第3話 制服

 中学の進路指導室には受験校を調べるための資料が置いてある。

 ドサッとした、広辞苑の半分くらいはあるかもしれない資料。

 パラパラッとめくって、この辺かなと当たりをつける。

 一頁、一頁、学校名を目で確認しながらめくっていく。

 指先が忙しない。誰も急かしてないのに。

 もし誰かが僕を見ても、やましいことをしてるとは思わないだろう。

 進路指導室だし、めくってるのは進学資料だし。


 ガラッと突然扉が開いて、反射的に資料を閉じる。

 髪の毛を短く刈り上げた体格のいい体育教師がジャージ姿で現れる。向こうも驚いた顔をしている。

 けどすぐにその顔はいつも通りの緩んだ表情に変わる。怖がられるのは心外らしい。

「なんだお前、そろそろ昼休み終わるぞ?」

 僕は小さく「すみません」と言って席を立とうとした。その時教師は僕に声をかけてきた。

「なんだ、進学先調べてたのか。三年でもまだ決まらない奴が多いのに二年から熱心だな。最もお前はそんなに調べなくたって、行くところ、大体決まってるだろう? 上の奴は簡単に決まるんだよ」

 はぁ、とつまらない返事しかできない。

 この教師の言ってることはどれくらい本当なんだろうか?

 成績の優劣で志望校の決定の早さが変わるんだろうか?

 確かにハルは僕ほどじゃないけど、教科によっては僕の成績を上回る。


「そろそろ教室に戻れ」と言われ、失礼しました、と逃げるように進路指導室を後にする。

 目標は達成されなかった。

 ハルの行く予定の高校の制服が来年からどう変わるのか、確かめられなかった。

 あの、こじんまりとした膝が顔を出す丈のスカートを履いたりするんだろうか?

 だらしなくブラウスの第一ボタンを開けたりして?

 ――その考えは僕を揺さぶった。

 見てみたいという気持ちと、そんなことがあってはいけないという気持ち。

 いくら走っても追いつけない自分がもどかしい。


 よく、なんにもないだだっ広い公園という名の草原に連れて行かれた。僕とハルは競い合うでもなく、がむしゃらに走り回った。どちらが先でも後でも問題なかった。

 手を繋いで走ると、なぜか必ずどちらかが転んだ。

 転んで、泥だらけになって、擦りむくとどちらかが泣いた。

 どっちかのお母さんが走ってきて「大丈夫?」と僕たちを抱き起こす。

 もう一方のお母さんが濡れたシートを持ってきて、丁寧に傷についた泥を拭く。

 そうしているうちにケガをしてない方もなぜか悲しくなって泣き出してしまう。

 お母さんたちを困らせる。

 双子のお母さんたちは微笑み合って子供をなだめる。

 それでも僕たちは「うわーん」と大きな声を上げて一緒に泣いた。「うわーん、うわーん」。

 あの頃は年齢も、学校もなにも関係なく、僕たちは自由で対等だった。ひとつの年の差があっても、僕らはまるで母さんたちみたいに双子のようだった。


『私立併願の志望校ってどうやって決める? ランクかな? 学費かな? 通いやすさ?』

 机の片隅でタイマー代わりにしていたスマホにメッセージが入る。

 要するに今、暇なんだなと当たりをつける。大方、勉強に飽きたのか。

『もしもし、電話悩み相談室ですが』

 スマホの向こうでハルが驚いてるのが目に浮かぶ。

 ハルはたまに僕にメッセージを送ってくる。僕は片言で返事をする。つまりその程度の返事しか僕に求めていない。

 まさかこんな風に電話が来るなんて思ってもみなかったんだろう。

『えー、まさか電話がかかってくると思わなかったよ』

 もしかするとやっぱり、電話はやり過ぎだったかもしれない。おどおどする声に反省する。

 僕はいつも通り、AIのように半分予想された答えを返せば良かったんだ。しくじった。


『志望校だけど』

『うん』

『決まらなくて』

 へへっと彼女の顔が電話の向こうで崩れる。僕の知るハルは表情豊かだ。

『制服で決めたら?』

『ええっ!? 制服? アキ、それマジで言ってんの?』

『うん、まぁ』

 しん、と音が途切れて通話が終了したのかと思う。

 今日の僕はふざけすぎだ。

 いつもと違って自分が自分に困る。

『――月が』

『うん』

『窓から見えるんだけど。そっちも見える?』

 ガサガサッとハルの移動する音がして、月の見える窓を探してるんだなとわかる。カーテンレールを厚いカーテンが走る音がする。彼女なりに、必死に。


『あったよ、月!』

『今日は満月までもう少しってとこだね』

『そうだね、偏った目玉焼きみたいな』

 うん、と心の中で頷く。

 また音が途切れる。

 規則正しい吐息が聞こえる気がする。

 空調の効いた部屋で窓を開けず、彼女は同じ月を見ている。

『僕も月と同じなんだ』

『なにそれ?』

『満ちる時と欠ける時があるってこと』

『⋯⋯躁鬱?』

『違う、そういうんじゃなくて。いつも同じ僕じゃないってこと』

 納得がいかないのか、また黙り込む。

 きっと強く月を見つめてる。僕はそれを月を通して感じてる。

『変わるの? アキは』

『誰だってそうでしょう?』

 はぁっと、今度はあからさまなため息が聞こえた。

『ダメ。変わらないの、わたしの知ってるアキは。アキはアキのままでいて』


 その電話はそれ以上盛り上がる要素の欠片もなく、お互い了承して切れた。

 今度は真空管の中のように本当の無音がスマホを通して聞こえた。ハルのいない向こう側は宇宙空間のように寒そうだった。


 変わらないままの僕は存在するのだろうか?

 幾つもある平行世界の中にはそんな僕がいるんだろうか?

 ただひとつわかったことは、ハルは今の僕を好んでくれているということ。

 ――ベッドから月を見ながら考える。

 結局、ものの本質は変わらない。

 草原を対等に走ってたあの頃と今で、本質的には僕らは変わっていない。

 だからもし、彼女の制服のスカート丈が例え短くても、首筋が見えるほどブラウスの襟元が開いていても、ハルはハルだ。

 僕がいちばんよく知っているはずだ、彼女の本質を。

 月の明かりは満月にみたないのに煌々と僕を照らして、見知らぬ力で僕の気持ちを和らげる。


 ああそうだ。同じことだ。

 僕もハルが変わっていくのを見たくなかったんだな。

 ふと、腑に落ちた。

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