第10話 船旅
眼下で見渡す限りの深い青が
ベルは船の手
初めて見るこの世界の海にベルの心は踊った。前の世界と比べると海が澄んでいるように感じる。
大型客船ということだが、ベルが知る大型客船より一回りも二回りも小さい。前の世界の大型客船の乗客人数が二千だとしたら、この船は恐らく千以下だ。
「妖精様、ボッカ様の具合はどうですか?」
クレアが穏やかな微笑を浮かべて背後から歩み寄った。
「うーん。そこまでは酷くないと思う。ずっと寝込んでるけどね」
ベルは振り向いて困った顔を見せた。乗り慣れていない船にボッカは船酔いをして、出港してから部屋にこもっている。
「ずっとついてたかったけど、ライオネスが見張り番をするから休んでろだって」
「魔法では怪我は治せても、病は治せませんからね。力になれなくて申し訳ないです」
クレアの薄い眉毛が八の字になる。
「わたしの魔法でも無理みたい……」
しょんぼりとベルの肩が落ちる。長い耳も下がっている。感情の動きが人間よりもずっと分かりやすい。
クレアは少し考える仕草をしてから腰の荷物入れに触れた。中から小さなガラス小瓶を取り出す。小瓶の中には透明な液体が入っている。
「妖精様。これを」
クレアは手のひらに小瓶を乗せ、ベルに見えるようにした。
小瓶といってもベルにとっては大きい。背丈ほどはある。ガラス全身が映り込んだ。
「水……?」
「そうです。元はただの水ですが、わたしが祈りを捧げました。聖水をご存じでしょうか?」
聞いたことのある単語にベルの頭が上下する。海外の映画だっただろうか。
「妖精様は人間社会に身体が合わないようにお見受けしましたから作りました。少し飲めば身体が楽になるかもしれません。ボッカ様が元気になられたらお預けします」
目を凝らすと聖水はわずかに青い光を帯びている。魔力が多少こめられているものかもしれない。
「ありがとう」
ベルはにこりと笑い、頭を下げる。
「あと妖精様じゃなくていいよ。ベルって呼んで。わたしは偉くないもの」
クレアは目を丸くした後、顎に軽く手を当て、
「そう……ね。わたしたちの信仰では、妖精様も信仰対象だから、そうするものと思ってたけど……、こうして一緒に過ごしてると同じ女の子だと分かるわ」
自分に問いかけるような口振りで言葉を並べてからベルを見つめる。
「教えてくれてありがとう、ベル」
二人は顔を突き合わせてクスクスと笑う。小鳥の囀りのような声が流れる。爽やかな風が吹き抜けた。
クレアは空を見上げて目を細め、遠くを見た。
「わたしの教会に毎日祈りを捧げる聖堂があるんだけど、そこには大きなステンドグラスがあるの。色とりどりのガラスが絵画のように嵌められたものよ。そこには偉大なる創造神を始めとする神属の方々が描かれているの。原初神、精霊、神獣——妖精もよ。本当に綺麗で素敵なの。お祈りの時間を忘れて見入っちゃうくらい」
後半の言葉は口元を押さえて小声になる。クレアは茶目っ気のあるどこにでもいる少女のような表情をしていた。
「もしかして、クレアって変わってる修道女?」
ベルの疑問に人差し指を立てて「ないしょ、よ」と答え、
「ステンドグラスの中でわたしは妖精が大好きなの。とっても可愛らしいのよ。ベルにも見せてあげたい。そんな妖精とこうしてお話しできて……わたし、嬉しいの」
喜色満面の笑みを浮かべる。
ベルは照れてじっとしていられず、空中を蛇行するようにふよふよと飛び回った。それをクレアがにこやかに目で追う。女子二人が穏やかに過ごしていると、「おやまあ!」と後ろから声がした。
小型の荷台を引いた中年の男がベルを口を開けて見ている。クレアが慌ててベルを隠そうとすると、男は人の良さそうな表情でのんびりとした口調で言った。
「小さい頃はたまに見たことがあったが、久々に見たなあ!」
荷台には鉢が並んでいて花々が咲き誇っている。敵意は一切感じられない。ベルは恐る恐る男に声をかけた。
「おじさんは妖精を知ってるの?」
「ああ、もうとんと見なくなってしまったがなあ……。お嬢さんが久しぶりだ」
訊けば男は花屋を営んでおり、注文を受けた品を届けに行くところだそうだ。先々代から続く花屋は安定して質のよい花を育てているらしい。気候に合わないものも扱っていることから遠くから注文が入ることも少なくないのだという。
荷台に乗せられた花々は、ベルの目には生き生きと映っており、大切に育てられているのだろうことが推測された。
「昔は花を世話してると、たまぁに妖精が姿を現すことがあってな。そういうときは、いい花が育ったんだなあって思ったもんだよ。どうだい? この子たちは元気かい??」
男は腰を屈めてベルの視線に合わせる。太陽の下で土を弄っているからだろうか。顔や手に刻まれた皺が老いではなく、むしろ生命の尊さを感じさせた。
「うん。花たちは元気だって言ってるよ。おじさんのことが大好きみたい」
ベルの言葉は比喩ではなく、現実のことだ。ベルにはあらゆる生物の声が聞こえる。植物の言葉は単純なものではあるが、「ウレシイ」「キモチイイ」「シアワセ」と率直な感情を伝えてくる。
男は嬉しげに目を細める。目尻の細かい皺が増えた。
「ありがとう、お嬢さん。可愛らしいお嬢さんに、これはお礼だよ」
ベルに小さな桜色の花が差し出される。一重咲きで慎ましやかな可愛らしさがある。
「ありがとう」
人間にとっては小さくても、ベルにとっては充分な大きさだ。茎を横髪の部分に差し込むと、亜麻色の髪に映える。花の素朴な愛らしさが森の化身であるかのような妖精の
「まあ、とても似合うわ!」
「こりゃあ
クレアと花屋の男が手放しで称えるとベルの頬が紅潮した。
「ボッカもそう言ってくれるかな??」
もじもじと胸の前で両手の指を絡ませる少女に微笑ましい視線が向けられる。
「ええ、きっと」
確信めいた響きのある答えに、ベルは花が綻ぶように笑顔を浮かべる。ボッカとは親しくしてくれるけれど、外見を褒められたことは一度もない。それほど近すぎる存在だった。その時間だけは期待に胸を膨らませた。望む言葉をもらえるような気がして——。
しかし、花の命は儚い。ボッカが寝込んでいる間、一日また一日と時間が過ぎていく。魔法をかけずに自然なままの花は、あっという間に萎れてしまった。花が元気を失くした時点でベルは気がついたが、そのときはもう何もかもが遅かった。結局、花を身につけた姿をボッカに見せることはできなかった。
「お花さん、ごめんね」とベルが心の中で謝罪して花を髪から取ると、金色に光る小さな種だけが残った。その種はお守りとしてベルのポーチにしまわれることになった。
*****
船が終着港まで着き、再びボッカたちは陸路を進むことになった。魔王の根城が近くなるせいか、北へ向かえば向かうほど魔物の強さが上がる。それでも魔王討伐隊の足が止まることはない。
山岳に棲む
吹雪に身を潜める
深い谷底で冒険者を待ち受ける
そうして、魔物を倒しながら力をつけ、ボッカたちは魔王城に辿り着いた。
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