部屋

あじさし

部屋

 きっと、今朝もわらわらと駅に集まる人影を上空から俯瞰すれば、巣から出たり入ったりする蟻とそう変わらないんだろう。蟻のような人生、蟻のようにせっせと歩んで、追い落としたものに目もくれない。そして、蜂のように働いてなにも疑問を持たず、せっせと死んでくだけ。虚ろな目がときに嬉々として語るのは、他を追い落とし、自分が追い落とされないために綴る型どおりの死んだ言葉。


 私はなにもかもうんざりしていた。 

 ある朝、私は痴漢を見かけた。明らかに男が制服の子に近すぎる。スカートの下に手が伸びているように見えた。こんなあからさまな状況、誰が見たってそうなのに誰も女の子に声をかけなかった。私は周りの乗客に聞かせるつもりでその男に声を掛けたのだった。男は怪訝そうな顔をしてこちらを向いて、せせら笑った。その制服〇〇高校だな、と男は言った。なめまわすような視線でこちらを見ながら勇気あるね、発育はこれから?言いがかり付けたの今なら聞かなかったことにしてあげるよ。取り消す?取り消さない?何か言ったらどうなんだ?

 うっせーな。その手に持ったスマホ、見せてみろよ。

 自分の声が夢の中でそうするように、とても虚ろに聞こえた。

 にわかに高まる車内の緊張感を一変にぶち壊したのは、何とも呑気な声だった。振り向くと女だった。黒いタンクトップに細いデニムを穿いて少しウェーブのかかった長い髪。まるで、アメリカのアクション映画に出てくるみたいな女だ。

「オジサマー」と彼女が言うとスマホを向けて写真を撮った。

「いい顔だねえ。バッチシ取れてるわよぉ、証拠も」

 そう言うと彼女はスマホに映った男の卑劣な姿を見せつけた。男は気色ばみながら何かを言っていたが、周りからも何人かが、見ていたと声を上げ始める。電車が止まり、ドアが開いた瞬間、脱兎のごとく駆け出そうとする男を女は手品のように突っ転ばせて腕をねじ伏せ、床に這いつくばらせた。

「そこのお兄さん、悪いけれど女の子と一緒に駅事務所にこの下手人も連れてってくれないかしら。私、今朝は急いでるの」ドア付近にいたサラリーマンに声を掛けると、男を連れていかせた。女の子が下りる時、ありがとうございました、と言うと女は何も言わずににっこり笑った。

「急いでるって、みんなそうじゃないですか?朝だし」私は吊革に片手をかけてもたれながらつまらなそうに車窓を眺める女に言った。

「それもそうね。でも本当よ。降りる駅まだしばらく先だし。それに」

「それに?」

「私警察って嫌いなのよね。極力関わりたくないの」女は悪戯っぽく笑った。


 女の名前はSと言った。自分でそう名乗ったのだ。 

 たまたま、小説の趣味が近くて、私が読みたいと思っていた本をいくつもSは持っていると彼女は言った。何かとてもよくないことをしている気がしたけれど、私はSの部屋へ行った。それから、そんな変わった女の部屋に私は出入りするようになっていた。親には、友達と勉強するからと言ってはよくSの部屋に行った。私には友達なんていない。Sのそばにいるときだけ自分が異物ではない気分がして心地よかったし、クラスメートとはできないような話をいくつもする仲になった。

 Sは私が来るとよくサイフォンを使ってコーヒーを淹れてくれた。たいていはキューバ豆の時が多かった。湧いたお湯がフラスコからロートに上がって挽いた豆の上に溢れ、それをSは慎重にスプーンで搔きまわす。

「ん、何?」

「別に。なんかお湯が上がってきてコーヒーになってまた落ちるのって見てて飽きないですよね」

「そう?」彼女は楽しそうに笑った。

「何がおかしいんですか?」 

「ううん。別に」

「なんですか、それ」

 コーヒーをカップに注いでくれると、彼女は換気扇の下で金属製のキセルみたいな形の器具に両切り煙草を挿して火を点ける。ジッポーが気持ちいい音を立てて蓋を閉じた。正直、煙草の匂いは嫌いじゃない。

