったね」

「え……?」

「寺木君、嬉しそうな顔してたよ」


加藤の腰には細いゴムベルトがきつく絞められ、手のひらサイズの黒いバッグを肩に掛けている。

僕は眼のやり場に困り、もう一度足元の雑草に顔を落とす。

加藤の慎ましやかな微笑が聞こえる。


「今日は三鍋君と一緒に食べてたの?」


僕は答える。


「ううん。今日は話してないよ。静岡たちと一緒にいた」

「そうなんだ。寺木君、いつも三鍋君と一緒にいるイメージあるから」

「……そうだね」


僕は立ち上がりあたりを見まわし、加藤の顔を向く。

何かを決めたのか頷いた加藤が僕の眼を見たきり、じっと捉えて離さない。

僕は気後れしてもう一度あたりに視線を流す。

加藤が言う。


「寺木君て…………、三鍋君のこと好きなの?」

「ふぇ!?」

「だっていつも三鍋君と話してるとき幸せそうだもん」


空を覆う厚い雲がいつのまにか灰色になり、はるか上空でごろごろと雷の音が鳴り響いている。

僕は手を額にあて、もう片手で膝をつき体を折り曲げる。粗雑に上げた前髪が跳ね返ってぱらぱらと元あったところへ下りる。

今度こそ僕の視線はあてもなく中空をさまよい、間抜けににやけた顔が他人に晒されたままいつもの無表情に戻らない。


「あははっ。寺木君おもしろいね」


加藤が口に手を添え、僕の反応が軽くつぼに入ってしまったようで笑い続けている。


「ごめんなさい、いじるようなつもりはなかったんだけど……」

「……ああ、大丈夫。三鍋といるときそんなふうに見えてるのか自分……」

「うん。私だけじゃなくて女子はみんなそう言ってるよ」


へへへっと口もとをほころばせて笑うと加藤と視線がぶつかった。

やわらかく頬を染めた顔の加藤が、内側にまるめた毛先を指で触りながら僕のとなりに身体を寄せてから歩きはじめ、それに並んで僕も一緒についていく。

加藤が遠くを見たまま訊く。


「寺木君は好きな人とかいるの?」

「……わからない」


それだけ聞いて加藤は黙ってしまう。

ぽつぽつと地面に水がぶつかる音がする。雨が降ってきた。

雨が降り始めたときの、焦げた肥料のような匂いが鼻をかすめる。

熱を帯び乾いたねずみ色のアスファルトには、打ち付けられた雨粒でまばらな水玉模様が作られ、だんだんと黒い斑点が増えていく。


僕と加藤はどこへ行くとも決めず、ゆっくり進む加藤の歩調に合わせて田んぼに囲まれた田舎道を歩き続け、アスファルトに塗りつぶされた停止線で僕たちは——なぜか息が合ったように——立ち止まる。


空から落ちる雨粒が僕の頭にぶつかり、同時に加藤の長いスカートも少しずつ水滴で濡れていく。

雨音が増して半そでを着た背中を冷たい風が吹きぬける。

加藤は頷いて、ベルトをさわりながら声を落として言う。


「もし誰かに好きって言われたらどう応えるの?」

「……付き合うよ。多分」

「そっか」


僕たちも雑草も田んぼの稲もなにもかもじっと立ち止まり、ただ降り落ちる雨だけが静かな海に空疎に響くさざ波のように動いて————


そして徐々に徐々に————雨音が激しくなってゆく。


「もし寺木君がよかったら、私と付き合ってくれません……か」


雨の音に吸い込まれるように、加藤の弱弱しい言葉が空気中に浮かんだ。

その言葉がどこか関係ないところへ飛んでいくような、そんな気持ちでしか聞いていなかったものが、無常に降り注ぐ雨と共に重たく僕の身体へ衝突する。


想像はしていた。想像というより可能性としてあり得るとは思っていた。

でも僕には結城しか考えられなかった。結城しか考えたくなかった。


いままで告白されたことはない。告白なんて僕とは違う世界に住む人たちの遊戯だと思っていたし、いまも思っている。

好きな人が自分も好きだなんて数学の確率ではあり得ないんじゃないのか。好きな人と一緒にいて幸せになるなんてどこかのおとぎ話じゃないのか。好きな人に愛を贈るなんて言葉だけの虚構じゃないのか。


僕が加藤にしてあげられることなんてあるのだろうか————


頭のなかが黒い線でぐちゃぐちゃになる。


人は誰しも苦しむ。

すぐそばに幸せがあるからこそ、手が届きそうなそれを追い求めて苦しむ。もしそれが手に入ったなら、人は苦しまずに済むだろうか。苦しみを忘れられるだろうか。

僕が結城を忘れて、そんな楽な日々が送れたなら…………


「……はい……僕でよければ」


僕は加藤の胸に言ってしまった。

加藤の眼は美しい涙で潤い、唇を噛み締めて僕を見上げる。初めて見せた心から安堵するそのやさしい微笑みには、長い黒髪の暗い影が落ちるように僕には見え、しとしとと降る雨とともに儚く流れて消えてしまいそうな、僕にはそんな気がしてならなかった。

加藤は言う。


「手……つないでもいい?」

「うん」


僕はそっと右手を差し出す。加藤の指先が僕の指先にふれる。くすぐったそうに口もとをゆるめる加藤の赤い唇が、生々しい性的な人間のシルエットを脳裏にかすめさせる。

————それは男性か、女性か。


僕を夢想から引き剥がすように加藤の声が耳に届く。


「寺木君来週の休日暇?」

「……あ、土曜は部活あるけど日曜は暇かな」

「じゃあどっか出かけない」

「わかった」


触れ合った二人の指先がそれ以上重なり合わないまま、僕と加藤はぎこちなく歩きだし誰もいない十字路を越え、濡れてくすんだ墨色になったアスファルトの上を冷たい雨がただ雑音としてずっと降り続けた。

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