客人の月、風待ちの日

鷹羽 玖洋

1.オドの港町――幽霊船

 黒瑪瑙くろめのうの月、星囓ほしかじりの日。


 三度の野宿ののち、ついに人の住む里、うらぶれた海辺の町ポート・オドにたどり着く。

 入江の砂浜に漁師の古びた小舟が並び、差掛け小屋の集合のようだが一応港らしき場所もある。とにかく西からの強い寒風に骨の髄まで苛まれていた。港近くに〈眠る海豹あざらし亭〉なる宿屋を見つけ、すぐに部屋を取る。


 宿の居間は長暖炉の造られた酒場になっており、自分も地元の漁師に混じって暖と夕食を摂った。口の尖った海魚の塩焼きに荒麦あらむぎパン、どこか潮の香る金のバター。素朴だが味はいい。暖めた褐色のエールにジンジャーと干し林檎のかけらを入れた飲み物も美味かった。

 目立たぬよう、隅で飲んでいると男たちの会話が聞こえた。どうも今朝早くに浜に上がった死体の噂をしている。よそ者の自分が疑われずすんだのは、屍がほとんど肉の削げた白骨だったためらしい。

 だが彼らは恐れていた。屍の握った異国ふうの曲刀の刃が昨日磨かれたように輝き、鋭かったこと。骨の指にはまった印象入りの金の指輪が海藻で汚れもせず、鮫に噛まれた傷もなかったこと。

 男らのうち若い一人が、明日、船を出して沖を見に行くと息巻いている。幽霊船には手を出すなという老船頭の警告を鼻で笑って。若者に同調した三人ばかりが血気さかんに立ち上がり、山羊の革袋に血の色のワインをいっぱいに詰めていった。邪魔の入らぬ外で明日の算段をつけるのだろう。

「霧が出るぞ」老爺が呟く。諦めきった顔で、悲しげにかぶりを振って。「また海の妖女が若者に微笑み、深みへ呑み込む……」


 野宿の疲れがかさんでいたか、翌日は昼まで寝ていた。

 宿を出ると濃い霧で、白く濁る視界はさながらミルクの中を泳ぐようだ。だがにおいは生臭い潮香でむせるようだった。浜の方から聞こえていたのは途切れ途切れの呼子らしい。人を探す声もした。誰かの舟が帰ってこないのか。

 あまりの濃霧に自分も出立を延期する。宿の酒場に昨日の男たちは来ず、三日後ようやく霧が晴れて部屋を引き払う。

 浜を見下ろすと人だかりがあり、中央に木切れが散乱していた。小舟の残骸にも見えた。遠く水平線にはまだ灰色のもやがわだかまり、隙をみせれば再び港へ寄りつきそうでもあった。

 船を下りた白骨死体のかわりに、新入りを引き込んだのか。霧の向こう、一瞬鋭い帆柱が見えた気がして慌てて目をそらした。


 正体不明の悪意には不用意に近寄らないのが一番だ。しかし、それは臆病だろうか? 思ったとたん脳裏に、話に聞いた指輪が蠱惑的な蜂蜜色に煌めいた。

 振り切るように歩みを速めた。そう、呪いはこうして人を誘う。ときには海底の泥から現れる冴えた金の輝きで。ときには賞賛と憧れに満ちた、幻の人々の喝采で。


 平凡で淋しいが、たしかに目の前に続く砂利道を、自分は踏み外さぬように気をつけて歩いた。

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