「悪いわね。実は、今日この後お客さんが来る予定になってるから、奥の部屋に行っててもらっていい?」

「いいですよ」

「おそらくそんなにはかからないと思う」

「宿題でもやってますよ」

 私は右手に鞄、左手にコーヒーのコップを持ってダイニングの入り口に立った。

「あの、そのお客さんにもコーヒー淹れてあげるんですか?」

「ううん。今日のお客さんは紅茶派らしいわ」

「そうですか」


 私にはSのほんの一部しか見えていないのだろう。


 鉄枠のついたベッドのある殺風景な部屋でノートにシャーペンを走らせていると、時々数人の男らしい声とSの声が響いてくる。私は木のドアに頭を持たれかけて耳を澄ましてみるけれど、所々単語を聞き取ることしかできなかったので、あきらめて机に戻った。

 それにしても、必要最低限の物しかない部屋だと思った。ベッドと四角い姿見とクローゼットの他には何もない。なさすぎる。私は退屈な参考書のことなど忘れてクローゼットに手を掛けた。Sがよく着る黒や灰色のシャツやデニム以外に何を着るのか突然気になったのだ。まだ会話が続いているようだ。私はそうっとクローゼットの扉を開けた。

 拍子抜けするくらい、中にめぼしいものはなかった。スーツとブラウスが数着と衣装ケースがいくつかあるだけだ。ため息をついて、手提げバッグの一点に触れると予想に反して何かが入っているようでゴツゴツしていた。恐る恐る開けてみると、ボックスの真ん中に赤いボタンが付いたリモコンのようなものだった。

 死んだように静まりかえっていた扉が突然開けられた。

「え、エアコンってこのリモコン、じゃないですよね」

 とっさに口から出た言葉は自分でも笑っちゃうくらい滑稽だった。Sは口の両端を広げたが目は笑っていなかった。

「あさみちゃん」と言いながら彼女が迫ってくるので私は壁に背中をまともに打ちつけてしまった。

「ふふっ、よく見付けたわ。もっといい物みせてあげましょうか?クローゼットの下の衣装ケース、そう、その下の抽斗引っ張ってごらんなさい。ゆーっくりね」

 抽斗が重く感じられるのは右肩に彼女の手が添えられているせいだろうか?それとも?

 中からは小包が出てきた。

「中、開けてみなさい」

 おずおずと白い厚紙の蓋を取ると、基板のようなものの上にたくさんのケーブルが繋げられていて、真ん中にデジタル表示の液晶タイマーが取り付けられている。

「目覚まし時計、にしてはずいぶん立派ですね」

 Sは楽しそうに笑った。

「立派かぁ、そうね。だってタイマーに繋がってるのはキバクソーチだもん」

 見た瞬間理解したけど、言葉が暴力的なまでに現実の輪郭をくっきり描き出した。目の前に広がる光景が急速に小さくなり、背中に鳥肌が立って、肌がうっすら湿ってゆくのを感じた。

「どこかのビルでも破壊するんですか?」

「ううん、そこまで規模は大きくない。そうね、電車くらいなら簡単に吹っ飛ばせるわね」

 私は生唾を呑んだ。

 私は生唾を呑んだ。

「明日、○○線のXX橋ーXY台駅間の橋梁を10:23頃通過する予定の列車をね」天気の話でもするようにあっけらかんとSは打ち明けた。

「そんな打ち明け話をしてなんなんですか?私がこのことを他の人に話さないとは限らないじゃないですか」

 Sは一瞬鋭い痛みを覚えたかのように眉を歪めて微笑みかけるとそうっと私の手に握られたリモコンを手に取った。私はされるがままに手の力を抜く。彼女は私の両手首を握ると身体を抱き寄せてゆっくりと唇を重ねた。とっさに私は目を瞑った。けれども、それをする前とそれの瞬間、それをした後の光景がフィルムのコマを一枚ずつ送ってゆくように目の奥に焼きつけられていった。

 Sは、私のうなじと右ひざを抱えるとベッドに押し倒す。制服のスカートのホックを下ろしてゆくなめらかな音だけがかろうじて現実と私を結び付けていた。猛禽類が獲物をその脚で捕まえたときのような目でSは私を見つめた。

「怯える顔も素敵ね」 

 私は乱れる呼吸をかろうじて整えながら言った。

「こうすれば私が黙るだろうと?」

 その瞬間猛々しいものが湧き上がって、自由になっていた手でSの顔を思い切り平手打ちをしていた。頬には上手く当たらなかった。それでも、手のひらに跳ね返った痛みがじわじわと広がってゆくのを感じた。

