第6話 勇者ボッカ

 ボッカの日課は朝早く家の手伝いから始まる。牛に餌をやり、好天なら放牧する。終われば、村の見回り。柵の点検も欠かさない。村人の命がかかっているから手は抜けないのだ。空いた時間に太い枝を使って素振りをする。小さな村に剣の師範などいないから聞き齧りの知識で我流だ。家業で筋肉は鍛えられているのが救い。最近ではここに魔力の特訓も加わる。

 ベルは地道に努力をするボッカを近くで見ながら感嘆の溜息をついた。決して腐らずひた向きに行動する姿は尊敬に値する。ベルの目には輝いて見えた。自分であれば、もしかしたら拗ねてしまっていたかもしれない。それほどボッカは努力家だった。報われて欲しいから応援したくなる。人間としての魅力にベルは惹かれていた。

 ボッカは重心が前になるように足を一歩踏み出し、枝を頭上から振り下ろす。ビュッと風を切る音が鳴る。振り下ろした後は後退する。何度も繰り返していくうちに汗が頬を伝う。

 的を使って突く練習もする。剣に添えた右手を引くと同時に足腰を前に繰り出し、左手で突く。的に当てた後は素早く体勢を戻す。

 ベルは剣術についてまったく無知なことを嘆いた。剣道やフェンシングでも習っておけばボッカの力になれたかもしれないのに、と。

 考えた末に板くずなどの不用品を魔力で浮遊させて動く獲物にした。ベルの魔力に包まれたものは強度が増す。これがいい的になり、実戦さながらのトレーニング器具になる。ボッカはいたく喜び、修行の幅が広がったとベルに礼を言った。

 ベルは舞い上がるような気持ちになった。ボッカの役に立っている。この修行は他の誰にも話していない。二人だけの秘密だ。それがとても特別なことに思えた。

 ベルは魔力を最大限に使い、廃材を操る。ボッカは剣代わりの枝でそれらを叩いたり突いたりして落とす。始めのうちは空振りが多かったものの、少しずつ反射神経が鍛えられ、すぐに反応できるようになっていった。


    *


 その日もボッカとベルは修行に励んでいた。

 体内にある魔力の扱いにも慣れ、剣の練習も順調だった。不規則に宙を舞う廃材をコン、カッ、トンとリズミカルに弾いていく。

 物語のように炎を出したり、空を飛んだりすることはできない。ボッカによれば、偉大な魔道士は火や水を操ることができるらしい。基礎知識がないベルには一体どうやったらできるのか見当もつかなかった。どうにかして莫大な魔力を活用したい、と二人は悩む。

 突如として村にある物見台に設置された鐘が大きく鳴り響いた。村に危険が迫っている信号だ。応戦しろではなく、逃げろという意味。西側からの警報でボッカたちの位置から離れている。村人たちが口々に喚いて鐘とは逆方向に散らばっていく。

「ボ……ボッカ……」

 ベルは物々しさに不安になってボッカに寄り添う。長い耳が下向きに垂れて鳥肌が立っている。何か嫌なものが近づいてくる気がする。

 ボッカは少しだけ躊躇ってから、音がした方へ駆け出した。意を決した表情で騒動先を睨む。

「あ、待って……!」

 ベルの手は置いていかれる寸前で服の裾を掴み、振り落とされそうになるのを耐える。

 物見台周辺には人の気配はなかった。食料や道具が地面に散乱し、村民が慌ててこの場を離れたことを物語っている。

 三十メートル程先に人型の魔物が雄叫びを上げながらこちらに真っ直ぐ向かってきていた。離れていても巨体がしっかりと目視できる。身体が重いのか速度は遅いらしい。住民たちが逃げ切る時間はあった。けれども、ボッカは魔物の前に立ち塞がる。人が無事でも村が壊されてしまうからだ。一度壊された生活は立て直すまでに時間がかかる。そこへさらに雨季や冬季が訪れれば、人の命に関わる。今まで災害や魔物による被害を受けて学んでいた。

「俺の力、今役に立たなかったら意味がない!」

 ボッカの言葉は自分に言い聞かせるようだった。魔物の力は強大。ただの人間では敵わないと分かっている。それでも、ボッカは引かない。太枝を握る手が震えている。反対の手で上腕を押さえた。

 ベルはボッカの肩に乗り、強い意志を感じ取った。身を強張らせて、存在も知らない神に祈る。

——お願い、ボッカを守って……!

 金色の魔力がボッカを包み込む。体内にあるボッカの魔力と結びつき、植物を連想させる翡翠色が光を帯びた。身体中に膨大な力がみなぎる。しかし、それを射出するようには操れない。「だったら……」とボッカは枝を身体の前で構える。

 魔物との距離は約十メートル。身体は筋骨隆々きんこつりゅうりゅうの人間、頭部は眼光鋭い牛。手には棍棒を持っている。ボッカでも名前を知っている魔物——ミノタウロスだ。視界に入るものを蹂躙じゅうりんする狂暴性がある。

——村に入れてはダメだ!

