下校
————佐々木視点————
練習を終えて汗臭い正面玄関で履き替え外に出る。春の田んぼから漂う雨に濡れた土と雑草の混じった匂いがほんのりと鼻につく。
学ランをバッグに入れて上は白のワイシャツだけを着ている。無造作に腕をまくって、まだなま温かい風を肌に受ける。
正面玄関を出て左に進むと校門につきあたり、その右隣に自転車通学者用の駐輪場が設置されている。
迷うことなく自分の自転車が置いてある場所に行き、目を閉じて息を吸ってから三つ右のスタンドを確認する。
——あった!
嬉しくなって自然と口もとがほころぶ。
どうしようか。
ここで待つか、一度教室に行くか。
……教室に行ってみるか。
三階までの階段をのぼり、教室の明かりが見えたところで立ち止まる。ズボンに入れたシャツを少し上に引っ張り、空気が入ったような自然な感じにする。雑にくるまっている腕まくりを一度解いて、丁寧に三回折りたたんで七分袖くらいに整える。
声が聞こえる。まだ教室には何人か残っているようだ。
ゆっくりと近づく……。
…………
開いた扉から大股で勢いよく入る。
教壇で二人の生徒が話していた。
「お!団長じゃーん」
オレンジ色の派手なリュックを背負った男子が最初に気づいて声を上げた。
俺は軽く手を挙げてこたえる。
教壇にはもう一人いた。オレンジ男子の目の前で、教卓に肘をついて何かのプリントを読んでいる。
「今日早いんや」
「うん、トレーニングの日だったからね」
教卓越しのオレンジ男子に返事しながらも、俺の視線はもう一人のほうに向かっている。
その男子は俺のことを気にも留めずに、ぼそぼそよく聞こえない声で何か言って、二人でわやわやと盛り上がっている。
俺はゆっくりと——なぜか——足音を忍ばせて、プリントに夢中な男子に近づく。
「これから体育祭の準備たいへんだなー」
オレンジ男子が言う。それは共感を求めるというより俺に対して同情するかのような言い方だった。
一瞬不思議に思ったがすぐに気にする間もなくオレンジ男子が駄弁をふるってきたため、俺は適当に相づちを打ちながら早く帰らないかなと考えていた。
床に立つ俺に対して、二人は教壇に上っているから俺は少し見上げる構図になる。
五分くらい無駄話をしたら、オレンジ男子は充分喋り尽くしたというような顔になってスマホの時間を確認した。そして一瞬肩を突き上げその派手なリュックを背負いなおして、じゃあなとだけ言って帰っていった。
教室には二人だけが残った。
平行にまっすぐ伸びた細長い指にプリントを載せて、その下の背丈のわりに大きめの手の甲には青く血管が浮きでている。
チクッ。タクッ。チクッ。タクッ。
時計の秒針が教室に響く。
どちらも何も言わない。
俺は床から教壇に上がろうとして右足を載せかけ——
「だんちょーさーん」
静岡が右の口角を釣り上げて発する。腐ったものを見下すように顎を上げ、眉毛とともに曲がった切れ長の眼には開いた瞳孔が見える。
心臓が火照る。
載せかけた右足を床に下ろし見上げるかたちで、静岡の眼を射るつもりで見返す。
それを受けてわずかに眼を見開いた静岡が一歩近づき、プリントを放した手のひらを俺の顔に覆いかぶせようとする。
時計の秒針が徐々にきこえなくなる——
手のひらが顔に触れるか触れないかほど近く——その白い滑らかな肌は俺の心臓がチョコレートのように溶けてしまいそうな快楽的な温度を帯びて——
秒針の音が消失し、胸の鼓動が内臓を波打つ。
腕を掴もうとしたが目の前の誘惑に負けて溶けた俺の何かは、もう元のかたちに戻ることなく、その官能を沸きたたせる妖艶な手のひらを、指を、温度を受け入れる。
「……」
口をふさがれ、鼻息が静岡の手にあたる。
——んっ、んっ
下半身がいうことを聞かなくなりそうになる。
力を絞り出して腕をつかみ、そのまま前に倒れるように前進して静岡を黒板に押し付ける。
「はあっ、はあっ……」
背は俺のほうが高いから見下ろす格好になった。
静岡は口を曲げて嘲笑う。眼鏡の奥に真っ黒く染まった瞳孔がぴくりとも動かず俺をとらえる。
「だんちょう、だもんね」
「……なんだよ」
ふーんと不満そうに顎を突き出して俺を眺めている。黒く長い睫毛が揺れる。
俺は静岡の首に手を当てる。
「…………」
「こんなことで動揺してちゃ務まらないよ」
静岡はそう言って俺の頬に手を添える。
——チクッ。タクッ。チクッ。タクッ。
——チクッ。タクッ。チクッ。タクッ。
俺と静岡はどれくらいそうしていたかわからない。数秒だったかもしれないし、数十分だったかもしれない。
だが俺はこれ以上、それまで形あるものとしてまとまっていた何かが、形をなくして溶解してしまうのが怖かった。もとには戻らなくなってしまいそうな不安に耐えられなくなった。俺は静岡から手を離し床にしゃがみ込んだ。
……それはいびつな形をしていたかもしれない。間違った形をしていたかもしれない。だけど確かなものとして俺と静岡の間に存在していた。それが形を失って、ただやみくもにどこへ行くかもわからず流れていくのが怖い。
静岡は立っている。
新品のように白く清潔で汚れのない靴。まったく乱れなく整然と結えられている靴紐。
俺はほどけた自分の靴紐を結びなおす。
すーっと鼻で大きく息を吸ってジャンプして立ち上がる。
そこにはいつもの普通の友達としての静岡がいた。
「帰ろっか」
どっちが言ったかは教室を出た時にはもう忘れていた。
俺たちは電気を消して暗くなった教室を振り返らず歩く。
正面玄関から外に出るともう街灯がつきはじめ、春の夜らしいほの冷たい空気が漂っていた。
それでも俺たちはそんな冷たい風を気持ちよく身体で受け止めて、横に並んで一緒に自転車を漕いで帰った。
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