「続きがしたかったら私を殴って下さい。手足を縛って首輪でもつけて自慢の体術で私をなぶりなさいよ」

 Sの眼の光がかすかにちらついた。

「心配しないで。あなたのことは誰にも話しません。だから安心して明日の計画でもなんでも遂行して下さい」

 スカートを整えて鞄にノートと参考書を入れる間、彼女は一言もしゃべらなかった。

「さよなら」


 部活を辞めてから放課後の時間を持て余すようになった。もともと本当に好きだったわけじゃないけれど、今の自分は本当に何者でもなくなってしまった気がする。

 改札口を抜けると、足はSの部屋へと向かっていた。まるで運営が終わったウェブサイトのリンクをクリックしてみるみたいな心地だ。

 鍵のかかった冷たい扉に背中を付けて座っているとSがやって来た。

「もう来ないのかと思いました」

「それは私のセリフよ、あさみちゃん」

「その様子だと上手くいかなかったんですね」

「なんで分かったんだろう」

「分かりますよ」

 風船の空気が抜けてゆくようにSはため息をついた。 

「コーヒー、淹れますよ」


 それまでSがやってくれたように、見よう見まねでコーヒーを淹れてみたけれど、案外上手く淹れられたようだった。Sはなぜか寂しそうな目をしてコーヒーを黙って飲んだ。

「あさみちゃん」彼女はいつものように両切り煙草に火を点けながら言った。

「もうすぐここにも警察が来る。あさみちゃんもコーヒー飲んだらここを早く出なさい」

 私は一拍置いてから質問をした。

「帰ってきた時の装いからして、まだ『あれ』持ってますよね」

「あさみちゃん」

 私はSが言いかけた言葉を押しとどめた。

「私はここから出ません」

「何言って、ちょっと」

 私は自分のスカートに手を掛けて下ろし、赤いリボンを緩めてブラウスを脱ぎ捨てた。Sが止めようとするのを振り切って下着を下ろし、スポーツブラから頭を抜いた。Sににじり寄ってゆくと胸やおなかを生暖かい空気がまとわりつくように感じられた。

「あんなものはもう要らないんです」

 私は溺れそうな人みたいにSの頬を両手で掴み、唇を奪った。Sの手のひらから煙草ごと金属のシガレットホルダーがテーブルに落ちて、コトッと音を立てた。

「ねえ、Sさん。なんで昨日私が平手打ちをしたか分かりましたか?」

 Sは一拍してから、なんとなく、と答えた。

「私、もう決めたんです。あなただけ行くのは許さない。私も連れて行きなさい」

「こんなことをしてはいけないわ」

 Sは力なく呟いた。彼女は一回り縮んでしまったように見えた。

「私が言えることじゃないわね。未来ある娘がこんなことをしてはいけない、とか」

 あきらめたように呟くと、Sは私の腕の中でもぞもぞと動いて立ちあがった。

「こっちへおいで」

 ベッドルームに連れられてゆくと、使われることのなかった爆弾の小包をベッドに置いた。ベッドに腰を掛けると膝の上に私を座らせて、背中から抱きすくめた。頭の後ろに彼女の息遣いをじかに感じた。窓からは夏の最後の烈しい光が容赦なくアスファルトを照りつけていたのに、彼女の太ももや柔らかい乳房から伝わってくる熱がとても心地よかった。

「Sさん」

「何?」彼女は腕の力を少し緩めた。

「私、あなたのこと完全に許したわけじゃないですからね」

「この状況でそれ言うの」彼女は愉快そうに笑った。

「教えてください、あなたの本当の名前を。それであなたを許します」

「そんなことか、分かった。偽名にしても『S』なんてあからさまだものね」

 彼女は私に名前を伝えた。彼女の本当の名前を口にすると、その度に照れくさいのか笑った。

「これで思い残すことはないです」

「本当に、いいのね」

 いつの間にか手に取っていたリモコンを彼女は私の手に握らせた。そして、その上から手のひらで包み込むように私の手を握った。

「行こうか」

 カウントする。


 3。


 もう引き返せない。戻れない橋を二人で渡ってしまったから。熱を持った彼女の手が小刻みに震える。


 2。


 稲妻のように炎が焼き尽くす瞬間を待ち構えている。堪える声が喉の奥からほんの少しだけ漏れだす。


 1。

 

 そして、一点の真っ白い光が急速に膨張するイメージが見えた。


 「爆ぜろ」

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部屋 あじさし @matszawa

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