 ボッカは深く息を吐き、ミノタウロスをしっかりと捉えた。強く地面を蹴る。猛然と距離を詰め、振り上げる棍棒を避ける。筋力を得る代わりに敏捷性を犠牲に進化したのか遅い。一振りだけでも風圧で身体が煽られそうになる。食らったら一撃で戦闘不能になるだろう。

 ボッカはミノタウロスの攻撃をかわしながら懐に飛び込んだ。手に力を入れる。魔力を放出できないのなら、いっそのこと身体に留めておけばいい。

 枝とそれを握る左腕に魔力をこめる。感覚を研ぎ澄ませる。何よりも鋭い一撃を。一点集中。

 咆哮ほうこうと共に左腕を突き出した。魔力のこもった鋭い突きがミノタウロスの腹部に叩き込まれる。

 ドガンという鈍い音がし、ミノタウロスの巨体がほんの少し宙に浮いた。緩慢かんまんな動きでゆっくりと後ろに傾く。恐ろしい魔物は呆気なく地面に埋まるように倒れた。一帯を揺らすほどの地響きが鳴る。

 ボッカは力を使い果たしたのと、強い震動でその場に座り込んだ。荒く呼吸をする。地面にぽたぽたと汗が落ちた。左腕の筋肉が悲鳴を上げている。無我夢中で自分でも何が起こったか理解していなかった。

 そんな彼を現実に引き戻したのは、「うわああん」という子どものように感情が剥き出しの泣き声だった。肩に乗った小さな妖精が大粒の涙を溢している。

「ボッカ……ボッカ……無事で……よかった……!」

 ボッカは困ったように笑い、人差し指でそっとベルの涙を拭う。

「こわかった……! 怪我でもしたら……!」

 あとは言葉にならず、喉を震わせる。

「ごめん」

 ミノタウロスはもう微動だにしない。ボッカの突きを食らった腹が円状に凹んでいる。完全に事切れていた。

 それをやったのが自分だとはいまだに信じられなかったが、ボッカにもはっきりと分かる感覚があった。泣き続けるベルの背中を撫で、優しく語りかける。

「君が魔力を注ぎ込んでくれたんだね。いつもより力が出た」

「う……ううん。ボッカの力だよ。わたし、ほとんど何もしてない」

 ベルは鼻を啜り、しゃくり上げた。視えたのはボッカの膨大な魔力がベルの魔力と結びついて少しだけ増えたくらいだ。魔力を貸したということになるのだろうか。

 ボッカは両手で椀を作り、ベルを乗せた。幼気いたいけな妖精が見上げている。視線を合わせ、柔らかい表情をする。

「ありがとう。俺の小さな妖精」

 ベルにやっと笑顔が戻り、嬉しそうに耳を上下に動かした。


 静寂が戻った村に人々が戻ってくると、ボッカの働きにみんな仰天した。誰も彼にそんな実力があるとは思っていなかった。魔物の死骸というこれ以上ない証拠を目の当たりにし、村人たちはボッカを讃えた。

 ベルはボッカに隠れながら鼻高々だった。「ボッカは凄いんだから!」と自分のように喜んだ。たくさんの人に囲まれている姿は、まるでおとぎ話に出てくる英雄のよう。小説の登場人物になった気分だった。


*****


 自分なりの戦い方を見つけたボッカは著しく伸びた。どんな魔物でも向かうところ敵なし。噂が広まり、近隣の村から警備や魔物討伐の依頼が届くようになった。困っている人を見捨てられないボッカは西へ東へ奔走した。ベルも勿論ついていった。ボッカを守るためと手助けのためだ。どうやらベルの魔法には、身体能力と魔力が向上する力がある。もう、ボッカを馬鹿にするものなど一人もいなかった。

 周辺にボッカの噂が広がると、今度は都会の街まで話が伝わり、魔物退治の実力者として扱われた。依頼料を貯めた金でボッカは短剣ショートソードを手に入れた。長剣ロングソードより短く、全長八十センチ。切っ先が細く、単純な攻撃力なら長剣の方が上になるが、軽いだけに扱いやすい。魔物のような動き回る獲物に対しては効果的だ。それに身体ができていない少年の筋力に合った武器だ。剣に魔力を乗せて使用するのだから、ますます手に馴染む方がいい。

 魔物討伐の経験を積んでいくと、体力や筋力が追いついていった。実戦が身体を鍛えていったのだ。加えて訪れた成長期は、戦果を柔軟に吸収して一人前の戦士として育んだ。

 三年間、ボッカとベルは魔物に苦しむ人々の元へ駆けつけ続けた。無敗の戦士は勇者と呼ばれ、王都までその名を轟かせた。


*****


 魔物の動きはここ数年で活発になっている。強大な魔力を持つ魔族の王が人間に宣戦布告をしてから、被害は増えていく一方。魔族は闇を好む性質を持ち、光の届かない場所——洞窟や深い森——に生息することが多い。知性を持つ魔族は人間を見下し、まるで害虫のように踏み潰すこともいとわない。世界は震撼しんかんした。魔族に敵うはずはない。最下層に位置する魔物でさえ人間は手を焼いている。

 魔族を統べる王と名乗る者は、太陽が昇らない極夜 きょくやの大地である大陸の北端に根城を作った。力のある魔族を集め、人間たちに恐怖を与えた。

 今は存在しない北の王国の記録に魔王が降臨した様子が残っている。

 最北の空に数多の魔族を従えての者は現れた。見た目は若い青年だが、人間とは寿命が異なるゆえに実年齢は不明。風になびく長い黒髪からは二本のヤギに似た角が生えている。前頭から上後じょうこう方向に伸び、先になるに連れて巻いている。瞳は底知れない輝きを内包した深紅。よく通る低い声で魔王は言った。

「愚かな人間ども。命をもって貴様らの罪を償うがいい。我々に慈悲など持ち合わせてはいない。貴様らの信じる神々に安息を乞うがいい」

 その三日後、北の王国はわずかな記録を残して滅びた。生存者は一人もいない。


 圧倒的な力を前に人々は希望の光を求め続けた。絶大な闇を打ち倒す存在を——時代は勇者を待っていた。

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